黒檀の箱

九十九

黒檀の箱

 箱よ。深く埋め込んだ箱よ。

 箱の中に中に入っていたのは。


 黒い箱があった。黒檀の箱。女の細い両腕に収まる箱。

 箱はある日、ぽつりと現れた。前触れはない。ただ、雨が降って水溜りが溜まるように、当たり前の顔をして座敷に置かれていた。

 たった一角だけ障子を開けた部屋の中。影と光が交差する所、飾られた神棚の下、そこに現れた黒檀の箱は陽の光すらその身に吸い込んで沈黙する。

 女が箱を撫でる。冷たい温度が、女の体温でじわりと熱を持つ。

「箱よ。お前はどこから来た」

 問い掛ければ中でからりと音がした。骨の音。焼けて白く残った喉仏の音。

「そうか、お前はあの人か」

 また中で、からりと音が鳴る。

 女はその音を肯定だと受け取って、箱を抱いた。


 女には身寄りが無い。ずっと、ずっと幼い頃、物心もつかぬ時に家の前に捨て置かれた。親の顔も、温度も、どんな手だったのかも、何も知らない。

 女を拾ったのは今暮らしている家の老夫婦で、大事に大事に育てられたが、数年前の草木が眠り始めた秋に二人一緒に亡くなった。

 子の居ない、女とは随分と年の離れた夫婦だったから、随分と可愛がってもらっていたのだけれど、女が好いた男と共に居たいと言った時には、酷く悲しい顔をしていたのを覚えている。

「お前は神様に好かれた子だから。きっと、お相手は」

 しわがれた声が物悲しく揺れる。その言葉の先は紡がれなかったけれど、きっと仄暗い結末だと女は思った。

 女の好いた男は、老夫婦が亡くなって次の年の冬に行方知れずとなった。

 待っていて、と、翡翠の指輪一つ女の元に残して。瞼に、額に、唇に温度を残して。そうして行ってしまった。


 女は日の当たる縁側で箱を撫でる。黒檀の箱は、陽の光を反射して黒曜石のように煌めいた。女の黒髪が藤の花のように箱を覆う。

 箱は女が話しかければ返事をするように、からり、ころり、と音がした。

「今でも好きなんだ」

 からり。

「またあの目が見たい」

 ころり。

 女は微笑み、箱に頬を付ける。じわり、じわり、と箱に移ろう温度が心地良い。

 嗚呼、このまま温度を持ってくれたら良いのに、と夢想する。瞼を閉じれば、いつだって夜を溶かした瞳を思い出す。


 老夫婦の家には変わった神棚があった。神様の居ない神棚。ここにお前の大切なものが帰ってきた時、棚の奥に深く埋めなさいと老夫婦は言っていた。

「私の」

「そう、お前の大切なものだ」

「上手くいけば、きっと、お前の元に大事なものは帰ってくる。その時に、神棚の奥に深く埋めなさい」

「そうすればそれがお前の神様だ」

「私の神様」

「ずっと一緒にいられるだろう」

 老夫婦の目が女を慈しみ見る。

 何を埋めるのか、尋ねても老夫婦は曖昧に笑むだけだった。

 

 音がした。

 意識が気泡のように浮き上がり、ぱちんと弾ける。

「箱」

 腕の中に固い感触がない。未だぼんやりとした意識の中、布団の中で腕が泳ぐ。指先に固い感触は引っかからない。

「どこに……」

 布団を捲って見てもそこには何もない。隣にあった温もりを取り上げられたような、そんな寂しさが胸を突く。暗闇の中、目を凝らして見ても、部屋の中に箱は見当たらなかった。

