すり替えられた箱

秋色

The Box

 ――私はとにかく運が悪かったのよ。いつも。だから時折、衝動が起きるの。他人の物と自分の物とをすり替えてみたいってね。そしてそれがたまたまいつも箱だったの――


 婦人は高齢であっても目元涼し気な美しい人で、出された水をまるで紅茶を飲むかのように口にした。着ているラベンダーのスーツも身に付けているアクセサリーも似合っていて、まるで絵に描かれた人のようだと眼の前の男は思った。なのに眼は硝子で造られたように冷たく感じられる。

 ここは警察の取調べ室。白髪混じりの中年の男は長年勤め上げた実績ある刑事だ。やがてその隣に若い新米の女刑事がやってきて座り、メモを取り始めた。



「貴女のした事は遊びではなく、窃盗という立派な犯罪ですよ」


 ――でも代わりにいつも何かを残していくわ。私が持っていった物の弁償を誰かが訴えてるの? それなら弁償するけど。幸いお金に不自由はしてないの――


「あのね、今回の件はお金では解決できない事で、とても複雑な事態になっているんです」


 ――私のせいで?――


「いえ、貴女のせいというか、その箱の中身の性質のせいですね。貴女がどういう意図でそれを盗んだのか、今はそれを明らかにしないといけないんです」


 ――それだとちょっと長くなるかしら。いい?――



「いいですとも」


 ――私の人生で忘れられない箱の一番目は、書道の先生の持っていらした箱なのよ。

 幼い頃から親の方針で書道を習っていたの。とても立派な先生でね。行動も、書くその字も清廉で迷いがないような。

 その先生がいつも持って来られている大きな長方形の缶の箱があってね。花の形をしたクッキーの写真のついた箱なのよ。子ども心にその缶の写真のクッキーが食べたいなっていつも思ってた。

 でも箱の中身は全然違うの。


 箱の中身は先生の大事にしている貴重な筆と、自分で書かれた、生徒のためのお手本なの。お手本は当たり前だけど、どれも素晴らしい字なの。迷いのない筆の運びで書かれた字。

 でもね、子どもの頃は、その箱が憎らしかった。クッキーじゃないものが入ってる箱が。

 それに私は字がちっとも上手くならないから。

 いつも思ってたの。今日こそはあの箱の中に、お手本の代わりに、クッキーが入ってるんじゃないかって。そんな事、あるわけないのにね。


 それから私の人生で忘れられない箱の二番目は、当時付き合っていた人からもらった箱なの。

 結婚も考えているような時期に、小さな箱を出されたら、誰だってエンゲージリングだと思うじゃない?――


「違ったんですか?」


 ――ええ。チョコレートだったの――


「ひどいですね」若い女刑事が言う。「でもなんでわざわざチョコレートを小さな箱に入れて渡したんでしょうね?」


 ――自作の新作のチョコレートだったのよ。彼、洋菓子職人だったから――


「それなら辻褄が合う。きっと自慢のチョコレートの味を見てほしかったんですね」白髪混じりの刑事が言う。


 ――でもその時は、失望しかなかった。だって自分ばかり夢を追って私の夢は置いてきぼりでしょ? 当時はクリスマスイブとクリスマスで大違いって時代だったんだから――


「は?」


 ――二十四と二十五とでは全然違うって意味よ。そして私はクリスマスイブの夜が更けてきた頃って年頃だったの――


「あ、年齢がって事ですね。今じゃ全然そんな事気にしないのに。面倒な時代だったんですね。さっきの小箱も彼の自作のチョコレートと思えば、なんて素敵なんだろうと思いました」


 白髪混じりの刑事が若い子を少し睨んだ。


「すみません。私が語る側じゃなかったですよね」


 ――その後すぐなんですよ。私の最初の犯行は――


「え? 何の犯行ですって?」男の刑事が身を乗り出した。


 ――すり替えよ。彼は、その場で食べた私に、『はい、これは家で食べる分』とご丁寧にもう一つ小箱を渡したのよ。それで帰りにデパートに寄ったの。鬱憤晴らしにね。そこで洋服の試着してて、試着室で何を見つけたと思う?――


