箱の旅

浅羽 信幸

第1話 箱の旅

 箱が一つ、置いてあった。


 窓のない部屋である。唯一の出入り口である扉には、二人の兵が体を硬くして立っていた。第三王女の従者と言う身分を持ってしても立ち入りに入念な調査と質問を重ねられたほどである。


 ため息が漏れる。


 別に、調査されたことに対してではない。箱だ。目の前の箱に対して、不安が勝っているのである。この箱一つ売るだけで、自分の薄給一年分はあるとジジイにきつく脅されているのだ。

 その中身は、などと考えると、白手袋が黒く変色しそうである。


(頑張れ、自分!)


 従者は、自身の給料の大部分をつぎ込まざるを得なかった自身の制服に力を借り、一歩踏み出した。ブーツが地面に当たる。硬い。当然だ。しかしながら思わぬ地面からの反発の強さに足が止まってしまった。


「落ち着こう」


 心臓がバクバクしている。落ち着こう、ともう一度繰り返した。

 幼少のみぎり、恋心を抱いた少女に対して思いを告げる時ですらこれほど心臓はうるさくなかったのではないか。


(さすがにそれはない)


 そうであるならば自分の人生とは何だったのか、と頭を振った。

 そろ、そろ、そろ、と歩き、箱を掴む。良い匂いだ。


「しつれい、しまぁす」


 誰に対して言うでもなく、ほっそい声で従者は箱を持ち上げた。

 まるで箱『様』と言わんばかりにやさしく、それでいて両手でしっかりと持ち運ぶ。


「わたしです」


 こういう時に声が細くなるのは、何という現象なのか。

 扉の向こうでも肩が跳ねた気がして、それから扉が開いた。普通に開いているはずなのに、おそるおそる開いているようにも思えるのだから不思議である。


「ひつれい、しまぁす」


 変な声になってしまった。

 だが、先輩である護衛も「きをつけろよぉ」と小声で言うだけ。


 抜き足。差し足。忍び足。

 自分はしっかりと仕事をしているだけなのに、どうしてもこうも偉ぶって立っているだけのジジイは文句を言いたげなのか。


 もちろん、口にしてしまえば解雇である。


 そんなことしてられっか。割に合わない。それぐらいなら、理不尽に耐え、食い扶持を維持できた方が良いに決まっている。


 それに、従者はこの職務に、第三王女の従者と言う立場になりたかったのだ。

 尤も、従者とは騎士ではない。自分で従者を雇う義務も無ければ戦場における装備品の細々とした規定も、自らを飾るマントも無い。社交界にすら出られない。騎士とは貴族であるが、従者はどうやって貴族になるのかもわからないほどの従僕に過ぎないのだ。


 だから、正確には従者は『第三王女の近衛騎士』になりたかったのである。


「しっかり持ってきたな」


 傷は。落として無いな。ぶつけてもいないな。

 ジジイが、そう、詰問調に言葉をぶつけてくる。


 そこまで言うならお前が持て。今からでも、もって献上しろ。


 そう言ってやりたいが、当然言える訳が無い。だから、従者は「ジジイもビビってる」として心の底で笑っておくことにした。


 そのジジイが、小さく滑らかな金属片を取り出し、白木の扉に当てた。十数センチ、ひっかくように下げる。


 上流階級の嗜みらしい。

 無駄が多い方が、何たら。よくわからないが、そういうことだ。


「姫様。アルデュイナ公から贈り物が届きました」


 ジジイが素早く引く。ジジイを殺さんばかりの速度で扉が先ほどまでジジイが居た場所を通り過ぎていった。


「あの箱に傷一つつけてみろ! お前の首ではすまないぞ!」


 扉を開けた女官を、ジジイが叱りつけた。


 尤も、ジジイもジジイで第三王女を叱りつけることができないから弱い立場の者に当たっているだけに過ぎないのだ。ジジイ本人の耳に入れば、下の者を叱り、以て上に立つべき姫様の自覚を促して改善を図っている、だそうなのだが、誰も信じる者はいない。


