夜が好き

夜方宵

第1話 夜が好き

 僕は夜が好きだ。


 けれど僕とは違って、夜が嫌いだっていう人は意外と多い。


 ある人がいうには、夜は暗くて真っ黒でこわいから嫌いらしい。でも僕は、夜がこわいだなんてちっとも思わない。たしかに夜は暗いけど、それが夜だし、変にキラキラしたまぶしさだとか、いやにザワザワした騒がしさがない分、僕の心をとても落ち着かせてくれる。それに夜がたずさえる黒には混じりけのない純粋さがあって、気を抜けばいつだって自分を忘れてみとれてしまうのだ。そんな夜の魅力的な純黒がこわいだなんて、あるはずがない。それに、ときおり吹いた風が夜の純黒をなびかせる様は、僕の知るなによりも美しい。だから僕は夜が好きだ。


 またある人がいうには、夜は冷たくて嫌いらしい。たしかに夜にはひんやりとした雰囲気があるけれど、それが悪いことだなんて僕は思わない。その冷たさが肌に触れると、僕のからだはいつも表面がパリッとつっぱったように緊張する。でもそれは決して僕を嫌な気持ちにはさせない。緊張で頭が真っ白になるなんていうけれど、僕の場合、その緊張は却ってごちゃごちゃしがちな頭の中身をすっきり明瞭にしてくれるのだ。そんな僕に夜の冷たさは心地がいい。僕の中を暴れ回っては内側から攻撃してくる煩わしいすべてを、冷やして固めてくれる冷たい夜。だから僕は夜が好きだ。


 またある人がいうには、夜はつまらないから嫌いらしい。たしかに夜に面白おかしさはないけれど、それでつまらないなんてことは決してない。夜は楽しい。誰かとどこかに出かけて遊び回らなくたって。はしゃぎ回らなくたって。騒ぎ立てなくたって。語り合わなくたって。そんなことをしなくても、夜は楽しい。こうして家で、窓際に寄りかかって、静かに夜を眺めているだけで僕はこんなにも楽しい。退屈なんてするはずがない。きれいで、美しくて、静けさの中に優しさがあって、どこか妖しく謎めいていて、そんな風に夜には数えきれないほどの魅力があるから。つまらなくなんかない。僕は夜が好きだ。


 またある人がいうには、夜は孤独にさせるから嫌いらしい。とんでもないことだと僕は思う。夜は決して僕を孤独にしない。むしろ夜は僕を孤独から救ってくれた。誰も僕のことを理解してくれず、理解しようともしてくれなかった。僕はちゃんと言葉を話しているのに、まるで異界の言語を聞かされているかのようにみんなが首を傾げた。そして気味悪がるような目で、あるいは蔑むような目で僕を見たんだ。僕は孤独だった。そんな僕にとって、夜だけが救いだった。夜の暗い静けさが僕を守ってくれた。夜のひんやりとした優しさが僕に正気を保たせてくれた。夜の果てない美しさが僕の心を満たしてくれた。僕には夜しかない。夜という存在がなければ僕はきっと壊れていた。いつかひとりぼっちに耐えきれなくなって、自分の作品に満足できない芸術家が自らそれを滅茶苦茶にしてしまうみたいに、僕は自分で自分を壊していたに違いないと思う。夜は僕を孤独にしない。だから僕は夜が好きだ。


 僕は夜が好きだ。


 いや違う。僕は夜しか好きじゃない。僕に夜以外は必要ない。

 僕は虚空に向かって手を差し伸べた。


「――好きだよ、夜」


 今まで何度口にしたか分からないその言葉。とうの昔に使い古されてしまったその言葉は、もしも目に見えたのならきっと擦り切れてとんでもなくボロボロだ。にもかかわらずそんな言葉を臆面もなく繰り返してみせる自分はなんて厚顔無恥な人間なのだろうと、僕は自らを軽蔑せずにはいられない。でも、どんなに必死に考えたってこれ以上に僕の本心を的確に表現する言葉は見つからなくて、だから僕は今日もまた同じ言葉を繰り返さざるを得ないのだった。