「さあ……」


 ――隅に一つの小箱、箱に書かれた店のロゴから宝飾品だと分かる小箱を見つけたの。

 前に利用したそそっかしいお客さんが忘れていったのね。

 私は、さっきのチョコレートの箱とそれをすり替えて、試着した洋服は買わずにしゃあしゃあと売り場を出たの――


「それ、立派な犯罪ですよ」


 ――四十年も前の事なので時効でしょうね――


「その後、どうしたんですか? その小箱を」


 ――どうって事なかったわ。そのデパートの女性用化粧室に入って、小箱を開けたの。思った通り、指輪が入っていたわ。明らかにエンゲージリング。ダイヤモンドのね。私はそれを指にはめてみたの。ちょっと大柄な、はっきり言って太めの女性に贈られた物なのでしょう。ブカブカだったわ。私の細い指にこの指輪は大き過ぎたけど、よく映えて美しかった。でもね、何だか急につまらなくなったの――


「それは盗んだ物だからでしょう?」中年の方の刑事が言う。


 ――いいえ。すり替えたのよ。つまらなくなったのはね、私より太めの女がこんなダイヤモンドのエンゲージリングを贈られるのに、私はもらえなくて、そのおこぼれをこうやって指にはめているなんておかしいと思ったからよ――


 二人の刑事は、顔を見合わせた。あまりに身勝手過ぎる理由に、中年の方の刑事は、思わず軽く首をすくめた。


 ――それでね。指輪を指から外すと箱に戻し、洗面台の上に置いたまま、そこを出て行き、帰ったの。帰ってすぐに恋人に別れようって電話した――


 二人の刑事の口から同時に安堵のため息が漏れた。とりあえず、これはおそらく盗難事件でなく、落とし物の案件として、デパート内では処理されたのだろう。エンゲージリングは、憶えのない所から見つかったにしても、無事に幸せな婚約者の所へ戻ってきたに違いない。


 ――それでね、私がその次にどんな事を思いついたと思う?――


「さ、さあ……」

 さっきまで鋭い目つきをしていた中年刑事は、すっかり勢いをなくし、腕時計を軽く見やった。いつまでこの話は続くのだろうと。



 ――中身の分からない箱を売る商売を思い付いたのよ――


「中身の分からない箱……ですか?」


 ――そう。箱を見て期待に胸膨らませるのは誰にも共通の感情なの。私みたいに中身に裏切られるのもいれば、中身に恵まれ、救われる人もいるのよね、きっと。だったら商売にできないかなってそう思ったの。同じ位の金額のアクセサリーや雑貨を入れ、色とりどりの綺麗な箱に詰めて売るという商売を始めたの。外からは何が入っているか、分からなくして――


「福袋みたいな?」と中年の刑事が言う


 ――そうね。でも福袋は年の初めに限るけど、これは一年中売られるのよ――


「あるいはガチャ?」と若い女刑事が訊く。


 ――そうね。でも箱という形態にこだわってみたの。箱ってわくわくするじゃない? 確かにガチャ、つまりカプセルトイの大手が台頭してからはなかなか商売はキビシクなったものの、かなり儲けたのよ。会社を立ち上げた当初からの社員の一人と結婚し、娘も生まれたわ――


「おお、災い転じて福となすというやつですね」中年刑事はいつの間にか、婦人の話に聞き入っていた。


 ――そうかしらね。でも商売が上手くいき忙しくなると、私は家族を顧みれないようになって、それが原因で不仲となった夫と離婚したの。彼は、幹部だった会社も辞め、自分に懐いていた娘と一緒に家を出て行ったわ――


「人間万事塞翁が馬……ですかね。でもそこから巻き返しがあるんですよね?」若い刑事が希望を込めて言う。


 ――巻き返し? そんなものないわ。さっきも言ったように、ガチャ、つまりカプセルトイは大手の会社があるし、お客さんはみんな手軽なそちらへ流れていくから、売り上げも減っていくばかりで。でも会社を畳むまで、いい思いもしたから満足してる。会社を畳んだら、自分がもう年を取っている事に気が付いたの。それまではみんなからチヤホヤされて、年を取っていっている事に気付かなかったのね。そして若い頃の不摂生がたたったのか、ある日突然倒れたの――


「倒れたんですか?」

「何かの病気で?」

 二人の刑事が同時に尋ねた。


 ――軽い脳梗塞だったの。公共の場所だったので、すぐに病院へ運ばれて幸い大事に至らなくて済んだんだけど――



 聞き入っていた二人は思わず胸をなでおろしていた。



 ――病気の治療をし、リハビリ専門の病院に移って。歩行練習をしたり、積み木を積んだり。革細工の財布を作ったりしたのよ。ああいう所へ行くと、私の年齢じゃ、おばあちゃん扱いされてしまうのね。当たり前だけど。『上手くできましたね』なんて――