 ジジイが顎を動かす。


 従者は、些細な抵抗としていけ好かない上司の方へ箱を押し出しつつ、室内に入った。

 ちょっとだけ礼をまごつかせ、箱を危うくしてやろうかとも思ったが、その場合は心臓が持たない。


 従者は箱を第一にややおざなりになってしまった礼を取り、中へと進んだ。


 第三王女の部屋とは思えないほど小さな部屋である。

 もちろん、従者はおろか近衛騎士の部屋よりは大きい部屋だ。窓も大きく、光もしっかりと入ってくる。それでも、ジジイこと傅役の部屋と比べるとどうだろうか、とは思う部屋なのだ。


「お前。姫様に向かってその態度は」

「爺は黙って」


 王女様が口を開く。

 ジジイはすぐに口を閉じ、頭を下げた。従者は一時の快感と、それをあたえてくれた第三王女に心の中で感謝をささげる。ただし、この後にジジイにまたいびられるんだろうな、という暗い影もこびりついていた。


「お義兄様からの贈り物に、貴方の唾がついたら絶対に許さないから」


 まだ少女の面影を残すゆえか、人と比べても大きく丸い目を瞬き一つせずにジジイに向けている。いつもは可憐さの象徴でもあるその目も、今ばかりは恐怖の象徴だ。


 半分血の繋がった現女王の所業も相まって、傅役を始めとする者の体を強張らせる。その中でも、従者だけは箱にも気を取られていた。


 足音が近づいてくる。

 先ほどの冷たい声とは正反対の、軽快な足音だ。


「お義兄様ったら。こんな一級の箱を使ってくださるなんて。本当はレリエンヌよりも貴方が好きです、なんて言われたらどうしましょう!」


 す、と手が軽くなる。

 心も軽くなった。一方で、しっかりと刺さった杭が相変わらず心を地面に着き落としている。


 第三王女の象徴とも言える柑橘系の匂いも、今はただただ気が重い。


 そんな従者の眼前で、くるりと第三王女は回っている。


「そんなこといけませんわ、お義兄様。愛に障害はつきものさ。お姉さまが黙っておりませんよ。壁が高いほど燃えるものだろう? それに、私は欲しい物は全て手に入れるつもりさ。お義兄様。ああ。一生ついていきます!」


『人形遊び』にトリップしていた第三王女が、はしたないとも注意されていた動きで椅子に戻った。うきうきとした様子で机に箱を置き、開けている。


 両手でそっと取り出したのは、手紙。


 匂いを嗅ぎ、またうっとりとしていた。


「そうよね。お姉さまが居なければ、お義兄様は祐筆なんて使わないもの!」


 開いて、またうっとり。

 それから、橙色の透明な液体が入っているように見える小瓶を二つ取り出した。


『オレンジの香水』


 王族ですら簡単に手に入らない高価な代物だ。

 あの小瓶一つで軍団を養えるとも聞いている。


 第三王女が香水ににんまりとしたのは、わずかな間。すぐに手紙を取り出し、ふんふんと鼻歌を歌いながら読み始めた。


 足も、ぱたぱたと動き出す。

 頬は紅潮し、体も小さく揺れ始めた。


 愛嬌満点の姿である。同時に、それは、この場にいる誰にも向けられることは無い。


「謝らなくとも、あの土地くらい差し上げましたのに」


 第三王女の呟きに、ジジイが苦い顔をした。


 従者にも理由はわかる。第三王女とついでに第四王女が手当としてもらっていたはずの大陸側の領地を、女王が講和のためにアルデュイナに差し出したのだ。しかも、テレネレは戦っていない。婚姻同盟にあるラビエハが尊重している神聖帝国がひたすらにアルデュイナに負け続けたのである。領主も多くが捕まり、身代金の捻出のために神聖帝国の各地で増税の嵐が吹き荒れたそうだ。


