獣人医療
ゴミ捨て場の鴉
第1話
「今やるしかない」
竜人の青年 サーフィーが呟いた。
手に握ったナイフはベッドで寝ている兄 エバンの喉を向いている。だが、いつまで経ってもサーフィーの体を流れる汗は止まらず、今にも足から崩れ落ちそうだった。
「兄ちゃん……ごめん」
覚悟を決めて耳許で小さく囁いた。そしてナイフを振り上げる。エバンの喉を狙って振り下げ……
──ガシッ
突然にしてナイフの持ち手が掴まれる。サーフィーはひやりとして全身の力が抜けた。目線をゆっくり下に向けると、エバンが淡青の瞳を光らせてただ見つめている。薄暗い部屋の中で、渋い赤紫の鱗のみがハッキリと見えた。サーフィーは逃げようとしたものの、体がこわばり上手く動かない。
謝ろうと口を動かしたが、言葉は小骨のようになって喉でつかえた。そのことをエバンは察していたのだろうか。落ち着いた様子で口を開いた。
「……刺そうとしたのか?」
表情は笑っていない。鋭いナイフのような眼差しを浴びせ続けていた。
そんな中で、サーフィーは答えることが出来ずに、俯くことしかできない。頭に重い石を乗せられたように体が動かなかった。そして到頭、手が震え始めた。紺碧で美しい巻き毛は濡れて、汗の水滴が落ちている。怯えたような目でエバンを見たが、すぐに逸らしてしまった。
「お前だと駄目なんだ。俺がやる、やらせてくれ。自由にさせてくれ」
ナイフを奪おうと手に力を込めるエバンに比例して、サーフィーも取られまいと本気で掴んだ。過去に感じたことのない感情が小さな渦になり心で暴れる。サーフィーはそして絞り出した言葉を投げつけた。
「俺は羨ましかったんだよ。だから……消えてほしいと思ったのに。なんで? 自分でそれされたら俺が悲しくなるじゃん!!」
ハッと片手で口を塞ぐ。お互いの手の力が弱まってナイフがベッドの下に落ちた。金属音が小さく響く。
「……何故?」
突然、体をサーフィーに近づけて訊く。変化しない淡青の瞳に躊躇した。エバンのどこを見ても淡く渋い。深みのある色の角。白い服に透ける鱗までもが、心に刺さり躊躇の原因となったのだ。
「………好き……だから」
途切れ途切れの返事を喉の奥から絞り出した。やがて、どっと涙が溢れ慟哭する。エバンは様々な思いを季節のように巡らせ、背を撫でることしか出来なかった。
自分より優れていた兄は、周囲から評価されていた。成績は周囲の人間や学者でも勝てないと言われているほどだ。無論。サーフィーは比べられることが多くなった。狼人や羊人なんかに馬鹿にされては物を隠されたこともあった。今思い返してみれば、悲しみで心が締め付けられる。やがて潰れるのではないかという激痛を味わうことになるのだ。
しかし、エバンは違った。いつも学園から遠い山奥を歩いて帰宅すれば、温かい料理を出してくれたり、ヴァイオリンを弾いてくれる。
サーフィーにとってかけがえのない唯一の兄だった。
憎いのに憎むことができない。心は日々、周囲からの攻撃で粉々になってしまった。土砂崩れかのようにザァと崩れ落ちてしまったのだ。ああ、兄さえ消えればと思えばナイフを握ってしまう。あんなに愛しい兄を、この手で殺めることができるのだろうか。慟哭してる間も憎さと愛しさが戦乱している。頭はよくわからない思考が絡み合っている。だからこそ、目の前にいる兄を見ることさえ恐怖に違いなかった。
エバンは背を撫でていると、ふと思い出が過る。蜜柑畑で遊んでいるサーフィーが襲われたとき、襲っていた男に蜜柑を四個取って投げつけてやったこと。そのとき、サーフィーは不貞腐れていたが嬉しそうに笑っていたこと。ぶわっと鼻をついた蜜柑の匂いは今でも鮮明に残っていた。
あのとき助けていたつもりだった。それが弟にとって辛いものだったのだろうか、と思考を広げる。エバンの肩を借りて嗚咽を漏らすサーフィーの表情を見てみれば、それは明確だった。窓の外から射す月明かりが邪魔に思える。
いっその事見えなくしてくれ。
誰にもわからないように、心の奥深くで呟く。弟さえ幸せになってくれれば、自分の命は惜しまないと強く思った。サーフィーの腰半分を包める程大きい手で首から背を撫でる。やがて、抱き締めた。
「泣いていい。好きなだけ泣け」
静かな波のように言葉を打ち付ける。サーフィーは言われるがままに涙を流し、エバンの胸に抱きついた。何故あんなことをしようとしたのか、思い返してひどく後悔する。自分が許せない気持ちになって、サーフィーは自分を責めるように自らの頬を殴った。
「兄ちゃん、ごめんなさい……。俺、とんでもないことしようとした」
冷静さを取り戻し、頭を下げて謝罪する。エバンは手を離して「俺こそ、気づかなくてすまない」とハッキリ謝った。
「でも……罪悪感があるんだ……」
サーフィーは強く胸を押さえる。激しく脈打つ心臓を押さえるような気持ちであった。
「気にしなくていい。お前は良い子だからな。……もう寝るといいさ」
「うん……おやすみなさい……」
エバンが、ほんの少し口角を上げる。彼は笑うのが得意じゃなく、それで精一杯だった。両親が亡くなったあの日から、どうも笑うことが出来ない。
無邪気に笑えたサーフィーが羨ましかったのだろうと今では思う。泣くことさえ許されなかったあの時代。鳥人のヒナが鳴き声を上げたら崖から落とすような時代を見たエバンは、感情をあらわにすることは崖っぷちに足を踏み出すようなことであった。
