第2話

 騙された、とエバンは思った。

 天国に病院なんてものは実在しない。寺院に似た建物と鐘。孔雀が五色の毛を美しく輝かせ、飛んでいるだけだ。

「帰ろう」

 これ以上周りを見ても無駄だと身を翻す。すると、妙なものが視界に入った。

 ごみ捨て場のような薄汚い場所で天神の死体が腐って生臭さを引き立てている。

 そこには、薄暗さを消し飛ばすような金糸雀色の麒麟が見えた。風に揺れる小麦色のたてがみは目元まで伸びており、前髪となっている。何より、額から伸びる一本の角と太い眉が特徴的であった。

「天の住民がそこで何をしている」

 そこまで近づいて、エバンは屈んだ。建物の壁に腰を下ろしてぐったりとしてる麒麟は、頭をゆっくりと動かして此方を向く。

「俺は、もうすぐ死ぬのです。実の弟からの暴力に耐えられなかったんだから」

 消えるような声。目は虚ろ。体からは黒い液体が漏れて生気が消えていくのを感じる。エバンは息を呑んだ。助けなければ、と思ったのだ。

「お前の名前は何だ」

 持っていたタオルで液体を拭く。麒麟は荒い息遣いで言葉を絞り出した。

「……クルル……。貴方は……?」

「エバン。いわゆる外科医だ」

 体を拭き終えて抱き上げる。クルルは納得したように目を輝かせた。

「ならグルですね」

 初めて聞く単語に、エバンの動きが止まる。

「何だ、グルって」

 首を傾げてエバンが訊く。クルルは一瞬だけ驚いたような表情を浮かべて、やがて力なく笑った。

「先生ってことですよ」

 それから、エバンは偽名としてグルと名乗った。地上で戦争が起きているのなら、それに巻き込まれないように偽名を名乗るのが効率的だろう。 

 天国から竜界へ戻ることを決意したエバンは、ルシアの家まで翼をはためかせた。しかし、後に驚愕することとなる。何故なら、かつて白かった煉瓦の家は壊されていて、見たこともない場所に湖が出来ているのだ。一体どういうことかと訊くと、クルルは太い眉をひそめた。

「それと、天国に足を踏み入れたものは老いることも、死ぬこともなくなるのです」

 聞いた途端、深い絶望を味わった。周りの人々が死ぬ中で、自分だけ生き続けるのか。それを考えたら胃に穴が空いてしまいそうだ。エバンが無口で黙り込んでいると、心配そうにクルルが耳を垂らす。

「大丈夫ですよ。俺もそうでしょう」

 心配の奥に嬉しさが見える。目を爛々とさせるクルルの目は光がないのに輝いていた。

「それなら良いな。お前、弟からの暴力ってなんのことだ」

 話題をそらすように、エバンは訊く。翼の飛行が少しだけ滑らかになった。

「俺は太陽で、弟は月です。俺は自ら光を発することが出来ますが、弟はできない。それに嫉妬した弟は俺をいじめて太陽になろうとしました。その結果が、夜ですから」

 悲しそうに下を向き、街並みを眺める。山奥からは月が顔を覗かせていた。

「お前が居ないのに月は出るんだな。」

「俺は太陽の命。責任者であって、太陽自体は常にありますからね。照らしてますよ」

 クルルは気弱に胸を張る。足の蹄からは黒い液体が流れ落ちているのにも関わらず、痛がる様子は見せなかった。小さな手の爪だけは鹿の蹄のようだ。傷一つないことがエバンの目に止まった。

(何故だ、何故傷がない?)