 しかも、一度捕まえた騎士をまた捕まえても身代金は増えることは無かった。


 これは屈辱だ。騎士としては耐えがたき行為である。アルデュイナ公に全く覚えられていない程度の扱いをされたも同然なのだ。


 自然、自ら身代金を釣り上げて払う領主も出てきた。


 そんなことをしているから、神聖帝国が払えるモノはなくなってくる。これで、ラビエハが勝っていれば話は違ったはずだ。だが、アルデュイナ公が元帥の役を戴いているランティッドにラビエハは負けている。


 そのしわ寄せが、第三王女と第四王女にやってきたのである。


 第四王女に至っては、領地の引き渡しの場に同道し、そのままアルデュイナに亡命する始末であった。


「足りなくなったら言ってください。いつでも贈ります。ですって!」

 第三王女の上機嫌な声が鼓膜を揺らす。


「貴方にあらん限りの愛を。義兄より。ですって!」

 さらに大きな声。


 定型文である。従者は、声を大にしてそう言いたかった。定型文にしても別の文章をつかってくださいませんか、と会ったことも無いアルデュイナ公に言ってやりたかった。


「あらん限りの愛を!」


 くすり、と第三王女が笑う。


「一片の愛すら夫から受け取れていない異母姉様にわけてあげようかしら。ほら、私は異母姉様と違って心が広いから」


 第三王女が鍵付きの箱を取り出した。

 第三王女自ら、である。そして、第三王女以外には誰も触れさせたことが無い箱だそうだ。


 その箱から中身のだいぶ減った小瓶を取り出していた。少量の液体を手に取り、箱につけている。


「走って。女王陛下に。愛しの異母妹が会いに行きますって」


 従者は頭を下げ、静かに外を出た。

 その後は、もちろん息が切れて口の中に血の味がするほどのダッシュである。





 正直、この箱を使うのはもったいない。あの腐れ外道に『下賜してやる』ことすら、神に褒められるほどの聖人君子の行いだろう。


 第三王女はそう自画自賛しながら、胸に抱く箱を愛おしそうに見下ろした。


 事実、愛おしい。

 お義兄様が選び、触っていたモノを、今、自分自身の胸に抱いているのだ。


 ふふ、と笑みが漏れる。

 その幸せそうな顔のまま、第三王女は堂々と謁見の間に踏み入った。


 異母姉である女王は、苦虫を潰したような顔をしている。


「何の用かしら」

 女王の声は冬。宮廷も、雪の夜のようだ。


「妹が姉に会うのに理由がいりまして?」

 なら自分は春ね、と第三王女は思う。


「私だけが庶子だった間、あなた方姉妹は何をしていたのか。思い浮かべたうえでもう一度発言してくださる?」

「妹が姉に会うのに理由がいりまして?」


 即答。


「大体、扱いに関してはお父様に言ってくださる?」


 追撃。


「お異母姉様は心が狭くて顔もおっかなくて。だから妹がお義兄様のところへ逃げたのでしょう? 北方の野蛮人に嫁がせることももう叶いませんね。だって、あっちにはお姉さまがおりますもの。お異母姉様が何をしても勝てないお姉さま。ふふ。処刑の嵐は臆病だから行っているの?」


