ゼゼル鬼と黒い箱

鳥辺野九

黒い夜に箱


 箱。

 その箱は凶々しいほどに黒かった。この地に自生する蔓の煮汁に浸すヅィドケ染めよりも黒々として、空に浮かぶ月が二つとも隠れてしまった夜の闇を彷彿とさせる。

 以前の夜はそこまで黒くなかった。濃紺の夜空には星々が瞬き、ウムリタの地に小さいながらも眩い光を降らせていたという。遠い昔々の話だ。もう誰も星空なんて覚えてはいない。

 ウムリタの夜には二つの月が回っていた。大小二つの月が夜を照らしている。しかし月齢周期の違いから、一年のうち三日間だけ二つの月が闇夜に消えてしまう周期がある。双新月と呼ばれる三日間の夜は本当の闇が降ってくる。

 贄箱は双新月の夜のように黒い。

 選ばれた町の若衆たちがゼゼル鬼の装束を身に纏って贄箱を担ぎ、オイル灯篭の乏しい光の中を練り歩く。箱に重さは感じない。まだ中に何も入っていない。

 贄箱が街道を練り歩く時、町民は緩々と寝静まったふりをする。雨戸を閉ざし、燭台の火を落とし、息を潜める。ある者は寝台で毛布に包まり、ある者は食卓で手を組み祈りを捧げる。子は母親に抱かれ、父親は黙して酒を煽る。

 贄箱の練り歩きは双新月の三晩続けられる。ゼゼル鬼の装束はヅィドケ染めで繕われており、頭にかぶる三本角の仮面も重いオークの木で掘られている。鬼の格好をした若い衆が交代で担ぎ手を任され、漆黒の夜、無人の町に空の贄箱を担ぐ虚しい音を響かせる。

 三日目の晩、中身が詰められた贄箱の担ぎ手が町を通り過ぎたら、新光祭が始まる。新しい一年の始まりだ。

 生き残った町の人間たちは新たな生活を謳歌する。畑に種を撒け。羊の毛を刈れ。漁に出ろ。炭鉱の新しい坑道を掘れ。忙しい一年になる。

 生き残れなかった町の人間。それは贄箱に詰められる人間だ。

 黒い贄箱は、新しい一年に捧げる生け贄の箱。毎年双新月の三日目の夜、誰かが選ばれる。




「わたし、箱に選ばれた」


 テルエクは俯き気味に言った。

 二人で会って話したいことがある。わずかな時間の逢瀬を求めたのはテルエクの方だった。

 やっと声を絞り出せた。幼馴染のケンライの目を見ていられない。

 二人きり、町はずれの水車小屋で粉挽の仕事をするケンライも小さな声で答えるしかない。


「俺も、今年はゼゼル鬼をやれと言われている」


 少年と少女はそこでようやく見つめ合った。箱の担ぎ手と箱に入れられる者と、三日後の夜には命運を分つ者同士が同じ場所で同じ刻を過ごしている。


「箱に入れられた人って、どうなるの?」


 箱に選ばれた人間が町に戻ってきたことはなかった。炭鉱レトムリア町の長い歴史の中でただの一度もない。

 ゼゼル鬼を演じる箱の担ぎ手もそれは知らされない。ただ何も入っていない箱を担いで二日間町を練り歩き、三日目の夜、中身が詰まった重たい箱を町の神社へ運ぶだけだ。そこから先箱がどうなるか、誰も知らない。


「わからない」


 ケンライは首を横に振った。俯くテルエクの手を握る。


「俺と逃げよう」


「……ダメ。わたしが逃げたら、きっと妹が箱に選ばれる」


「それじゃあどうしろって」


「お別れを言いに来たの。ケンと一緒にいられるのも、あと三日」


 二人の他に誰もいない水車小屋の作業部屋で、テルエクは強く握られたケンライの手をわずかな力で引き寄せた。お互いの体温が温かいと感じられるほど近く身体を寄せ合い、テルエクはケンライを、箱の担ぎ手は箱に選ばれた者を見つめた。


