人魚はまだ世界を知らない

一嘘書店

人魚はまだ世界を知らない

 人間の目の届かぬ海の底にて。二匹の人魚が語り合っていた。

 片方は少年の人魚。短い髪は黄金色、波の網目を透かして差す陽光が、青緑の鱗と、黄緑の目を明るく彩る。耳飾りや腕輪の輝きを見れば、その身分は容易に想像できる。彼はこの海域を治める王の息子、つまりは王子で、名をノトといった。

 彼は貝殻で満たされた浴槽に身を埋め、その縁に頬杖をついている。この浴槽は、何やら海に流れてきてノトに発見されたものだ。彼は、風呂という地上の文化にいたく興味を持ち、人間の真似をして貝殻風呂を作った。

 そして今日も今日とて、地上への好奇心は止まない。

「なあリイカ、雨ってなんだよ?」

 思いつきの問いを受けるのは、長い赤髪をもった女の人魚だ。深い紫の瞳は聡明な色を宿す。ノト王子の教育係を任された文官、リイカである。学生の頃、人間の姿になれる薬を飲んで陸の学校に留学した経験も持つ才女だ。

「すごーく簡単に言えば、上から水が落ちてくることです」

「水が落ちる? 難破船の荷物みたいに?」

「あれよりもずっと早いですけどね」

「ふーん……」

 地上ってよくわかんないな、と口では言いつつも、全身から楽しそうな気配が伝わってくる。この王子に少しでも地上を教えたいと、強く望んだときにはもう言葉にしていた。

「今度、見に行ってみますか?」

「え、雨を? いいのか?」

「ちょっとくらい平気ですよ。怖いもの知らずの王子と、おてんばの教育係なんですから。バックには親バカ両陛下もいます」

「……そうだな。よし、決めた! リイカ、僕に雨を見せてくれ! しっかり護衛しろよ!」

「かしこまりました」



 リイカはわざと、強い嵐の夜を選んだ。どうせなら迫力がほしいと思ったのだ。

 王宮の上を泳ぎ、辿り着いた海の果て。ぱちゃんと水面から顔を出すと、水滴が激しく肌を叩いた。初めての感覚に体が固まる。と、瞬間、目を焼く閃光が頭上に走り、耳をつんざく音が轟いた――ノトはそれを、どんな音と言うべきかわからなかった。今まで、似たものすらも知らなかった。とにかく眩しい光と、大きな音だった。

 いつもと違う水の匂いがする。これがきっと、「上から落ちてくる水」の香りなのだ。

 胸が苦しい。空気の中で呼吸しているからか?

 雨。雷。空。雲。

 ノトの内側に押し寄せた感動は、さながら稲妻だった。

「リイカ、リイカ」

「はい」

「すごいな」

「ええ」

「……雨って、冷たいのと、あったかいのがあるんだな」

「……え?」

 雷光と灯台の明かりとに浮かび上がった、ノトの顔。その頬を一筋の水が伝い、光を受けてきらりと反射した。

「……ふふ、ノト様。地上にはね、涙、というものもあるんですよ」

「涙?」

「悲しかったり、嬉しかったり、感動したりすると……目から暖かくて塩辛い水が溢れるんです。海みたいな水が」

「海」

「水の中だと、全部流れて気づかないんですよ。ねえノト様」

 リイカは微笑みをたたえて、普段とは別の塩水に濡れた頬を指の背で撫でた。

「新しい地上のことが知れましたね」

 空気の中にいなければ出会えない海が。

 不思議そうに見つめてくるノトが、どうしようもなく愛しかった。

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