「私の父親も脳梗塞で倒れ、リハビリをし、回復しましたよ」と中年の刑事が言うと、若い方も言う。

「ウチのおじいちゃんも去年、脳出血で運ばれて、病院でリハビリをしました。そう言えば積み木、してましたね。楽しかったみたいです。リハビリの療法士さんが孫みたいに思えたって」



 ――楽しかった? そう。楽しく感じる人もいるでしょうね。でもね、私は少し違ったの。何だかつまらなく感じられたの――


「つまらなく? それはあなたにとってのサインですね。何かの始まる……」

 中年の刑事が言った。


 ――そうね。それが次の箱のすり替えへとつながったのよ――



 ――病院のラウンジで、元の会社の部下からお見舞いとして贈られたネックウォーマーがいかにも年寄り扱いされているようで、気に入らなかったの。だから同じラウンジにいた人が孫からもらった贈り物の箱とすり替えたのよ。同じデパートの袋に入っていたから簡単にすり替えられて疑われなかった――


「で、そちらの箱には何が入っていたんですか?」


 ――海岸で拾ったと思われる貝殻がぎっしり詰まっていたの。笑っちゃうでしょ?――


「それで、やっぱりアレですか? つまらなくなったんですか?」中年刑事が訊く。



 ――いいえ。歳を重ねたせいかしらね。その貝殻を見ていると楽しくなってきたの。もう海になんか何年も、何十年も行ってなかったから。貝殻を一つ一つ手にとって海の風景を思い浮かべていたの――


「すり替えられた相手は気付かなかったのでしょうか?」


 ――気付かなかったに決まってるわ。認知症の患者さんだったし――


「ひどいですね」


 ――それに、私の元部下が贈ったネックウォーマーをいつもうれしそうに身に着けていたもの――


「貴女って人は……」


 ――何ですか?――


「いえ何も」

 中年刑事は、眼の前の冷たい眼をした女性が、結果的に誰かを幸せにしてきているのかもしれないと思い始めていた。それとも、周りの人々が彼女より幸せな人々ばかりなのか。


 ――そう言えば、そのリハビリテーション病院のラウンジでくつろいでいる時、テーブルをふと見ると、懐かしい箱があったのよ――



「どんな箱ですか?」


 ――花の形をしたクッキーの写真のついた箱よ。幼い頃、書道の先生がいつも書道教室に持っていらしていた箱。そのクッキーは九州地方の銘菓だったの。病院の人が誰かからお土産でもらったんでしょうね。私はその箱を見た時、自分でも意外な気持ちに気付いたの――


「意外な気持ち?」



 ――ええ。昔は、その箱にお菓子が入っていない事に不満を感じていたのに、病院のラウンジで見た時はね、そんな事、絶対あり得ないのに、そこに書道の先生のお手本が入っている事を期待していたの――


「それで中身は?」


 ――もちろんお菓子。患者さんの家族がみんなに配っていたわ。私は初めてそのお菓子を口にしたの。意外とね、美味しくなかったけど何だか夢が叶った達成感だけあった。だけど私は、あの書道の先生の達筆な、曇り一つない字をもう一度見たいなとその時すごく思ったのよ――



「あの……一つ、訊いてもいいですか?」若い刑事がメモを取っていた手を止め、尋ねた。


 ――何か?――


「昔、カレシからもらったチョコレートは美味しかったんですか?」


 老練の刑事の方は、軽く首を振った。


 ――ええ、とっても。今まで食べたどんな物よりね――

 婦人は初めて微笑んだ。


 もう一人の刑事が話を元へと戻した。

「その病院を出て、貴女は一人で、電車に乗ったのですか?」


「え? 旅行へ?」若い方が尋ねる。


 ――旅行じゃないわ。私は病院を退院すると、故郷の街へ帰る事にしたの。それまで住んでいた所には親しいと呼べる人はいなくて、だから親戚のいる故郷へと帰ろうと思ったのよ。電車に乗って。病気で倒れてからの事なんか思い出しながらね。そうしたらあの人が隣の席に座ったの――


「あの人?」


 ――名前なんて知るわけない。古びたコートを着た、四十才位の女の人。化粧っ気がなくて田舎から出てきたような感じで、ボストンバッグと一つの箱を膝に抱えていたの。その箱をとても大事そうに持っている様子が何だか気になって……――



