リップ

蒼開襟

第1話

部屋は綺麗、洗濯物も全部干し終わったし、それからキッチンもOK。

彼女は指差し確認をして、綺麗になった部屋を見渡す。

早朝からパタパタと掃除を始め、徹底的に磨かれた部屋は彼女の気持ちを満足させるものだった。

どこか嬉しい気分でソファに座り、テーブルの上に置いてあったオーディオのリモコンを手に取り壁際へと視線を向ける。

チェストの上のオーディオプレイヤーとその傍にちょこんと置いてある小さなカレンダーを見て彼女は声を上げた。


ソファから立ち上がり小さなカレンダーを手に取る。

黒猫のイラストのついたカレンダーには月の日程が細かに書かれているが、そのうちの一つに余白を見つけた。


『今日って何の予定もないんだ・・・。』


彼女は小さくため息をつく。そして手に持っていたオーディオのリモコンをカレンダーと共に置きまたソファに戻る。


誰かと予定があったなら、ああしてこうしてと考えが浮かぶのに急に一日ガランと空いてしまった予定は幸運なのかなんなのか。


『まあ、たまにはこういう息抜きもあっていいのかも知れないな。』


彼女はそう吐き出すとソファから立ち上がりクローゼットへ向かった。



誰かと逢うためじゃないけれどある程度のお洒落をして街へと足を運ぶ。

なんの予定も入っていないせいか、どこか落ち着かないが。彼女が大通りに入るとまだ時間が早いせいか人はまばらな様子だった。


人ごみが少し苦手な彼女はホッと胸を撫で下ろし、ゆっくりと歩き出す。

ガラス越しに見える店内は古い雑貨屋や流行の洋服屋だったり。目移りさせるように右左と見つめながら歩いていると、靴屋の前に見知った顔を見つけた。

すらりとした長身にジャケットそしてジーンズをラフに着こなしていつもとどこか違う雰囲気の彼はそこに立っている。

彼女は口元を緩ませると彼の名前を呼んだ。ふいに名前を呼ばれて彼は顔をあげて彼女のほうを向き微笑む。


『こんにちは。こんなところで出逢うなんてビックリした。学校以外で会うのって初めてだよね?』


彼はそう言っていつものように軽く会釈する。彼とは同じ学校で同じクラスを取っているいわばクラスメイト。

いつもはカチッとした洋服で地味な眼鏡をかけているが、綺麗な顔立ちのためクラスの女性徒たちからは影でヒソヒソと噂されている。


『うん、こんにちは。こんな朝早くから私も出かけることになるなんて思ってもなかったから・・・まあ、早起きは三文の得とか言うじゃない。そんな格好良いのも見れちゃったし。』


彼女はいつもと違う彼のスタイルに嬉しそうに笑う。

それを聞いて彼は片手を胸に当てると少し恥ずかしそうにした。


『わあ、そんなこと言わないでよ。僕もたまにだからドキドキしてるんだし。』


『そうなの?』


『うん、僕はいっつもこう地味じゃない?それでね・・・その僕には姉がいるんだけど彼女がどうしても地味だっていって着せ替えさせられて。眼鏡だって今日に限ってコンタクトだし・・・。』