 トドメ。


 第三王女は、顎を少し上げて言い切った。

 随分と年の離れたような見た目の異母姉は、流石女王と言うべきか。表情に変化はない。


「処刑の嵐だなんて、怖い話をしないでくださる? 教えを知りながら異端に走る愚か者は人では無いのだから、処刑なんて何一つ行われていないのよ。


 それとも、古代帝国の言葉を借りてこう言った方が良いかしら。

『正当な裁きを受けている者の声を、どうして恐れる必要があるのか』、と。


 それに、恐れているのは貴方でしょう? レリエンヌに勝てる訳が無い。そう思っているから、貴方は亡命できなかったのではなくて?」


 第三王女の顎が下がる。

 目も、剣呑に。


「夫に逃げられた奴がなんか言っても、聞こえないわあ」

「あの人は逃げてない。ラビエハで王として即位しなければならなかったから」


「まあ! あの人だなんて他人行儀ね!」

「レリエンヌだって夫の事を『アルデュイナ公』としか呼んでいないわ」


「あら。あら。あら。あれほど嫌いだったお姉さまを引き合いに出さざるを得ないのですかあ?」

「子ができるまでに時間がかかっても、夫婦仲が上手くいっている例として想像しやすいでしょう?」


「ああ! お異母姉様には子供がまだおりませんものねえ」

「声が乱れたわね」


 第三王女は、奥歯を噛み締めた。ぎゅ、と箱を強く抱く。柑橘系の香りが、ふわりと届いてきた。楽しい記憶もよみがえる。姉の、結婚直後の。アルデュイナで過ごした日々だ。


 あそこは、全てが温かかった。穏やかだった。心地よかった。

 それに比べて、此処は何と冷たく陰険で、寒々しい国なのか。


「かわいい顔が台無しよ、アシェイラ」


 女王の、勝利宣言だ。


「せっかくの贈り物を、渡す気分ではなくなってしまいましたわ」


 悔し紛れに言いつつ、箱を前に出した。

 近衛騎士がやってきて箱を受け取る。


 言っておくけど、その箱、あなたの家族全員を売り払っても価値が釣り合わないほど高価だから。近衛騎士全員の首を並べて釣り合うかもねえ。


 第三王女が瞬きせずに告げれば、明らかに近衛騎士の動きが悪くなった。


 そのまま、オレンジの香水をつけた空の箱が女王の下に届けられる。


「お異母姉様とラビエハ王との可愛い子供、お待ちしておりますね」


 口元を隠すようにして言い切り。

 第三王女は、踵を返したのだった。





「陛下。テレネレの女王陛下からの贈り物です」


 その言葉と四人の護衛騎士に囲まれてはいってきたのは、見るからに上物の箱であった。


 騎士たちが顔を見合わせ、しゃがむ。それからしっかりと箱を持ち、ゆっくり、慎重に前にやってきた。なじみの文官が「さっさと机の上を開けろ」と言わんばかりに顔を動かす。


 大事な書類ばかりなのだ。

 にもかかわらず、というのは、やはりその箱の価値によるものか。あるいは中身がもっと大事なのか。


 ため息をはきつつも、ラビエハ王コンコルミージョは書類をどかした。慎重な動きで箱が机の上に乗せられる。ふわり、と香るのは柑橘系の匂い。


(ああ)


 あの可愛らしい義妹の匂いだ。

 今からでもあの義妹の周りを唆し、彼女をテレネレ女王にできないものか。その上でなら、自分はラビエハに籠るようなことをせず、積極的にテレネレに足を運ぶのに。


 仕事である以上、理不尽は仕方ない。我慢しなければならないことも多いだろう。誰もが文句を言えば、何も回らなくなるのだから。


 だが、それでも。


 愛をささやき、子を為すなら、できれば美人が良い。

 家庭を持ち、共に時間を過ごすなら、性格の良い人が好ましい。


 そう思うのは、自然なことなのだ。


(神よ)


 ただし、それは肉欲。少なくとも王はそう考え、すぐに主上の君に謝った。


 十以上年上で、見た目はさらに十も重ねたような女性であっても妻は妻。その妻に愛をささやき、子を為すことは大事な仕事だ。誰にでもできる仕事ではない。自分だからこそ、やるべき仕事だ。神が、自分だからこそできると信じて与えられた試練なのだ。


 十字架を切り、目を開ける。

 箱のふたに手をかけ、持ち上げた。


 中に入っていたのは手紙と馬の金細工。それから、金細工を護るためのやわらかい綿。


『アシェイラが早く私達の子が見たいとおっしゃっておりました。この箱は、その時にあの子が持ってきてくれたものです。テレネレでも最高級の入れ物であり、まさにあなたにふさわしいと思い、使わせてもらいました。腕輪も、一流の』


