桜狂い

千織

桜と箏の音に取り憑かれた男

三浦和樹は片田舎から出て、地方都市の大学に入学した。

地方都市とはいえ、県のシンボルとも言える山や大きな一級河川があり、都会すぎず田舎すぎず、ちょうど良かった。


大学は敷地が広い割に街中にあったので、飲み屋にもすぐに行ける。

桜の名所も近くて、早速新しい学友と花見の企画をした。



花見企画の一発目は、大学から自転車で十五分で行ける公園だ。

その公園は、敷地のほとんどが大きな池に占められていて、鯉、鴨、スワンボートがあり、一周するには歩いて三十分はかかる。

その池の周りが桜並木になっていて、地元では有名な花見スポットだった。



暇を持て余している大学一年生が昼間から場所取りをして、早く来た人からもう飲み始める。

和樹は3時くらいから合流して、桜まつりの屋台を冷やかしつつ、ちょっとずつ飲み始めた。




夕方になってきて、周りも賑やかになってきた。

トイレに行きたくなって探していると、5分くらい歩いたところに公衆トイレがあった。


用を足していると、BGMが聞こえる。

”さくらさくら”だ。

なつかしい。

しかも箏の演奏だ。

随分、優雅なトイレだと思った。



花見の場所に戻ると、メンバーが増えていて全員揃ったところだった。

トイレのBGMの話をすると、”公衆トイレなんかに音楽を流すわけない”と言われ、試しに友人が聞きに行った。

戻ってきて言うには、やはり音楽は流れていなかったらしい。

あれはなんだったのか。

いくら寄っているとはいえ、幻聴にしてははっきり聞こえすぎると思った。



♢♢♢



翌日、和樹はまたその公園に行った。


受験勉強で鈍っていた体を動かしたくて、走りに来たのだ。

この池は、散歩やランニングにも向いていて、普段から人はそれなりにいる。

調子良く走っていると、例の公衆トイレに差し掛かかった。



やはり、箏の音色が聞こえる。

幻聴じゃなかった。

曲は、知らないものだ。

すごく激しくて、箏の優雅なイメージが良い意味で崩れた。

だが、トイレのBGMにはふさわしくない。

あんなにせき立てられるような曲では、出る物も出なさそうだ。



その後も、ほぼ毎日ランニングに行き、トイレ前で演奏を聞きながら休憩した。

箏のことは何も知らないし、音楽を理解する感性は持ち合わせてなかったが、不思議とそのトイレのBGMには心惹かれた。

日本人のDNAだろうか。



♢♢♢



1週間ほどで桜は散った。


それと同時にあのBGMも流れなくなった。

花見の時期限定だったんだろうか。



あるのが当たり前だったものが無くなると、なんだか寂しい。

だからといって、箏の曲なんて何をどうしたら聴けるのかわからない。

タイトルもわからないし、有名な演奏者が誰なのかもわからない。

無料動画サイトで検索すると出るには出るが、なんか違う。



あのBGMがいい。

初めて聞くような、でも昔から知っているような。

箏の曲なんて、お正月にスーパーとかで流れているのはなんとなく聞くのがせいぜいだ。

でも、今回、面白い曲がたくさん聞けて、「ちゃんと聞いてみると意外といいもんだな」と思った。

身近な幼馴染の女の子が、いつの間にか女らしくなっててドキッとしちゃった……みたいな感じ?ちがうか。



よっぽど、池を管理しているところに聞いてみようかと思った。

そんなとき、友人からバイトに誘われた。

和楽器の演奏会のバイトだった。

ぜひ、と返事をした。

詳しい人に聞けば何かわかるかもしれない。



♢♢♢



演奏会当日と、前日リハーサルの二日間のバイトだった。


前日のリハでは、楽器をステージに運び、並び方を調整して、決まったら舞台にテープを貼って印をつけていく。

その後、リハーサル演奏があって、また他の団体が入れ替わって……という感じだ。



和樹は舞台袖で資料を確認していた。

楽器は重くないし、ほぼ正座の人なので椅子を運び入れることも少ない。

不慣れな仕事だが、できなくはなかった。

隙を見て、誰かにあのBGMのことを聞こうかと思った時だった。



聞き慣れた曲が聞こえてきた。

あのトイレのBGMだ!!

和樹は急いで客席にまわって舞台を見た。



ソロ演奏だ。

スポットライトの中、一人の男が箏をかき鳴らしている。


男?!


箏と言えば、女じゃないのか?