彼の言葉に彼女は以前一度だけ見た彼の姉の姿を思い出した。彼とは性格も正反対でおまけに抜群のプロポーションと美しい顔。


『ああ・・・あのお姉さん、パワフルだったもんね。でもさ、凄く似合ってるよ。とっても素敵だし格好いいよ。』


彼女が素直に思ったことを口に出すと彼は照れたように笑った。


『うん、ありがとう。それで君は?こんなに早くから待ち合わせとかじゃないの?』


そうふられて彼女はドキッとした。


『ううん・・・それが・・・朝早く起きちゃって掃除してなんだかサッパリしたら

外に出たくなっちゃって・・・というのはあと付けで今日は予定がゼロで一人でショッピングとかもいいかなって。』


もうなんてしどろもどろの言い訳だらけ。

彼女が右手で首元に触れて苦笑いをすると彼は笑った。


『ああ、あるある。そっか・・・一人でショッピングとか結構楽しいよね。・・・でも今日は一人なんだよね?』


『うん?』


ふと何か思いついたような顔をして彼が俯く。そして顔をあげると彼が声を上げた。


『じゃあ、今日は僕に付き合ってくれないかな。』


急な言葉に彼女は目を丸くして、え?と問いかける。まさか真面目の彼がクラスメイトの自分をデートに誘う?そんな・・・聞き違いだよね?彼女は確かめるようにもう一度問いかけた。


『今なんて?』


『うん、だから今日は僕に一日付き合って欲しいんだ。・・・ってあ!やばい!とにかく少し僕に合わせてくれないかな?』


彼女の向こう側を見て急に慌てだした彼は人差し指を唇にあてて静かにとポーズをとる。その瞬間後ろから女性の声がした。


『あー、いたいた。何してるのよ。もう!って・・・あれ?ええと誰ちゃんかな?』


彼女が振り向くとあの日見たインパクトの強い彼のお姉さんが柔らかな巻き髪を揺らしてやってきた。


『姉さん、悪いんだけど今日は彼女との約束があったんだよ。僕が忘れてて・・・さっき彼女に教えてもらったんだよ。』


彼がそう言ってバツの悪い顔をしてみせる。


『そうなの?もう、折角荷物もちにって連れて来てあげたのに。まあ、女の子と約束なら仕方ないわね。』


彼のお姉さんはそう言うと彼女の顔を覗きこむようにして優しい目をして微笑んだ。


『ごめんなさいね、ダメな弟で。きっと待ち合わせの時間にも待たせてしまったんでしょう?ちゃんとエスコートするように言っておくから、今日は楽しんできてね。』


ふいにお姉さんの顔が近づき頬に触れるとチュッと音がした。彼女がぽかんとしている間にお姉さんは彼の元へ行くとなにやら話をし、鞄から携帯電話を取り出すと誰かと話し始めた。

カツカツとヒールを鳴らして元来た道を帰っていく。彼女がその様子をぼんやり眺めていると彼が彼女の視界に手を差し込んだ。


『ごめんね、訳分からなくて。』


そう言って笑った彼の顔がさっきのお姉さんの顔にダブって見えて彼女はドキッと胸を鳴らした。


『う、ううん。び、びっくりはしたけど。すごい・・・美人さんだね。迫力あってドキドキしちゃった。』


『そうかな?すごい化粧が濃いだけだと思うけど。まあ、美人の類ではあるよね。』


彼はそう言うと手の中のものを指に挟んで彼女の前に差し出して見せた。彼の指先に挟まれているのはカードだ。


『姉さんが君にお詫びしとけって貸してくれた。ねえ、今からショッピングに一緒に行こうよ。』


そう言って彼は笑う。

なんだかさっきとは別人のような雰囲気に彼女はまた胸を鳴らした。


『え、でも悪いよ。約束なんてしてないし、それに今日だって偶然だし。』


『そんなことないよ。ちょっぴり姉さんの訳の分からないとばっちりも受けてるし。』


彼の言葉に彼女が噴出すと彼も同じように噴出す。ね?、と微笑みかけられて彼女がそうね、と頷くと二人してまた笑った。



ショッピングが始まって、昼食を取りまた二人して色んな店に入る。時間が経ってくるといろんなことが分かってくるが彼自身はとても明るい性格でそれでも生真面目なところもあり、学校との姿は違えどいつもとそんなに変わらないことに気づく。


