「箱のなかって落ち着くでしょう」と、彼女は言った

丸毛鈴

わたしは、もう逃れられない

「箱のなかって落ち着くでしょう」


 白い一軒家風カフェの、日当たりのよいテラス席。ウッドデッキの横では、街路樹が芽吹いたばかりの緑を揺らしている。その向こうの広い歩道には、機能もデザインも申し分のなさそうなウェアとシューズに身を包んでジョギングをする人、トリミングに手抜かりのない小型犬や、超大型犬を連れた人たちが行きかう。


 明るくて清潔な風景。


 わたしたちをへだてるテーブルは、よく手入れされた天板の木目が味わい深い。なめらかなカップを手にした彼女に、木漏れ日が落ちている。腱が浮いた手に、大ぶりの石がはまった指輪がよく似合う。


 白くてやわらかそうな生地のブラウスは、襟元がスイートピーの花びらのような仕立てになっており、彼女のしっかりとした首筋を優美に飾っている。胸元には、円形のペンダントトップが光るネックレス。たしかイタリアのコロッセオをモチーフにしたというハイブランドのもの。


 そんな彼女が言ったのだ。「箱のなかって、落ち着くでしょう」。わたしは聞き返した。


「箱」

「ええ、箱」

「それは箱入り娘とかそういう……」


 マットなワインレッドの口紅に彩られた唇の端を上げて、彼女がほほ笑む。


「わたし、箱に入れられて育ったから。いまも、落ち着くの」


なんと答えてよいのかわからないままに、手の中のカップで、カフェオレが冷えていく。聞きたいことはいくつかある。子どものころ。育った。いま。箱。何から聞くべきかわからず、カフェオレをひと口飲む。乳脂肪分だけがやけに舌に残る。


 彼女はカップをソーサーに置き、歩道へ目をやった。完璧なカールを描くまつげは、たぶん、マスカラをつけなくても長い。木漏れ日が照らす虹彩ははしばみ色だ。


「大人になって、お金ができたでしょう?」


お金。じゅうぶんなお金。都心にあるカフェで、知り合いの女に一杯千八百円するカフェオレをおごれるほどのお金。


「それで、いろいろためそうと思ったの。子どものときみたいに、みかん箱に入るわけにはいかないから」


いつも見とれてしまう、はっきりとした鼻筋。何かをいとおしむように浮かべるほほ笑み。


「さがして、さがして……。長さがあっても、幅と深さが足りないことがほとんど。木材を入れる段ボールがいちばん大きくて。業務用だから百箱単位でしか買えなくて困っちゃった」


わたしは曖昧にうなずく。


「棺桶も試してみたの。あれも箱、だから。通販サイトで二万円ぐらい」


知ってる? と聞かれて、わたしは首をふる。


「でも、ダメね。あれは……死、って感じが強すぎて」


当たり前ね、と言って彼女が新たに浮かべた笑みには、自虐がにじむ。見たことのない表情が、またひとつ。


「いまも……箱に入るん……です……?」


丁寧語でしゃべるべきかどうか、いまだに決めあぐねて語尾が曖昧になってしまう。


 テーブルに肘をつき、組んだ指の上にあごを乗せて、彼女がいたずらっぽい目をした。


「そう」

「落ち着くの……?」

「落ち着く」


 テーブルの上を蟻が一匹、這っている。どうやってここまで上がったのだろう。どこかぎくしゃくしたその動きを目で追ううち、自然と問いが口をついた。


「寝るときとかに……?」


上目づかいでちらりと彼女を見る。その顔に浮かんだ笑みは、薔薇のようであり、ひまわりのようであり。たぶん、わたしは引き当てたのだろう。彼女の望むことばを。


「そう。毎晩、ね」

「でも、この前は……」


記憶もおぼろげな一夜のことを思い出す。クイーンサイズのベッド、厚くて弾力のあるマットレス。でも、寝室にはそれだけだったはずだ。


「恥ずかしいから隠したの」


そこで急に、彼女が身を乗り出した。カップにのばそうとしたわたしの手が、彼女の手に包み込まれる。思えば、手を握ったのははじめてだ。彼女の指が、もっと繊細なところにふれたこともあるのに。


「だから、ね。頼まれてくれない?」


彼女のはしばみ色の瞳が、まっすぐにわたしを見る。やめてほしい、と思う。心臓が強く打つから。吸い込まれたように、目がそらせなくなるから。


「いつかわたしが死んだら、箱に詰めてほしいの」

「箱」

「できるだけちいさな段ボール箱に」

「ちいさな」


矢継ぎ早に放たれる彼女の願望に、わたしはオウム返しをすることしかできない。


「花なんか入れないで。折りたたんで、ぎゅうぎゅうに押し込んで」


彼女の手が冷たい。思ったよりもずっと骨ばった感触。


「でも、毛布だけは入れてほしいな」


恥ずかしそうに目をそらす。


「ちいさいころから使っているのがあるから」

「ああ……」


わたしは思い出す。アンティーク調のソファにきれいに畳まれて置かれていた、色あせたキャラクターものの毛布。この手がそれを、握っていたのだろうか。いまよりずっとちいさなてのひらで。そして握っているのだろうか、いまも。それを想像したら、思わず彼女の手を握り返していた。


「約束する」

「ほんとう?」


おだやかな春の陽光が照らす彼女の笑みは、蠱惑的であり、少女のようでもある。わたしはその笑みから、もう逃れられない。たぶん、一生。このひとを箱に詰めるまで。


「ほんとう」


わたしが答えると、彼女はひとさし指を自らの唇をあて、そのひとさし指でわたしの唇にそっと触れた。


「やくそく」


わたしは、もう逃れられない。

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