実際、楽屋を見ればほぼ100%女性だ。



男の指は繊細で軽やかに動いているように見えるが、音色は力強く迫力があった。

一方で、さすが音楽ホールなだけあり、切なげな余韻もしっかり残った。


俺は、箏の音の美しさと、演奏する妖艶な男の姿と、またあの曲が聞けたという感動で胸が震えた。



演奏が終わり、和樹は仕事のことも忘れて拍手をした。

男はこちらを見て、笑顔で会釈してくれた。


舞台袖に急いで行き、彼に声をかけた。



「素晴らしい演奏でした! 俺、初めて音楽で感動しました!」


「それは良かったです。箏ってなかなか聞く機会がありませんから、興味を持ってくれるなら幸いです」


男はにこやかに言った。



同世代くらいに見えるが、やたら落ち着きがある。

周りが忙しそうだったので、それ以上は話せなかった。


パンフレットで名前を確認した。

花菱咲耶はなびしさくや

ネットで検索したら、花菱家は代々、箏と三味線の先生をしているらしく、咲耶は期待の若手演奏家らしい。

道理で、だ。



♢♢♢



翌日の本番は、朝からリハーサルの続きがあり、昼過ぎから演奏会が始まる。



開演前だが、咲耶に贈り物が届いたので渡しに行った。

60人を超える演奏者の中で、箏の男性演奏者は咲耶だけだ。

女性陣が大部屋の控え室で着物に着替えるため、黒一点ともいえる咲耶には個室が当てられていた。



咲耶の部屋をノックすると、本人が出てきた。


「贈り物を届けに来ました」


「ああ、ありがとうございます。昨日は、せっかく声をかけてくれたのに、バタバタしてごめんね」


覚えててくれたんだ。

なんか嬉しかった。


「いえ、こちらこそ、お忙しいところだったのに、急にすみません」


「あの、もし良かったらお昼ここで食べませんか? 見ての通り、女性ばかりでしょう? 1日中、一人でちょっと寂しいんです。お昼だけでも、話し相手になってくれませんか?」


咲耶に誘われた。

願ったり叶ったりだ。

バイトスタッフも、女の子ばかりで気まずかったのだ。


「ぜひお願いします!」


そう返事をして、昼食の時間を合わせた。



♢♢♢



昼休みになり、咲耶の楽屋に行く。

昼休みとはいえ、裏はずっとバタバタしているのでゆっくりはできない。

食べながら自己紹介をした。



「大学一年生の三浦和樹です。和楽器のことは実は全然わからないままバイトしてました」


「それが普通だよ。和楽器に詳しい奇特な人なら演奏者側にいてほしいね。超高齢化業界だから」


咲耶は笑った。



「俺は23歳だから……4歳上かな。見ての通り、箏の演奏が仕事なんだ。」


結構年上なのにそう感じさせないのは、芸術家だからだろうか。

早速だが、あの件を聞いてみた。



「あの、咲耶さんの曲、池の公衆トイレのBGMになってますけど、有名な曲なんですか?」


「公衆トイレのBGM?」


俺は花見をした日のことや、ランニング中の話をした。



「あはは! それは俺だよ!」


咲耶は大笑いした。



「え? そうなんですか?」


「俺の家が、そのトイレの近くなんだ。俺の練習を聞いてくれてたんだね」


そういうことか!

言われて見ればなんてことはない。

そりゃ公衆トイレのBGMにしては高尚だな、とは思ったよ。



「すみません……トイレのBGMだなんて、失礼なことを……」


「何も失礼じゃないよ。聞いてもらえて嬉しいな。特に一般の人ならなおさら。先生や習ってる人なら聴き合うけど……そんなに毎年新しい人が来る世界じゃないから、いつも同じメンツになってしまうんだよ。正直、マンネリなんだよね」