 文字を流し読みしながら、王は箱の中にもう一度手を入れた。

 確かに、綿に埋もれて腕輪が出てくる。赤い宝玉のはめ込まれた、金の腕輪である。


(趣味が悪い)


 金をかければよいってモノでは無い。

 むしろ、金だけをかけるのは手抜きだとすら王は思っている。


 その点、この箱は素晴らしい。材木に金をかけ、丁寧なつくりにも金をかけている。留め具の数が少なく、それでいて立派な箱なのだ。それにオレンジの香水でもふりかけられているのなら、手間暇は腕輪以上だと言える。


(まあ)


 馬の金細工は、技術の粋ではある。

 人を導くのも王の仕事。女王になりたての年上の妻を導くのも、また伴侶になった者の務め。


 王は、ひとまず返事として馬の金細工を褒めることにした。気を付けるべきは、それ以上に箱を褒めないようにすること。


 億劫な仕事だ。

 後回しにしたい。


 好きでもない相手への気を遣った手紙など、そんなものだろう。


 それでも、先にやらねば忘れるか、忘れられないのなら心にとって大きな負債になることは確実だ。


 だから、王は無理に手を動かした。


(中身のない箱。このまま女王陛下が妊娠しなければ良い、という意思表示でしょうか)


 桃色なことを考えながらも、王の口角は上がらない。真顔のまま、淡々と愛の言葉を手紙に落とし込んでいく。


(ああ)


 領土割譲の謝罪文のところで、手を止める。

 立派だが空の箱とは、即ち第三王女として飾り立てることはできるが領地を持たず僅かな年金暮らしをしていることへの揶揄だったのではないか。そう考えれば、オレンジの香水の匂いもうなずける。それに物を詰めたのは、余計な内政干渉をするなと言う女王の意思か。


(尊重するべきか)


 余計なことは言うまい。女王の事は自分が一番理解しております。離れていても、常に心は共にあります。


 王はそう書き、女王に贈れそうな物の目録を持ってくるようにと命じた。


 正直、喜んでいる姿すら想像したくはない。そのまま迫られるのも地獄だ。行為を行うべき日時は定められておりますだのなんだの言って回数を減らしはしたが、苦痛なのである。


 とはいえ、子が欲しいのも事実。


 血縁的にも大事だ。異端が渦巻くテレネレを正しく導くためにも、必ずや為すべきことなのである。

 それが、自分に与えられた試練であり使命なのだ。


 目を閉じ、わずかに祈る。


 それから、箱を手に取り、文官に渡した。文官の脚が強張る。それでも、王のそば仕えを続けている男は、何とか鏡台までその箱を運びきることに成功していた。


 その様子を視界の端に収めつつ、すぐに見るべき書物と分けられていたモノに手を伸ばす。


「またか!」

 思わず、怒声が出る。


 ガルディエーヌ伯が、ラビエハの保護国であるリヘラ王国の後継者争いに介入してきたと言う知らせであったからだ。


 このガルディエーヌ伯は、隣国ランティッドの貴族である。そのランティッドで実質的な影響力が一番大きいのがアルデュイナ公だ。即ち、この動きはアルデュイナからの挑発でもあろう。


 しかも悪いことに、ガルディエーヌ伯は母親の領地を継承するにあたり、その地で信じる者が増えてきた別の異端を認めているのだ。


 これは、王にとって許し難い狼藉である。

 神を蔑ろにする悪しき行いである。


 異端とは、すべからく火刑に処されるべきなのだ!


