開けるんですか?

透峰 零

「箱をさぁ、開けるのが嫌なんだよ」


 狭苦しい電話ボックスの中で、不意に川崎かわさきがそう零した。時刻は午後六時半を少し過ぎたあたりだが、そこそこの山の中だったので周囲に人影はない。冬というには日が長いが、確か春分の日は来週のはずである。

 早くしないと日が暮れるのに、どうしてこいつはどうでもいい話を始めるんだ。

 ワケの分からんことに付き合わされていた俺はうんざりしたが、さりとて川崎は一応まだギリ友人の枠に収まっている。そんな人間に一対一で話しかけられて無視をするのも、居心地が悪い。

「ふーん、なんで?」

 くすんだ緑色の電話機にもたれ掛かりながら、とりあえず問いかけた。

 川崎は俺の微かな苛立ちにも気づかないようで、受話器をフックから無意味に上げ下げしている。ガチャガチャという耳障りな音よりは微かに大きな声で、川崎が「うん……」と歯切れ悪く答えた。

高峰たかみねのことをさぁ、思い出しちゃうんだよ」

「高峰? なんでだよ」

 予想外すぎる名前に、俺は思わず頓狂な声を上げてしまった。驚いたのか、川崎の手から受話器が滑り落ちる。ぶらぶらと虚空で揺れる受話器を、川崎が拾う様子はない。ただ虚な目で見つめる友人に、俺は小さく舌打ちした。俺のところからは奴の体が邪魔で手が届かないのだ。

「あいつとは、去年の夏休みから会ってないじゃん」

 高峰は俺たちの同級生だった。

 同じ剣道部で、クラスも同じ。ついでに言うと三人とも精神年齢はそこそこガキだったので、つるむのに時間はかからなかった。今になって考えると、馬鹿なことばかりしていた気がする。

 そんな高峰が転校したのは、高校二年生の夏休みのことだった。

 ある日を境に、あいつはぱったりと部活の練習に来なくなったのだ。メールをしても返信はなく、先輩や後輩に聞いても首を横に振られるばかり。仕方なく顧問に聞きに行くと、体調不良だと答えられた。だが次の日も、そのまた次の日も高峰は来なかった。

 そうして彼に会わないまま一週間が過ぎ、あと三日で夏休みが終わるという夏の朝。どこか暗い顔をした顧問から、彼は転校したのだと聞かされた。

「っていうか、あいつ今どこでなにしてんの? 全然連絡つかないしさ、俺たちに挨拶もなんもなかったし。薄情だよな」

 思い出して、俺の苛立ちが加速した。

 問いには答えず、川崎は顔を俯けたままで沈黙している。沈み出した夕日が逆光となって、その表情はよく見えない。暗い陰を落とす友人の体の向こうで、受話器はまだ揺れている。

「覚えてるかな。去年の夏休みさ、俺が度胸試しに行こうって言ったこと。お前は『アホらしい』って来なかったけど」

 川崎の言葉は、またしても要領を得ないものだった。さっきからそうだが、こいつと会話が成立していない。キャッチボールに例えるなら、俺の投げたボールが何一つまともに返ってこないのだ。

「覚えてるよ。昔、殺人事件のあった団地だか廃墟だかってやつだろ。幽霊が出るとか噂の」

 川崎は昔からそういうオカルトだか都市伝説だかが好きだ。かくいうこの電話ボックスも、部活終わりにふらっとやって来た川崎に「見てほしいものがあるんだ」とかなんとか言われて、強引に連れてこられて押し込められたものだったりする。自転車で一時間強。我ながら付き合いが良すぎて泣けてくる。

「俺、そこにさ、高峰と行ったんだよ。ちょうど今ぐらいの時間に。団地っていってもほとんど人は入ってないしさ、噂の部屋もなんでか鍵が開いてて、俺たち入れちゃったんだよ。そしたらそこに、あ、あの箱があって」