咲耶は苦笑しながら話を続けた。



「良かったら、連絡先交換しない? 俺、男友達がすごく少ないんだ。女性が大半の世界にずっといるから」


和樹はもちろんOKして、連絡先を交換した。



「ホント、俺、世間知らずだから。びっくりしないでね」


咲耶は終始ニコニコしていて、思ったより話好きだった。

凄い演奏家だから、もっとお堅いのかと思っていたらそんなことはなく、人懐こかった。

女性の世界で可愛がられてきて、そうなったのかもしれない。



♢♢♢



演奏会は咲耶の番になり、和樹は客席に忍び込んで立ち聞きした。

咲耶の袴姿は凛々しかった。

箏の音色で、会場は幻想的な空気に包まれる。



演奏が終わると一段と大きな拍手が鳴った。

咲耶の演奏はいわゆるレベチで、箏を知らない人でも聴いたら唸るだろう。

こんな身近に素晴らしい芸術があるとは思わなかった。



箏にも惹かれるが、咲耶と友達になれたことにも胸が高鳴った。

演奏後はそれぞれバタバタして話せなかったが、帰宅してからメッセージを送った。

すぐ返信が来て、今度一緒にごはんを食べに行くことになった。


まだお店のことはよく知らないと伝えると、咲耶のおすすめのお店に連れて行ってくれることになった。




♢♢♢




最初はごはんや飲みに出かけることが多かったが、段々に和樹のアパートで宅飲みすることが増えた。

和樹がつまみを作ってだらだらと話し込む。

和樹が忙しいときは、咲耶が洗濯をしたり掃除をしてくれるようになった。



和樹が運転免許を取ってからは、咲耶の車を借りてドライブにも行った。

咲耶はペーパードライバーで、免許証はただの身分証明証と化している。

車を自由に使っていいと言われたので、その分、咲耶の細々した送迎をしてあげた。




秋には、咲耶が京都で行われる箏の勉強会に行くことになり、和樹も便乗して行った。

もちろん勉強会がメインなので、観光の時間は少なかったが、有名な寺社仏閣を見たり食べ歩きをしたり、楽しかった。


伝統が息づく街に、咲耶の浮世離れした雰囲気はよく似合っていた。

咲耶はたしかに世間知らずで、スマホは滅多に触らず、使うのは電話とメッセージだけ。

流行り物は全くわからず、文学好きで歴史や古典が強い。

ファーストフードは食べないし、ラーメンですら人生で数えるほど。

服や小物はやたら高級で、母親が勝手にブランドものを買ってきて、何とも思わず使っているらしい。

そう、なんか公家感があるのだ。



咲耶の得意分野と和樹の守備範囲がことごとく違うので、延々と話は尽きなかった。

咲耶はいつも上機嫌な男で、ずっと一緒にいても飽きないし疲れない。

本当に不思議な人だった。



♢♢♢



2回目の花見の季節は、咲耶と池の周りを歩いた。

身近な場所で何度も来ているのぬ、桜が咲くと急に日常感がなくなる。

桜の季節が短いからだろう。



「”さくらさくら”をうたってみて」


急に言われて戸惑ったが、うたってみた。



「日本の音階って、西洋の音楽とちょっと違うんだ。歌詞の『さくらさくら』の、『ら』の時の音。和樹の歌声だとちょっと高いんだ」


そう言って、咲耶は正しい音でうたってくれた。

たしかに、『ら』の時の音が低い。



「和樹のさくらだと明るく聞こえて、俺のさくらだと暗く聞こえる。ちょっとの違いだけど、昔の日本人が桜を見て、何を感じていたかわかる気がしないかい?」


そうかもしれない。

満開の桜の美しさと、散っていく儚さ。

また季節は巡るけど、決して同じものではない。

確実に衰えていき、いつかはみんな消えてしまう。



「……今度、何か演奏してよ。俺のために」


「え? そこまで興味あるとは思わなかった。」


「今みたいに解説があると違うじゃん」


「いいよ。じゃあ今度は俺んちに遊びに来てよ」



♢♢♢



それから度々咲耶の家に行った。

咲耶の家はお屋敷だった。

お弟子さんたちの出入りもあって、ダラダラはできないけど、咲耶のお母さんに気に入られて、夕飯をご馳走になることもあった。



咲耶の演奏は、手元が見えるくらい近くで聴くとまた一段とすごかった。

舞台の咲耶が一番いいとは思うが、近くで聴くと迫力がある。

ちょっと絃に触れて音が鳴っただけでも、響きが違う。

演奏会は仕上がった絵画で、部屋で聞く練習は落書き。

上手い人は落書きすら上手い……という感じ。



「今度、この人と演奏するんだ。箏と尺八の二重奏」


チラシを見せてくれた。

イケメンの尺八奏者だった。

次の演奏会にゲストで来るらしい。



♢♢♢



それから、そのイケメン尺八奏者との練習会が何回かあった。

練習場所は公民館だ。