 疑問に思いながら地面に足をつける。

 門のインターホンを押すと、黒い狼人が出て来た。執事服を着ている彼は、足音を立てずに近づき頭を下げる。

「申し訳ありません。ルシア様はお出かけになられておりまして……」

 申し訳無さそうにする狼を見下ろして、エバンは小さく溜息をついた。仕方がない。百年経っているのなら出かけていても不自然ではないだろう。家も整理されていて綺麗。生活感はないが、いつか帰る。

 エバンは大きい手を狼に差し出した。

「なら処置具だけでも欲しい」

「はっ、承知いたしました」

 短く返事をして、礼をする。それから素早く処置具を抱えて戻ってきた。

 額には汗が滲んでいる。服は軽く濡れていて、正面から吹かす風が寒く感じた。それを察されまいと狼は処置具を手に持たせる。

「こちらになります」

 落ち着いた声で言い、ふうと息を吐く。エバンはしっかり受け取り頭を下げた。

「礼を言う。門の前を借りていいか」

 すでに出血多量のような状態。クルルの息は途切れ途切れになるばかりだ。狼は大丈夫だと返事をする。中に入れる気はなかった。

「クルル、麻酔をする前に消毒をする。アレルギーはあるか?」

「無いです」

「なら良い、少し痛いが我慢だ」

 袖をまくりアルコール綿で消毒をする。局所麻酔薬を注射にセットして、腕あたりに針を刺した。そして押し子をギュッと押して薬剤を注入すると、痛みはなくなっていた。クルルは驚いたような顔をして黙っている。天国にはこんなものはない。

 エバンは少し切れている腕を生理食塩水で洗い、縫合して包帯を巻く。幸いにも殆どが打撲のため命には関わらないものであった。割れかけの蹄には粘土で固めて包帯で巻く。

「急所は守ったのか、偉い……」

 エバンが道具を片付けながら褒めた。照れくさそうにニコニコとするクルルは、心の底から嬉しそうである。

「えへへ……本能的に守りましたから。ところで、俺はどうしたら良いんですか?」

 不意打ちのように降り掛かった質問に、エバンは動きを止めた。確かに、抱きかかえて来たもののどうするかまでは考えていない。

 処置具を鞄に詰めて、それまでは思考を回転させていた。クルルから見ると、無言で冷たい目をした男だ。なのに、助けてくれた恩師だと思い返事をひたすら待っていた。

「クルルはどうしたい? 俺はお前がどうしようと関係ないからな」

 冷酷に最後の言葉を付け加え、クルルと目を合わせて訊いた。碧色の瞳は揺れることなく動かない。

「俺は貴方に付いていきますよ」

 黒く滲んだ包帯を撫でながら微笑むクルルの姿を見て、エバンは心を痛めた。心臓の真横に針を刺したような痛みは、鋭い。

 ──彼の笑みが笑みに見えなかった。

 それが一番近い答えだった。

「ああ、付いてくるか。なら助手をしてもらいたい」

 鞄を持って立ち上がる。クルルもよろけながら立った。

「助手……?! 俺に出来ますかね?」

 心配そうに瞼を伏せるクルルの髪を撫でる。エバンは心の痛みが治らなかったが、助手にするならしっかり育てようと決心した。その"作り笑い"を辞めさせるためにも、それが良いだろう。

「お前には勉強も教える。マールム医科大学なら合格すれば入れるから大丈夫だ」

 その言葉を聞いた途端に、クルルは表情を明るくした。そして、頬を赤らめて曇りなく笑う。

「なら先生と働けるかもしれませんね!」

「……そうだな」

 エバンは処置具を狼に返して去ろうとした。しかし、呼び止められる。

「す、すみませ……ん。ルシア様は……お亡くなりになられたのです」

 言葉を放ち終わる頃には咽び泣いていた。やがて、ポツポツと事情を話し始める。

「き、貴殿が天国に行ったときには……ルシア様は戦争に出て……戦死……しました……。帰るときまで……私に家を託されて……貴殿の家は既に造られています……そのこと、伝えようと思ったんですけど……」