「川崎?」

 ぶるぶると川崎の手が大きく震え始めた。ほとんど痙攣といってもいいような手の動きに、俺は友人の顔を覗き込む。

 そこには、まだ寒い季節なのにびっしりと汗をかいた蒼白な顔があった。

「へ、変なんだよ。あの箱。壁とか床はみんな埃積もってたり、いたずら描きされたりしてたのにさぁ。あの箱だけ磨かれたみたいに綺麗でチリ一つついてないし、真っ黒で高そうなくせに傷もないんだよ。いたずらもされてないし、誰かが置いたみたいな感じで。そっから音がするんだよ。カリカリって。そしたら高峰の奴がいきなり「開けるんですか?」って聞いてきて。声あいつだったけど、あいつじゃなかったんだよそれ。「開けるんですか、開けるんですか、開けるんですか?」って。俺もう怖くて怖くて、あいつほっぽり出して逃げ出しちゃったんだよ」

 体を折りたたむようにした川崎が、ぐしゃぐしゃと両手で髪の毛を掻き回した。明らかに常軌を逸している姿に、俺は思わず「おい」と腕を引く。なんだか分からないが、この空間に留まっていてはいけない気がしたのだ。

「川崎、やめろ。わかった、わかったから。ドア開けるから、一旦落ち着――」

「やめろっ!」

 悲鳴じみた声を上げて、川崎が俺を振り払った。ほとんど身動きもできないガラスの箱の中で振り回された腕が、したたかに俺の鼻柱を打ち据える。鼻腔の奥で、ツンと鉄錆の匂いが湧き上がった。

「開けるな開けるな開けるな開けるな開けるな開けるんですか開けるな開けるなずっと聞こえるんだよ箱を開けようとしたら箱からあのカリカリって音が開けるんですか開けるんですか開けるんですかって声が高峰の声が今も開けるんですかってカリカリって開けるんですか開けるんですか開け」

 息継ぎもなしに唾を飛ばしていた川崎が、そこで突然黙り込んだ。例えるなら、壊れたラジオが急に電源を切られたような唐突な沈黙。先ほどまでの狂態ぶりを知っているだけに、落ち着いたからだとはとても思えなかった。

 恐怖で身動きできない俺の前で、だらりと両腕を下げたままゆっくりと川崎が顔を上げる。

「高峰……」

 呆然と、川崎が呟く。だが彼の立つガラス壁の向こうには、切り立った山の斜面しかないはずだ。

 そこで、俺は気づく。違う。あいつが見ているのは、ガラスに映った背後の景色だ。

 俺には、宵闇に沈む鬱蒼と茂った山の木々しか見えない。だが、間違いない。川崎は、その一点だけを見つめていた。

 どれくらいそうしていただろう。

 川崎の口から垂れた涎が、糸を引いて床に小さな水たまりを作るくらいだったから、それなりの時間だったと思う。

「そっかぁ、ここも電話箱ボックスだもんな」

 川崎が言った。声は川崎のものだったが、まるで別人のように落ち着いた声だった。身を屈めた奴は、ずっと放置されていた受話器を掴んだ。フックには戻さず、俺の方に通話口を向ける。


『開けるんですか?』


 受話器から響いたざらざらとしたノイズ混じりの声は、高峰のものだった。

 これを無視してはいけない。

 根拠はないが、そう思った。ごくりと唾を飲み込んだ俺は口を開く。

「開きません」

 答えた途端、受話器を持った川崎の顔が奇妙に歪む。泣いてるようにも笑ってるようにも見える、奇妙な表情の捻れ。安堵したような悲しそうな顔のまま、彼が言う。


「じゃあ、やっぱり俺が開けないと」


 腰を抜かした俺の前で、川崎が背を向ける。

 上げられた腕が扉を押して、ガラスの箱を開けていく。

 呆然とする俺の前で一度も振り返ることなく川崎は山へと消えていった。



 ――それから、俺は彼の姿を一度も見ていない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

開けるんですか? 透峰 零 @rei_T

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