 そよ風が吹く。開け放っていた窓から家内へと入り込んできた遠慮がちな微風は、そのまま夜の純黒を申し訳なげに撫ぜた。


「――夜も、あなたのことが好きだよ」


 濡れたように艶めく黒い髪を押さえ込みながら、夜は、闇色に染まった景色に目を向けたまま言った。


 冬空に溶ける白い吐息にも似た夜の声は、つつましやかな風にすらいとも簡単に運び去られてしまう。そうして静寂にかえった時間がゆっくりと流れていき、やがて夜はその澄んだ瞳を僕に向けた。


「夜もあなたのことが好き」


 ああ夜。僕の好きなたったひとりの存在。


 可憐ながらどこか陰りのある風采と、消え入るように幽かで儚い声音が、僕をこのうえなく落ち着かせてくれる。風になびく君の黒髪は、やっぱり何にも優ってきれいだ。


「夜――」


 思わず伸ばした手の指先が夜の頬に触れると、生きているとは思えないほどに冷えた温度が伝わってくる。それはたちまち毛細血管を伝っていき、やがてより太い静脈へと流れ込み、ついには心臓へとたどり着いて僕の心を驚かせた。びっくりした心臓はきゅうっと縮こまり、僕は目の冴えるような緊張を覚えた。途端に視界の中にある夜の姿が一層映えて、僕はその美しさに改めて息を呑み、そして愛しさについ目を細めた。


「いつもまでもこうして君に触れていたい。そして君のことを見つめていたい」


「いつまでだってかまわない」


「君は退屈しない?」


「しないよ。むしろ、本当にあなたは飽きないの?」


「飽きるわけない。死ぬまでこうしてたって飽きることはないよ。それくらいに君は魅力的なんだ」


「そう、嬉しい」


 夜はほんのわずかに口許を緩めた。きっと僕以外の誰が見たってその変化には気づかない。けれど僕ならその変化を見逃さない。だって僕は夜が好きだから。


 ああ夜。僕にとって何よりも大切でかけがえのない存在。


「夜、君がいてくれるおかげで僕はひとりぼっちじゃないよ」


 誰も理解してくれない僕を、誰もが不気味がって嘲る僕を、君だけが受け入れてくれたんだ。君のその眼差しが、君のその囁きが、君のその体温が、僕を孤独から救ってくれたんだ。


 僕の手の甲に、夜はおもむろに自分の手を重ねた。


「夜だって同じだよ」


 そう言って瞳を閉じ、甘えるように僕の手のひらに頬を擦りつける夜。その仕草があまりにも愛おしく、そして頬の柔らかな感触が心地よくて、僕は喜んで自らを差し出し続けた。


 やがて満足したらしい夜が目を開き、僕の顔を見上げる。


「夜はあなたが好き」


 夜が僕に向けてくれるその言葉は、何度聞いたって身が震えるほどに嬉しい。ボロボロだなんてとんでもない。夜の「好き」は、そのたびに僕に新しく鮮やかな幸福を与えてくれるのだ。夜もまた、僕の「好き」を受け取るたびに同じ気持ちを抱いてくれているのだろうか。


「僕も好きだ、夜」


 僕は夜の頬に触れる手に少し力をこめた。


「ずっと一緒にいてほしい」


「もちろんだよ。夜はずっとあなたと一緒にいるから」


 そう答えた夜は、わずかに顎を上げると静かに目を閉じた。


 喜びと愛情が込み上げる。溢れそうなこの気持ちを少しでも夜に伝えたい。雑味なく、無垢なこの気持ちを、少しでも。そのためにはどうすればいいのだろう。あるいは夜の中に直接流し込めば、余計なものが混じることもなくなるだろうか。