 黄色い目から涙がこぼれ落ちる。エバンはただ、頷くだけだ。

「……そうか。戦死したのなら、ご立派だな。その家は何処だ」

 狼は短く返事をして懐から地図を取り出した。

「海の見える場所です。……では、私はこれで失礼」

 狼が泣きながら家へ戻る姿を見て、背が淋しいなとエバンは思った。隣で付いていけていないクルルは耳を垂らして悲しそうにしている。

 そんなクルルの手を引いて、二人は地図の場所へ向かった。

「ここですか?」

 横にも縦にも広い煉瓦の家……。窓は大きく見通しが良さそうであった。中に入ると、エバンは靴紐を解いて脱ぐ。蹄のクルルは不思議そうにそれを見ていた。

 木の廊下を進むと、奥にコンクリートの階段があることに気がつく。

「地下室か。いいな」

 階段の下を覗くと、地下室が広がっていた。階段を降りると扉があり、開けばベッドと机がある。「寝室するぞ」とクルルに言えば「贅沢でしょ」と笑う。何処が贅沢なのだ、とエバンはムッとした。

 階段を戻り冷蔵庫を開けると、じゃがいもやバター。トマトにキャベツ。食材豊富で新鮮だった。

「何か食べるか?」

 背後のクルルに問う。すると、とんでもない答えが帰ってきた。

「食べる? ゴミがあるのですか?」

 冗談ではない。首を傾げて真剣に訊いている。

「お前は黙って座れ」

 エバンが怒りのあまり冷たく言うと、クルルは床に座った。まるで犬のように。

「違う、そうじゃない」

 クルルの脇に手を入れて持ち上げる。そして椅子に座らせた。

「スープでも作るから待て」

 小さく頷くクルルを見て、エバンは信じられないと思った。彼はまともなものを食べたことがない。すぐにでも栄養を取らせなければ。

 鍋に具材を入れて火を付ける。水を入れ、味をつけて……やがて完成した野菜スープからは体を温めるような、美味しい匂いがした。クルルは尻尾を振りながら期待の眼差しを向ける。エバンは二人分のスープ皿に盛り付けて机に置いた。そしてスプーンをクルルに握らせる。

「これを手で持って飲むといい。熱いから息を吹きかけて」

「あ、はい……」

 クルルがスプーンですくって、息を吹きかける。そして飲み込むと頬を赤くして尻尾を強く振った。

「これ、すっごく美味しいです!」

 手を止めることなくスープを飲む。熱いことなんて気にしていなかった。

「体調を崩さないように沢山食え」

 なんて言いながらもエバンはあまり食べていなかった。一日にスープかお茶漬け。そんな生活だったからか、体はスラッとしていた。


 二人が食べ終わりエバンが皿を片付けていると、あることを思い出した。弟、サーフィーのことだ。ルシアが戦死したのなら……まさか……。そんな思いがよぎると耐えきれず、すぐに電話した。

 プルルル、と二コール。その間さえも緊張が走る。プルルル、ともう一度。途端にカチャと音がした。

「はい、サーフィーですけど」

他人行儀な冷たい声で応じる。エバンは安心感に浸って崩れ落ちそうだった。

「サーフィーか?」

 確認のために問い返すと、サーフィーの息を呑む声が聞こえる。そして早口で訊き返した。

「兄ちゃん? 兄ちゃんなの?」

 ああ、と答えれば鼻をすする音が聞こえる。

「兄ちゃん!! 今どこなの、何してるの?!」

 質問攻めのようにして訊かれ、エバンは少しだけ焦った。

「変わらず医者だ。ロザンデールの南端に居る……セラフィス海がよく見える場所だ。今さっき助手が出来たから二人でいる」

 本当に今さっきの出来事だ。しかし、百年も経っている此方の世界からしてみれば、長い年月が掛かっているのだろう。

「助手が出来たんだ。俺はバイトしてるよ。少し乱暴な仕事」

 そう言っておかしそうに笑う。エバンは乱暴という言葉に引っ掛かったが、気にせずに雑談をして電話を切った。


 殺し屋をしているサーフィーは電話を置いて口角を上げる。気づかれても、兄の安全が分かったのならそれでいい。胸にその想いを込めて、片手に警棒を持つ。

「兄ちゃんと話し終わったから、じゃあね」

 手足を縛られ、口を塞がれた鹿人は暴れまわった。しかし、力は天と地の差。振り上げられた警棒で頭を叩かれると、意識を失った。

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獣人医療 ゴミ捨て場の鴉 @baad1207

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