そのイケメンは咲耶との曲の他に二曲出演する予定で、一緒に演奏する女性の演奏者たちもいて賑やかだった。

和樹は咲耶の送迎係をしたが、練習時間が1時間程度で、車で待機するには長いし、用足しするには短いので、一緒に部屋の中に入らせてもらうことにした。



咲耶とイケメンが演奏を始める。

素人が聞いても、息がぴったりなのはわかった。

盛り上がりや掛け合いが、本当に今日初めてとは思えないくらいできている。


一度演奏が終わると、二人が細かな打ち合わせをした。

和樹には何を言っているのかわからない、専門的な話だ。

咲耶はうんうんと頷いて、イケメンからの注文を受けていた。

時々、業界のあるある話や裏話をして笑っている。

二人の世界だ。

咲耶の笑顔を見て、和樹は胸が苦しくなった。



♢♢♢



その日の夜は、イケメン奏者との交流会だった。

会場が咲耶の家からは遠く、帰りに迎えに行くことになっていた。

迎え時刻が近づいてきて、咲耶からメッセージが入った。

急遽二次会に行くことになったから、帰りはタクシーにすると。

和樹は、何時でもいいから迎えに行くよ、と返信した。



二次会は1時間半くらいで終わり、迎えに行った。

車の中で、咲耶は今まで以上に機嫌が良かった。

あのイケメンの活躍や、業界のこれから、演奏会のエピソード。

咲耶の邦楽オタク魂に火がついたようで、饒舌だった。



ゆっくり聞きたいからアパートに寄って行ってと言って、部屋の中に入れた。

一応つまみは作っておいたが、お腹いっぱいだから要らないと言う。

咲耶は、言いたいことを言って満足すると、ポツリと言った。



「やっぱりさ、上手い人って違うよね。こっちも安心して思い切り弾ける。細かいところだからこそ、そこが合うとね、わかってるな!って感じがするんだ。あっちが俺に合わせてくれてるんだろうけど」


なんかイラついた。



「そんな、うっとりとした目で言うなよ」


「え? まあ、結構飲んできたからね」


咲耶がいつものように笑ったが、和樹は笑えなかった。

和樹は咲耶の腕を引き寄せると、そのおしゃべりな口にキスをした。



「和樹……?!」


抱き寄せて、何度も唇を重ねる。

咲耶も最初は抵抗したが、逃げられないとわかると和樹のキスを受け入れた。



「……その、俺、雰囲気が男らしくないから誤解されがちだけど、男は恋愛対象じゃないんだよね……」


咲耶からそう言われて、和樹は泣きそうになった。



「俺だって、つい最近までそうだったよ……! でも、お前があのイケメンと楽しそうにしてて……。俺のわからない話で笑ってるのがムカついたんだ。口を開けばそいつの話だし、わかってるけどさ、嫌なんだよ、お前が他の男とイチャイチャしてるのが!」


「イチャイチャって……仕事だよ! まして、お前からしたらただの合奏だよ? 二次会には行ったけど、他の人もいたし、芸能人に会ってテンション上がった、みたいな話だからさ……」



離れようとする咲耶を和樹は無理矢理抱きしめた。

もう友達には戻れない。

ここでキモがられるか、恋人になれるかの二択しかない。

でも、さっき言われてしまった。

男は恋愛対象じゃないって。



馬鹿なことをした。

一時の嫉妬に負けたせいで、友達ですらいられなくなる。

本当に……俺は馬鹿だ。


和樹は、咲耶を押し倒した。



♢♢♢



和樹が暴走したあの日から、咲耶のメッセージは途絶えがちになり、遊びに誘ってもやんわり断られた。

避けられている。


辛かった。

いつも咲耶のことを考えてしまう。

だからといって、今しつこくしたらもっと嫌われてしまう。

咲耶に会いたい。



3年生になり、その年は花見に行かなかった。

桜を見ると、咲耶のことがより鮮明に思い出されるからだ。

和樹は、インターンシップを入れたり、バイトやサークル活動に精を出して、忙しく過ごそうとした。

咲耶を忘れたかった。



♢♢♢



4年生になった。

サークルの新人歓迎会があの池で行われることになって、和樹は場所取り係になってしまった。


でも、決してあのトイレには近づかない。

もし箏の音色を聞いてしまったら、発狂するだろう。

一年以上経っても、咲耶への気持ちは変わっていなかった。



メンバーが集まり、乾杯する。

適当に飲んだら帰るつもりだった。

この池での思い出は、まだ生々しい。



トイレから戻って来た一年生の女の子が言った。


「もしかして、この近くにお箏教室はありますか?」


和樹なら知ってるんじゃないか?と、話を振られる。



「ああ、あるけど……」


「今、箏の演奏が聞こえてきて。かなりお上手だなと思って聞いてました。私、高校は箏曲部だったんです。続けたくて、教室を探してて。もし、お知り合いなら紹介してほしいのですが……」


