第1話

その、大きな穴倉は、いつからそこにあるのか定かではない。


いつ頃それを見つけたのか、私はもう覚えていない。

気が付いたら、私は何かを持ってきてはその穴倉に放り込んでいた。

時には重いものを、時には掌の中に納まるような小さなものを。

それが何であったのか、今はもう思い出せない。


覚えているのは、そうして私はずっと、小さな安寧を得ていたということだけだ。


そうして、やっと日々を普通に過ごすことが出来ていた。

少なくとも、私はそう認識している。


だから、そこに放り込んでいたのは、私にとって良くないものであったのだろうと思う。

それがあっては、平和に過ごすことが出来ないと思っての行動だったのだから。


けれど、何故だろう。


最近、私はとてもさみしい気持ちになる。

辛い気持ちになる。

それは、決まってその穴倉に何かを捨てた後だ。


いつもならとても楽な気持ちになって、日常に帰ることができたのに、今はもうできない。


それを持っていては生きづらくなるもの、歩いていけなくなるもの、平和に生きていけなくなるもの。

それを捨てている。

それはずっと変わらない。


何故、それらを捨てて、こんなにさみしい気持ちになるのだろう。

泣きたくなるのだろう。

穏便に日々を過ごせるのではないか。

何にも心煩わせることなくいられるのではないか。

誰かと、笑いあっていけるのではなかったのか。


多分、それは間違っていない。


穴倉に、「それら」を捨てることで、私は穏やかに暮らしていた。

心静かに、周りの人たちと、笑顔で。


でも、気づいてしまった。


それは本当に私が望んでいたことだろうか。


穏やかな日々。

心が揺れ動かない日常。

周りの笑顔。


けれど、

私は本当に、心から笑っているのだろうか。


私の周りの人たちの声は聞こえるけれど、彼らは私の声を聞いていない。

それどころか、私自身を見てもいない。

話をすれば反応が返ってくる。

話しかけられることもある。

無視されているわけではない。

逆に、それが怖くて、私はいつでも笑顔を張り付けている。

まるで、仮面のように。

そう、無視されるのが、迫害されるのが怖くて、笑っているだけなのだ。

周りと同じタイミングで笑い、同じ内容の話で涙を流し、同じことで苛立つ。

ただ、迫害を避ける方法を常に探し、その対象に入れられていないことを確かめることに血道を上げている。

当然、思うところがあっても口には出せない。

穏やかな日々を壊したくない。

居場所を、失いたくない。


居場所?


私のどこかに、大きなヒビが入ったような気がした。


私が私のままでいられないところが。

仮面の笑顔を張り付けていなければ居られないところが。

私の声など、聴いてくれない場所が。

常に気を張って注意していなければならないところが。


私の、居場所?


努力して、頑張って、それでも馬鹿にされて。

まるで馬鹿にされることが私のレゾンデエトルみたいな。


あの、場所が?


「くそっくらえだ」


口から零れ落ちた、呪文のような一言で、何かが私の中で音を立てた。

ごぼり、と、私の口から真っ黒いものが噴き出して、床を汚す。

それはじわじわと広がって、大きな円を描いた。

あの、穴倉のようだと思った。

そう思うと、そこから次々と影のようなものが飛び出し始めた。

いくつも、いくつも。

それは、私が長い年月の間、穴倉に捨ててきたものだ。

それがいっぺんに噴出していく。

まるでパンドラの箱だ。

それなら最後に出てくるのは希望なんだろうか。


否。


私は噴出したものを見上げた。

それは、私が捨ててきた、私自身そのものだ。

確かにそれらは、ある種の災いなのかもしれない。

けれど、それらも確かに私だ。

最後に残っているのが希望なんじゃない。

私が捨ててきた、迷いや、哀しみ、怒り、痛み。

それらのすべてが、希望になるのだ。

それらこそが、希望なのだ。

そう私が認識した途端、影は次々と光へと姿を変えた。


私は手を伸ばし、そっと微笑んだ。

今度こそは、自分の笑顔で。

解放された「私」たちは迷うことなく私に「還って」来た。

私はそれを抱きしめる。

これからも、幾度も手放したくなるかもしれない。

永遠は誓えない。

けれど、きっとまた、還る。


そう、これが「私」

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