 だから僕は夜が望むままに、優しく、そして強く口づけをした。


 好きだ、夜――。


 僕の好きで夜の中身を満たしたい。その一心で僕は、無我夢中に夜の奥へ奥へと自分を送り込んだ。酸素を吸うことさえ忘れて。ただただ、ひたすらに。


 少し唇を離す。くらくらするような心地がした。目を開くと、苦しいほどにきれいな夜の顔が僕の視界を覆い尽くしていた。


「好きだよ、夜」


 そう語りかけると、次第に夜の瞳が薄く開かれていく。濡れて恍惚を孕んだ夜の眼差しが、夜を見つめる僕の眼差しと合わさった。


 夜は言った。


「夜も――僕も、あなたのことが好き」


 ああ嬉しい。夜の好きが鼓膜から染み込んで僕の脳をじんわりと溶かしていく。どこか微睡みにも似た快感。これだ、この幸せだけが僕は欲しいのだ。


「ああ、ああ、夜――」


 そして僕は、なおも飽き足らずそれを求めては、再び彼の唇に自身のそれを強く押しつけた――。


 僕と夜だけの世界に、無遠慮に雑音が割り込んだ。

 部屋のドアをノックする音だった。


 唇の逢瀬が断たれる。怒りのあまり怒鳴りつけたくなる気持ちを必死に堪えながら、僕はドアを――その向こうに立つ邪魔者を睨みつけた。


「なんだよ」


 あえて憤りを隠すことなく僕は言った。やや間があって、ドアの向こうから声が返ってくる。


「なにをしてたの」


 どうしてそれをお前に教える必要があるのかと返してやりたかったけれど、夜の前で言い争うような真似はしたくなかった。僕はぐっと唾を飲んで自分を落ち着かせた。


「決まってるだろ。夜と話してたんだよ」


 またしばしの間。


「そう。えっと、お夕食なんだけど」


「いらない。僕も夜もお腹は空いてない」


 一刻も早くふたりの時間を取り戻したかった。とにかく邪魔者を追い払いたかった。逸るあまり夜の意思を確認せずに答えてしまったけれど、でもきっと彼だって同じ気持ちのはずだと僕は思った。


「そう」

 邪魔者はまたも不快な間を置いた。

「それじゃドアの前に置いていくわね」


 いらないって言ってるのに。余計なお世話だと思ったけれど、口には出さなかった。


 と、そこで何故だろう、不意に僕は邪魔者に訊ねてみたくなった。さっきまで思索に耽っていたのが原因だったかもしれない。


「なあ、あんたは夜のことが好きか?」


 これまでで一番長い間があった。


「嫌いよ。夜なんて大嫌い」


 それだけ言って、邪魔者はドアの前からいなくなった。

 明け透けに言い放ってくれた邪魔者に対して腹立たしい感情を抱きつつ、僕は心配になって夜を見やった。しかし彼は、変わらぬ表情で僕のことを見つめていた。


「大丈夫。気にしてないから」


「本当に?」


「うん。あなたが夜を好きでいてくれれば、それでいいから」


 健気なその言葉に僕は一層、夜のことを好きになった。やっぱり僕は夜が好きだ。夜しか好きじゃない。夜だけが僕の世界だ。たまらなくなって、僕は夜を抱きしめた。


「僕は君のことが何よりも好きだよ、夜」


「嬉しい」


 華奢ながらに芯の硬いからだを強く抱く。このままひとつになってしまえたら、なんてことを僕は考えた。でもそんなことはできない。だから僕は、少しでもふたりの隙間が埋まるようにと一生懸命に彼を抱きしめ続けた。


 どれくらいの時間が経っただろう。あまり強く抱きしめていては息が苦しくなってしまうに違いない。僕は我に返ると、そっと夜のからだを自分から引き剥がした。

 なんだか少し照れくさくなって、僕は話題を探す。


「そうだ、夜御飯でも食べる?」


「うん、そうだね」


 夜が頷く。僕は彼に微笑みを向け、それからドアに向かって歩いた。さっきは余計なお世話だと思ったけれど、照れくささを誤魔化す理由になってくれた今となっては、ほんの少しだけありがたいと思った。


 ドアを開ける。邪魔者が言ったとおり、そこには夕飯の載った食膳が置かれていた。


 しかし僕は舌打ちをした。先ほど邪魔者が言った言葉を思い出した。そうだ、あいつは夜のことが大嫌いだと言ったじゃないか。ならばこういった虐めまがいの真似をやることくらい予測できたはずだった。

 でも、それにしたってこれは意地が悪い。


「なんだよ、ひとり分しかないじゃないか」

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