けれども、サーフィーのことは可愛らしくて愛してあげたいとは思ったらしい。その感情に不快感はない。たとえ言葉で伝えられなくても無口で抱きしめることだけに、微かな愛情を込めている。
サーフィーが寝息を立てる頃には、夜が明けていた。水平線から太陽が姿を見せて大地を広く照らす。窓からは冷たい風が吹き、カーテンが揺れる。清々しい朝方だ。
なのに、エバンの心には影があった。胸を覆う憂鬱の影は、どんなときも消えない。ただ、それを探ろうとしても、結果が虚しいことだけ分かっていた。
「んん、おはよう」
サーフィーは目を覚まして、隣にいる兄に挨拶をした。太陽が眩しくて目が開かない。布団でもう少し眠っていたい。いろいろな思考が渦巻くが、ゆっくり瞼を持ち上げるとエバンが眠っていることに気がついた。そして、急いで時計に視線を移し仰天する。もう十時を過ぎていた。
「兄ちゃん! 起きて。もう昼だよ!」
耳を劈くような大声を出し、エバンの尻尾を自分の尻尾で叩いた。言うまでもなくエバンが起き上がり、時計を見て驚愕している。すぐに布団から抜け出して、石の階段を下った。部屋まで行くとソファーに腰を下ろす。
「今日って師範が来る日だよね」
暖炉で体を温めながら、サーフィーは思い返した。師範というのは、医者をしている紅い竜人のことだ。一週間に一度だけ勉強を教えに来るらしい。
特に世話になっていたエバンは「師範が来るまでに物を片付けよう」と気合を入れる。掃除といっても、高い天井は届かないので、飛びながら箒でホコリを落とした。まるで小雨のように落ちてくるホコリに咳払いしながらも、サーフィーはそれを拾った。肉球や毛の間に入ったら嫌だと思いながら、ゴミ箱に捨てる。面倒になったら尻尾や翼で集めていた。
「ホコリはもう良いだろう。拭き掃除でもするか?」
「うん。写真とか拭こうよ」
手洗い場から雑巾を出して、蛇口をひねる。音を立てて大量の水が流れた。そこに乾いた雑巾をあてると水に濡れて冷たくなる。そして、それを思い切り絞った。エバンの分まで絞って、天井にいるエバンへ投げつけた。
「写真、写真〜」
鼻歌を歌いながら写真のホコリを拭き取る。もやもやしていた像がハッキリと見えるようになった。両親との家族写真だ。
「懐かしいね、母さんが写ってるよ」
写真入れを手に取り、机を拭いているエバンに見せる。ゆっくりとエバンは振り返り、悲しげに目を閉じた。
「懐かしいな」
机を拭きながら、前までは家族で夕飯を食べていたのにと後悔した。革の椅子も軽く掃除して、窓も綺麗にする。白い街並みの景色が、より一層美しく見えた。掃除が終える頃、丁度扉の開く音がする。
「よっ、お前ら元気にしてたか?」
師範ことルシアが笑顔で手を振る。ロングコートの下に着ている私服は、セーターだった。革靴を脱いで部屋に入るとソファーに腰を掛けた。重みで少し沈む。
「いやあ、大変だったぜ。山が険しいもんでよぉ。飛ぼうとしたけど鳥が邪魔だ」
肩の力を落とすルシアに、エバンは表情を変えずに言った。
「それはご苦労」
「サーフィーとお前はどうだ?」
顎を引いて煙草を咥える。エバンが火を吹いて煙草につけると礼を言った。
「特に何もありませんでしたよ」
冷酷な態度で言う。心底、テンション自体は好きではなかったのだろう。
ルシアはつまらないという表情を浮かべて、白い煙を吐く。高い天井まで立ち上っていた。
「それで、今日の勉強はなんだ」
落ち着いた様子で二人の方に顔を向ける。エバンが淡々と続けた。
「わたしは医学を習いたい。サーフィーは生物が良いとのことです」
「医学だぁ?!」
思わず煙草が落ちるほどに驚愕した。すぐにソファーから降りて、大きな体をエバンに寄せる。
「お前、医者になりたいなら早く言えよ!!」
嬉しさで目を爛々とさせた。サーフィーは聞いたことがないのかと疑問符を浮かべている。
「以前から言ってましたが、覚えていないのですか?」
「う、ううん? そうだったか? とにかく医大出て免許取るためには勉強だな」
はぐらかされて、カチンときたが勉強できるなら良いと怒りを飲み込んだ。この瞬間から、エバンは医学を数年とかけて学ぶことになる。
それから六年後。辺りはすっかり冬となり地面は凍りついていた。空に揺れる冬の月は周囲を柔らかく照らしている。
エバンは免許を取って病院に務めることができるようになった。しかし、彼ら三人が住んでいるロザンデールは大きな戦争になり、人口が一気に減っている。そのことに悩んで、エバンはいつも考え込んでいた。心に重みを足されたような感覚に反吐が出そうになる。そんなとき、ルシアが助言した。
「天にあるセルビラムという病院はお前を受け取ってくれる。そこに行け」
雨が地面に打ち付けるような声で、目はとても真剣だった。しかし、エバンは首を横に振って否定する。心残りと希望が混ざり合って散ったのだ。
「サーフィーを見捨てろと言うのか」
石壁に響く声には、悲しみの色が混ざっている。閉じられた瞼には哀愁さえも感じた。ルシアは白い息を吐いて、痩せたエバンの肩に手を置いた。
「アイツは俺が面倒見てやるからよ、行って来い」
自信に満ち溢れた笑みを見せて、胸を張る。エバンは気持ちを堪えるようにして頷いた。
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