「それですり替えたのですね?」


 ――はい。私の荷物の中には、同じような箱が一つあったのよ。その中にはね、リハビリの病院で作った革細工の財布や折り紙細工が入っていたの。おばあちゃん扱いされた記憶が思い起こされて、そんな思い出が急につまらなく感じられてきて、私の降りる駅が目前という時、隣の女性がちょうど居眠りをしていたのでその隙に、すり替えたの。ちょうど膝の上の荷物から手が離れていた隙にね――



「それで貴女は、身元引受人になっていた故郷の親戚の家へと行った」


 ――そうよ。仕方ないじゃない。娘からは縁を切られているし。娘だって立場があるのよね、きっと。元夫は再婚して、新しい奥さんがいて、娘の母親でもあるんだから――


「ところがそこへ警察がやって来た。窃盗の容疑がある貴女の所へね。おや、不思議そうな顔をしてますね。今まで盗難届の出ていない事件ばかり起こしてきたのに、なぜ今回に限って盗難届がすぐに出され、警察に呼び出される羽目になったのか、不思議に感じられているのでしょうか? それは私どもにとっても同じように、若干、謎なんですけどね」


 ――まず私の居場所がすぐに分かったのが不思議で――



「それは謎でも何でもありません。甘いですよ。貴女は自分の箱という立派な証拠を残してきているんですからね。その箱の中には、貴女の退院したリハビリテーション病院のロゴの入った物が数点あったんですよ。それに革細工の財布には貴女のイニシャルが。病院に警察から捜査の件と言って問い合わせると、身元引受人の住所を教えてくれました」


 ――それで……なのね。残念だわ。今回ばかりは箱の中身も確認する暇もなかったのよね――


「それなんですが……。では本当に箱の中身をご存じなかったのですか?」


 ――ええ。それが何か。あれがそんなに貴重なものだったの? 意外に軽く感じられたのに――


「あれはですね、人間の骨だったんです」



 刑事の言葉に婦人は一瞬言葉を失った。



 ――でも、普通の箱に入っていたのに。骨壺とかでなく――



「生きていた事になっている十才の娘の骨なんです。事故と事件の両面で捜査している所ですがね、その両方でない可能性もあるんです」


 ――と言うと?――


「娘は重い病気で余命宣告をされていて、自宅療養していたんです。いつ病死してもおかしくなかった。ただそれでも死体放置という事にはなりますがね」


 ――いつから? 何のため?――


「たぶん一年前位前から。その頃から予約していた病院にも現れなくなったし、福祉の職員も子どもに会えてない。死体を放置、というか骨にして持っていた理由は本人にしか分からないでしょうね。たぶん死んだ事を認めたくなく、また離れたくなくて側に置いていたとか。心も病んでいたようです。とにかく罪悪感はなかったと思うんです。そうでなかったらすぐに盗難届なんて出さないですよね? 自分の方の罪が明らかになるのに」


 下を向いた女性は、じっと自分の指先を見つめていた。まるで見えない指輪を見ているかのようだった。何十年も前に他人のダイヤモンドのエンゲージリングを手にして、決して自分のものにはならない事を悟った時のように。


「もういいですよ。貴女があの骨になった女の子の事と全く関係がなくて、ただ箱をすり替えただけだと分かったので。私達は、なぜあえてあの箱が盗まれたのか、普通じゃ盗まれないはずの物が盗まれた理由を知りたかっただけなんです。貴女の半生のお話で、ウラが取れたようです」


 取調べ室を出る前、婦人は平静を装っていた。ただ、先程までの饒舌が信じられないくらい静かだった。それでも部屋を出ていく前に中年の刑事を呼び止めて言った。


 ――あの……。あの箱の中身もやっぱり元の持ち主に返すべきでしょうか?――


「どの箱の中身ですか?」


 ――海で拾った貝殻です――


「海で」という言葉を口にした時、婦人は、そこに白い壁がないかのように、遠い眼で周囲を見回した。まるでそこに大海原が広がっているかのように。



「どこへ返すんですか? 海へ……ですか」


 刑事はその質問の答えを期待していなかった。

 だからその言葉は、まるでシャボン玉のように婦人の周りの見えない海の上空をふわりと浮いて、どこかへ、優しい青さの中へと消えていった。



〈Fin〉



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すり替えられた箱 秋色 @autumn-hue

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