 己の体温を閉じ込めた布団の中から這い出て障子を開ければ、しんとした夜が広がっていた。風の音も、蟲の声も、ない。窓からはまあるい月が煌々と廊下を照らしている。

 音がした。からり、ころり、と夜の中で音がした。音の方向は座敷の方だ。

 次いで、ぎいぎい、ぎいぎい、何かの軋む音と、肉が千切れる音がする。

 ぎいぎい、ぶつり、ぎいぎい、ぶつり。からり、ころり。

 女は上着を一枚羽織ると、部屋を後にした。


 ぎいぎい、ぶつり。ぎいぎい、ぶつり。座敷に近づくにつれて音は大きくなっていった。

 座敷の中、閉ざされた障子の向こう側に気配がある。何かが二つ中にいる。

 女の細い指先がそっと障子に触れ、横へと引かれた。月の光が、女の指につられて差し込む。

 大きな影が二つ、中にはあった。天井に届き、体を窮屈に曲げる大きな影。月明かりに照らされれば、二つの黒の中にそれぞれ真紅の色と深緑の色が差す。

 歪な人のような、異形の形をした其々の影は、獲物を奪い合う獣のように互いに牙を向ける。

 神棚に手を伸ばす真紅の腕を深緑が掴み千切れば、真紅も臓腑を抉るように腹を裂く。真紅が深緑の首筋に噛みつけば、深緑もまた真紅の首筋を喰い千切った。

 威嚇し、噛みつき、引きちぎる。影と影が互いに喰らい合い、縄張りを奪い合う獣のように絡み合う。

 真紅の影はしきりに神棚に手を伸ばしていた。深緑を押し退け、叩き潰し、切り裂き、神棚を求める。あの神様の居ない神棚に入りたいのだろう、と女はそう思った。

 対して深緑は、真紅を阻む動きをしている。引き留め、引き千切り、喰らい付く。赤色を床に縫い付け、ふと気がついたように背後を振り向いた。

「あ」

 女から吐息のような声が漏れた。

 目が、見えた。深緑の影、その中に浮かぶような夜の色。あの人と同じ色。

 目が合う。一瞬の静寂。

 だが、次の瞬間には、咆哮を上げながら這い出た真紅の腕が深緑の首を貫いていた。切り裂こうと力が込められた腕。深緑の首からは軋む音が上がる。

 真紅の影が女を見た。独占欲が滲んだ視線。昏い目と目が合えば、唇が歪められた。笑っているのだ。真紅の腕が蠢き、女へと伸ばされる。

 女に触れる直前、深緑が首を貫く腕を引き千切って、真紅の喉元へと噛み付いた。女に気を取られていたのか、大した抵抗も見せず呆気なく真紅は喉元を噛み砕かれる。

 再び地へと縫い付けられた真紅の腕、その鋭い指先は、結局女には届かなかった。


 座敷の中に響くのは肉を千切る音。そうして、骨の音。からり、ころり、と音がする。

 音に女が視線を巡らせれば箱があった。差し込む月明かりの先、深緑の影の足元に、口を開けた箱がある。

「箱」

 女が一歩近づけば、気がついた深緑の影が振り返った。傍の真紅の影は、既に人の形はなく、肉塊となった欠片からは灰が舞うように影が散っている。

 深緑の影と再び目が合った。

 夜を秘めた瞳が女を捉える。その色はずっと焦がれていた色だ。あの人の色。

「お前は、あの人か?」

 静寂の中に女の声が落ちる。

 からり、と音がした。

「そうか」

 女は微笑む。そうして影に触れる。霞のように曖昧で、冷たいのに触れた感触がない。

 見上げれば、影は女の頬を撫でた。次いで、瞼に、額に、唇に、冷たい温度を落としていく。

 じわりと温度が移るのを享受していると、影が神棚を見た。女もつられて神棚を見上げる。

 がらんどうの神棚の扉が開いている。あの真紅の影が開けたのだろうか、中は深い深い闇が広がっていた。

 影は視線を戻し、そうして足元の箱を見る。女が視線を追えば、もう一度神棚に、そうして再び箱に視線を走らせた。

「箱をあそこに埋めるのか?」

 尋ねれば、静かな眼差しで影は女を見る。一秒、二秒。恐らく十の間だけ見つめ合っていた。

 影が女の唇に触れた。そうして箱の中へと身を帰していく。器から溢れる水が逆戻りするように、影は全て箱の中へと収まった。

 最後に夜を閉じ込めた瞳が見えて、箱が閉まる。女が箱を抱き上げれば、からり、と音がして、後には静寂が残った。

 

 踏み台に上り、開いた神棚に手を掛ける。

 覗き込んでみても、夜であるからか神棚の暗闇の中に底は見えない。

 ことりと、棚に箱を置いて一度撫でた後、両手で抱えて暗闇の中へと浸ける。黒檀の箱は、闇に溶け輪郭が曖昧に滲んだ。

 神棚は深く、腕が肘まで飲み込まれてもまだ先がある。深く、深く埋め込んで、暗闇が鼻先を掠めた頃、ようやく何かに箱が当たった感覚があった。

 暗闇の中を見つめる。既に箱の姿は見えない。それでも確かに指先には箱の感触があった。ずっと隣に置いていたその感触を名残惜しむようにして女は箱から手を離す。

 最後に神棚の扉を閉める直前、中からからりと音がした。

 

 神棚に埋めた箱。深く埋め込んだ黒檀の箱。あの人の箱。

 あの日からずっと夜を溶かした瞳が隣にある。

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黒檀の箱 九十九 @chimaira

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