「テルエク。逃げるんだ。箱の中で時を待て」


「どういう意味?」


「俺はゼゼル鬼の一人だ。皆同じ黒装束に大袈裟な角の生えた仮面を被る。誰が誰だかわかりっこないさ。俺がテルエクを逃してやるよ」


「どうやって?」


 考えることをやめてしまった少女は少年の身体を抱き寄せた。粉挽職人である少年の身体は同年代の若者に比べて引き締まった筋肉質で逞しかった。このゼゼル鬼になら、箱の中に詰められて担がれたって構わない。


「箱に穴を開けておく。誰にもバレないように。双新月三日目の夜、箱の担ぎ手はお社へ箱を設置したら神社から降りるんだ。箱だけが残される」


 ケンライはテルエクの肩に手を回して言った。箱に選ばれた少女は毛を刈った羊のように華奢で柔らかかった。この少女なら、箱を担ぐのもそうきついものでもないだろう。


「その時に箱から抜け出るんだ。俺もゼゼル鬼の仮面を脱いだらすぐに神社へ向かう。二人で町から逃げよう。新しい年へ」




 ケンライはゼゼル鬼として、箱の担ぎ手としての働きを全うした。二日間、交代で無人の町を練り歩く。オイル灯篭を揺らし金属音を奏でて、箱の往来を町の人間たちに知らしめる。

 ゼゼル鬼は声を発してはならない掟がある。ケンライはわざとオイル灯篭を取り落とし、静寂の夜に乱れた音をかき鳴らした。

 家の前でそれを聞いたテルエクは寝室のカーテンをこっそりと覗く。

 箱が町を通る時、それを誰も見てはならない。だがそんな掟などもう守る必要はない。明日の夜、少女と少年は町から、箱から逃げるのだ。

 二階の窓から黒に染まる町を覗けば、一体のゼゼル鬼が二階を見上げるようにしてオイル灯篭をかざしていた。




 ケンライは周囲を見計らい、誰も見ていない隙をついてゼゼル鬼の集会所から抜け出した。もともと交代時間だ。皆がゼゼル鬼の三本の角が生えた仮面を被りヅィドケ染めの黒装束に身を包んでいる。誰かがいなくたって、誰が気に留めようか。

 箱はゼゼル鬼の集会所の奥、昼間は光が届かない部屋に設置されている。

 贄箱の大きさは、神輿状の担ぎ棒に乗せて

若い衆が六人で担ぎ上げるほど大きい。不思議なことに異常に軽く、未知の木材で組み立てられているように見えた。

 ケンライは箱に静かに歩み寄り、楽器職人から拝借した小型の鋭いノコギリを差し向けた。

 箱に少女が一人潜れるような穴を開け、それを簡単に外せるよう被せて補修しておく。穴の空いた側をゼゼル鬼として自分が担げば、他のゼゼル鬼たちにバレるはずがない。

 ケンライのノコギリが箱に突き立った。楽器を修理する先の尖った硬い金属製のノコギリだ。箱はいとも簡単に破けた。

 箱に穴が空いた瞬間、集会所の外からひどく硬い金属が引き裂かれるような轟音が響いた。

 何事が起きた? 箱を傷つけたこと、テルエクを逃がそうとしていること、町の掟を破ろうとしていることが何者かの怒りを買ったのか。それほどに大きな破壊音が轟いた。

 集会所の外。町の街道の方向。いや、違う。空だ。月が二つとも隠れた真っ黒い空が破滅音を奏でている。

 思わず外に飛び出したケンライは目撃した。黒い空が割れて落ちてきた。黒い贄箱にテルエクが逃げられるように空けた穴と同じ形で空が割れ落ちていた。

 そしてその穴の向こう側に濃紺の色の壁が見える。小さく瞬く光点が幾つも見える。

 星空だ。黒い空の穴から星が見えた。

 箱の向こうは明るい星空だった。

 テルエクを迎えにいかなければ。ケンライは明るさを取り戻した夜の町を走り出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゼゼル鬼と黒い箱 鳥辺野九 @toribeno9

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説