 どうしてやろうか。

 思えば、高価な箱が目に入る。


「聖典をあの箱に詰め、アルデュイナに海上輸送しろ。ちょっと勝ったからと言って良い気になるなよ、アルデュイナ公!」


 そうして、王は、憎き公爵に向けて叫び声を上げた。





 剣のふくらみで相手の剣をいなした後、公爵は流れていく相手の横腹に蹴りを入れた。エポラルが体勢を崩しつつも公爵の剣に警戒を示す。直後にルカンとバレーヌの動きが目についた。


 一歩下がり、左手側まで剣を伸ばす。左手が不自由なのだ。当然、三人も知っているし、狙わなくては訓練にならない。エポラルも、既に体勢を整え終えた後。


 ふ、と小さく息を吐く。目は細く。耳は鋭敏に。肌で全てを感じ取れ。


「おや。良いところでしたかな」


 直後の緩い声で、公爵は剣を下ろした。三人も各々剣を下ろす。バレーヌは下ろした後、すぐに礼を取り、ルカンはつまらなさそうに後頭部に手を回す。エポラルは剣を下ろした姿勢のままで公爵の傍に立った。


「テラン卿、何かあったのですか?」

「この箱が、今朝方レンドン港につきましてな。ラビエハ王からアルデュイナ公への贈り物です」


 箱に、目をやる。

 見たことある箱だ。義妹に送った箱と同じである。


「アシェイラ様に何かありましたか?」

「先日も元気に女王陛下にかみついていたと言う報告が草の者から上がっております」


 返事を聞きつつ、老齢の男、テランが両手に持っている箱に手を伸ばした。蓋を取り、エポラルに渡す。


 中身は、聖典。

 ご丁寧に三冊。三紀とも入っている。


「アシェイラを改宗させると言う意思表示でしょうか」

「あの第三王女様がおとなしくされるとは思えませんなあ」


「レリエンヌ様にとって大事な妹です。監視を少しだけ強化してほしいのですが、支障はありませんか?」

「その程度の変更も受け入れられないような計画は、誰かに棄却されてしまいますな」


 ですが、とテランが顔を少し上げる。

「奥方様に直接聞かれた方がよろしいでしょう」


 公爵は、黙って剣を横に出した。バレーヌとルカンが競うように取りに来る。

 どっちが取ったかまでは、確認しない。


「今日帰ってくる予定でしたね」

「既に、戻られております」


 ぬ、と音も無く現れたのは仮面をつけた女性騎士。妻の護衛を頼んでいる者だ。


「どちらにおりますか?」

「先に湯あみをすると。ただし、広い方の浴場を所望でした。それから、訓練が終わり次第アルデュイナ公にお伝えするように、とも」


「いつお戻りになったのでしょうか?」

「いつお聞きになっても、『少し前に』とおっしゃられるかと」


「若様は、お散歩に行ったばかりですな」

 テランが、顎髭をなぞる。


 公爵は蓋を受け取ると、箱の上に乗せた。エポラルが蓋を閉じる。その箱を右手一本で持ち、歩き出した。


 ふさがった腕の代わりに、エポラルが剣となる。道中で変えの下着を持ってくるように言いつけ、公爵は浴場にたどり着いた。


 自ら扉を叩き、返事を待たずに開ける。


「あら」


 愛しの妃は、芸術撃な体のラインが良く分かる夜色のドレスを着たままであった。いや、わざわざ着替えたのだろう。奥では、まさに風呂の水を温めているところであった。


「こんなに早いのでしたら、先に小さな方に入っておくべきでした」


 悪戯っぽく笑い、妃、レリエンヌが書物を置いた。


「出直しましょうか」

「我慢しろと?」


 妃が両手を広げる。公爵は見向きもせずに箱を適当なところに置き、妃を抱きしめた。

 後ろでは、エポラルが退出する音が静かになる。


「ようやく、約束通りアルデュイナ公に選帝侯の座も与えられそうです」

「ありがとうございます」


 ですが、と小さく絞り出しながら公爵は妃から離れた。


「これから、と言う時に愛人を見つけることができませんでした」

「それは、私も申し訳なく思っております」


「いえ。今のままでは失策があった時に非難を受けるのはレリエンヌ様です。貴方を護るための行動が、夫であるのにも関わらずほとんどできていないのですから。責は、私のみが感じるべきでしょう」