無関係になったにも関わらず、和樹は咲耶が褒められて鼻高々だった。

そうだろう、そうだろう。

あいつは凄いんだ、と。

あれだけの腕前なのに、人柄は気さくで、今どきのことはわからなくて、ちょっと天然で、子どものまま大きくなっただけみたいで可愛いのだ。


紹介は少し躊躇ったが、就職は県外を考えているから自分がこの地にいるのもあと一年、振られた後だしこれ以上の苦しみもないだろう。

そう思って、彼女に咲耶を紹介することにした。



♢♢♢



咲耶に連絡をすると、生徒募集をしているとのことで彼女の連絡先を教えた。


和樹は勇気を出して、咲耶を飲みに誘った。

前から咲耶が行きたがっていた店だ。

県外で就活をしていることも伝えた。

これで断られたら、もう連絡先を消そうと思っていた。


いいよ

と、返事が来た。

信じられなかったが、咲耶も丸切り俺が嫌いになったわけじゃないのだろう。

でも、喜びより不安が大きかった。



♢♢♢



早めに着いて、待てずに一杯頼んでしまう。

酔って失敗するのも嫌だが、しらふでは会いづらい。


時間通りに咲耶は来た。


「久しぶりだね。元気にしてた?」


咲耶は変わっていなかった。



「ああ。久しぶり。俺は……就活生やってるよ」


咲耶の笑顔に、緊張は少し緩んだ。



「あの子、紹介してくれてありがとうね。もうかなり弾けるから、本格的にやっていくことにしたよ」


「そっか、それは良かった」


咲耶が飲み物を頼む。

咲耶は漬物が好きで、最初に頼んで半ばにもう一度頼み、最後までかじりながら飲むのが常だった。


適当に近況報告をする。

咲耶にいつもの饒舌さはなかった。

和樹の大したことない大学生活やら就活の話が続く。

そんな話をしたくて誘ったわけじゃない。

あの頃みたいに楽しく過ごせたら御の字だと思っていたが、無理そうだった。


「今から、池のとこを歩かない? 今日は満月だし」


咲耶にそう言われて店を出た。



♢♢♢



空は澄んでいて、たしかに満月が夜空にくっきりと浮かんでいた。

思っていた以上に明るい。

夜のウォーキングの人や、犬の散歩の人もいる。


少し歩き始めて、なんとなく人が近くにいなくなったとき、咲耶が言った。


「あのさ、俺、和樹とは友達でいたいんだ。」


踏みしめた砂利の音が響く。



「あの頃みたいに、一緒に過ごせたらいいなと思ってる」


道が細くなって、和樹が先を歩く形になった。



「期待に応えられないから、変に一緒にいない方がいいかとも思ったんだけど……。あと一年しかないなら、やっぱりこのままお別れは嫌だな、って思ったんだ」


また道が広くなり、咲耶が横に並ぶ。



「……うん……俺も……また咲耶と一緒にいたいと思って、連絡したんだ……」


友達として?

そうにしか、ならないだろう。

咲耶の気持ち的に。

俺に選択肢は無い。



不安だ。

また嫉妬しないか。

咲耶と二人きりの時に我慢できるか。

咲耶と会えない時ですらあんなに咲耶を求めていたのに、本人に触れられないなんて辛すぎる。



「咲耶……今日……来てくれてありがとう。良かったら、これからも”あの時”みたいに付き合ってよ。送迎もするからさ」


和樹は努めて明るく言った。



「うん、じゃあよろしく。母さんもね、和樹を気に入ってたから、来なくなって寂しがってるよ」


そうか、俺が咲耶のお母さんと結婚すれば、咲耶の家族になれるな。

そんなことが頭をよぎった。



♢♢♢



翌年の春。

和樹と咲耶は、咲耶の部屋から池を眺めていた。

青空と水面のきらめきが、桜のうすピンク色を引き立てていた。



「大手に受かってて、なんで辞退したの。もったいない」


咲耶が練習の準備をしながら言う。



「ライフ&ワークバランスを考えてね。」


考えているのは咲耶のことだけだ。

バランスなんか無い。



「まあ、俺は和樹と遊べるのはいいけどさ。」


咲耶が調絃を始める。

あの形の良い耳で、わずかな狂いもなく音を合わせていくのだ。



準備ができて、咲耶が練習を始める。

トイレ付近で、おじいさんが足を止めて耳を澄ます。

若い女の子二人が箏の音だ、と声をあげる。

子どもを連れたお母さんが、これがお箏だよ、と教えてあげる。


そうだろう、そうだろう。

咲耶の演奏は凄いだろう?

和樹は咲耶の横顔を見ながら、鼻高々にそう思った。



(完)

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桜狂い 千織 @katokaikou

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