ちーちゃんの黒い箱

西しまこ

千鶴

 あのね、ちーちゃんが教えてくれたの。痛いことや苦しいことはみんな、ちーちゃんの黒い箱に入れるといいよって。そうしたら、痛くも苦しくもなくて、笑っていられる。


 お父さん、痛いよ、痛い。やめてやめて――千鶴、黒い箱に入るんだよ。そうすれば痛くない。ちーちゃんの黒い箱はどんなことでも受け入れてくれる。お母さんの 冷たい眼差しも学校での突き刺さるような言葉も。

「千鶴ちゃん、いつものりを借りるの、やめてくれる? ママがそれは変だよって言うの。ちゃんと自分のを持って来て。自分のを使って」

「うん……ごめんね」

 母は学校で必要なものもなかなか買ってくれなかった。

「この前もコンパス買ったじゃない!」

「でも、もうのりがなくなって……」

「そんなの、知らないわよ!」

 先生に忘れ物をするなと注意された。クラスメイトがくすくす笑っている。――でも、だいじょうぶ。黒い箱に全部入れるから。ちーちゃんの黒い箱。箱に入れてしまえばいい。そうすれば、千鶴は花のように笑っていられる。


「千鶴の髪はきれいだね」と父が言った。そのときの母の鬼の形相。翌日母に髪を切られた。ざっくりと。千鶴、だいじょうぶよ。髪を黒い箱に入れてしまえばいい。ちーちゃんはいつも励ましてくれる。

 ちーちゃんの黒い箱に全て入れる。全部全部。そうすれば千鶴はだいじょうぶ。


 そうして、ちーちゃんと共に大人になった。


 時々耐え難い苦しみが千鶴を襲っても、ちーちゃんが何とかしてくれた。ちーちゃん、その手はどうしたの? 赤いよ。黒い箱がね、時々いっぱいになるんだよ、千鶴。そういうときは、手を赤くするの。赤い指先はいつしか黒くなってゆく。そしてまたスペースが出来て、何でも入れてしまえる黒い箱となる。


 千鶴はそうして、黒い箱を抱えたまま結婚をした。

 しばらくはちーちゃんの黒い箱の出番はなかった。千鶴の人生が最も安定していた時期だ。千鶴は安息という言葉の意味を知った。だけど。

 それは突然始まった。

 硬質な音がしてお皿が割れて、その日の夕食は床に散らばった。


 千鶴は最初、何が起こったのか分からなかった。

 だけど、夫の正志の形相を見たとき、ああ、どこかで見たことがあると思った。ちーちゃん、ちーちゃん。ちーちゃん、たすけて! ちーちゃんの黒い箱に入る。痛みはそうして消えてゆく。ちーちゃんが教えてくれたよね。痛くも苦しくもなくなる方法。そうだよ、千鶴。黒い箱に入っていればいい。

 でもちーちゃん、なんだか黒い箱が窮屈だよ。だんだん狭くていっぱいになってきた。入りきらないよ。じゃあね、千鶴。少し、黒い箱の蓋を開けよう。

 それでね、あいつの料理にね、これを毎日少しずつ入れるんだ。毎日だよ。


「千鶴、頭が痛いんだ」

「正志さん、だいじょうぶ? お薬、飲む?」

「ああ――仕事、休めないのに」

 千鶴はせいいっぱい心配そうな顔をした。

「薬が効くわよ、きっと。今日はあなたの好きな生姜焼きにするわね」

「ありがとう、千鶴」

 千鶴はふうわりとやわらかく笑った。

「正志さん、あまり無理しないでね。健康なのが一番だから」


 ちーちゃんの黒い箱に何もかも入れてしまえばいい。

 幸せそうに笑っているでしょう? 

 痛くない苦しくない。

 

 ちーちゃんの黒い箱があればだいじょうぶ。




    了

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ちーちゃんの黒い箱 西しまこ @nishi-shima

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