 正妻に対しても強く出られて、なおかつ正妻と考えが似ていてもおかしくない。

 そんな女性は、そういないのだ。


「私は心配いりませんよ」

 きゅ、と再び背中に手が回される。胸にも、ほほがついた。


「後継のことを考えればあまりよろしくはないかもしれませんが、アルデュイナ公が一緒にいる時間の方が長いもの」

「それで良いのであれば」


 静かに言って、公爵も妃の背中に手を回す。

 しばらく会えていなかったのだ。息子はさみしがっていたが、それは、もちろん公爵も。


 妃が身じろぎした。熱っぽい顔が上がる。


 そのまま。


「ご用意が整いました」

 侍女の声に、二人は瞬時に顔を離した。

 侍女は何も言わず、風呂の用意係を引き連れて退室していく。


 しばしの、無言。


 入りましょうか、と言うのもまたなんか違う気がして。


「その箱は?」


 言葉を迷う公爵の代わりに、妃がそう切り出した。

 ゆっくりと熱が離れ、妃が箱を手に持つ。少々落としそうにもなっていた。中身の意外な重さか、羞恥が残っていたからか。それは、公爵には分からない。


「ラビエハから送られてきたものです。おそらくはアシェイラに贈った香水を入れた箱だと思いますが、アシェイラを手中に収めたと言う宣言でしょうか?」


「あの子はそんなタマじゃないわよ」


 妃が聖典を取り出し、ぱらぱらとめくり始める。


「改宗させる、という話では?」

「王位継承権第二位の私が健在の内にやったところで、更なる反感を買うだけですよ。ただでさえ参加しなくてよかったはずの戦争に参加して領土を失っているのですから」


「では、その箱にした意図は何でしょうか」


 公爵は妃の後ろにぴったりと立った。

 特に何かを考えていたわけでは無い。ただ、聖典にも手を伸ばしやすく、同時に妃が気になった頁をすぐに見られるから、と言うだけだ。


「テレネレとラビエハの関係が親密であることをアピールしたかったからだと思いますよ」


 妃も、軽く体重を預けてくる。


「一通り目を通した感じでは、何かこの聖典じゃないといけない理由はなさそうね」

「とりあえず聖典を送り付けたかった、ということですか?」


「みんなが聖典を大事にしていることは変わらないのに、少々視野狭窄ではないかしら」

「箱だけ壊して、そのまま送り返しますか?」


 中身は変わらないはずだ、という意味を込めて。

 同時に、アルデュイナにとってこの箱にこだわる必要などないと示すために。


「テレネレ語に翻訳した聖典とラビエハ語に翻訳した聖典を送って差し上げましょう。早く、テレネレ語で政務をとれるようになることを願っております、と一文書いてもらってもよろしいですか?」


「構いませんが、同じ文量の恋文を貴方に書いた方がよろしいですか?」

「もう」

 と、妃が唇を尖らせた。


 軽く顔を近づけ、数秒後に離れる。


「三倍以上でお願いします」

「すぐに埋まりますね」


 箱はどうしますか、と言いながら、公爵は箱を指で叩いた。


「同じ種類で大きめの箱にしてしまいましょう。それから、送られてきた聖典は他の方にも回して念のために確認してもらいます」

「すぐに準備させましょう」


「その前に」

 と、公爵の手を妃が掴んだ。


「乳母から聞いたのですが、あの子が散歩から帰ってくるのには二時間ほどしかないかもしれないそうですね。アルデュイナ公も、鍛錬の後ですから汗を流したいのではありませんか?」


「そう、しましょうか」


 公爵が妃に手を回し、箱に背を向ける。

 アルデュイナから始まった箱の旅は、此処に終わったのだった。

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