彼女は店に入るたびに彼から気に入ったものがあれば教えて欲しいと言われていたものの、ただ楽しくて時間を楽しんでいた。

洋服屋を出て二人して話をしながら次の店を選ぶ。その時彼が少し奥の店を指さした。


『うん?何処?』


彼女の問いかけにも答えず、彼は微笑むと彼女の手を掴んで少し足早に歩き出した。急に手を繋がれて彼女はごくりと息を飲む。

自分の胸のドキドキと同じ速さで足元でヒールが鳴っている。彼の手が力を弱めると、包み込むように片方の手で彼女の背中を押して店へと招き入れた。

店内はお洒落にディプレイされており、甘い香りが漂っている。見渡すとショーケースには色とりどりの化粧品や雑貨が並べられていた。


『うわあ、可愛い。』


彼女が声を上げると彼が笑う。


『あのね、ここは姉の店なんだよ。今はいないから丁度いいし。多分ショッピングの真っ最中だと思うからね。結構可愛い雑貨なんかが置いてあるし、手ごろな値段だから選びやすいと思うんだよね。』


『そっか・・・。』


彼の配慮に彼女は頷いた。気に入ったものをとはいえ、今までの店が高いものばかりだということを彼も気にしていたのかも知れない。


『ありがとう。』


彼女はそう言うと彼から少し離れてショーケースの中の物を見る。薔薇とパールをあしらったネックレスや、銀細工の指輪。それから少し隣に目を移すと、可愛らしいポーチが目に入った。久しぶりに好みのものを見つけて彼女はうきうきと手に取っては吟味してショッピングを楽しむ。

キャンドルのコーナーで足を止めていると彼が彼女を手招いた。彼女は気に入ったものを一つだけ手に持って彼の元へ歩いていく。


『あ、いいのあったみたいだね?』


彼女の様子に彼は小さく頷く。


『うん、とっても素敵なものばかりで目移りしちゃうけど、凄く楽しい。』


『そっか・・・あ、それは可愛いね。』


彼は彼女の手元にあるブレスレットを見た。華奢な金細工のブレスレットは小さな石と蝶がついている。


『これは自分で買おうと思って。 とっても安いし・・・素敵だし。』


『あはは、言うと思った。だから僕は僕で君にお礼の品を選んだよ。』


『なに?』


彼は片手に持っていた小さな細長いケースをカチッと開いた。そして下の部分をクルクル回すと綺麗な色の口紅が現れる。彼女がじっと見つめていると彼は彼女の顎に片手を添えて彼女の唇を口紅でなぞった。


『しー。じっとしてて。』


店内には他にもまばらにだが客はいる。

店員がにこにこと二人を見つめていることに彼女は気づくと一気に頬が熱くなった。

彼は淡々と口紅を塗り、それが終わるとケースにしまう。まるで当たり前の作業のようで彼女は恥ずかしいのもあるが驚いてしまった。


『うん、似合うね。とっても素敵だ。』


そう言って笑う彼に彼女は小さな声で問いかける。


『ねえ、そういう人だったの?』


『そういうって?』


『だからなんだかリップ塗るのだって慣れてるみたいだし・・・。』


彼女がしどろもどろになりながら言うと彼はああ、と笑う。



『こういうところは姉さんとしょっちゅう来るし、メイクだって姉さんの手伝いさせられてるから結構平気かな?・・・って、ご、ごめん。』


彼女の顔が赤いのに気づき彼も赤くなって俯いた。


『うわー、僕なんて失態だよ。』


目の前の彼がいつもの雰囲気に戻ったのに気づいて彼女が噴出すと彼は顔をあげた。


『ごめんね。僕自身がメイクとか嫌いじゃないもんだから。かと言って姉さんじゃないのに・・・失礼だったよね。』


『ううん・・なんかドキドキした。』


『え?』


彼女は自分が言ったことにハッとして口を噤む。でもすぐに彼に視線を合わせると笑った。


『男性にリップ塗られることなんてないから・・・びっくりしちゃったよ。でもなんか嬉しいよ。』


『そっか。僕も今さらドキドキしてる。』


二人は視線を合わせて笑いあう。そして彼がふと漏らした言葉に彼女の胸は余計ドクンと跳ねた。


『恋人同士みたいだよね。』


(うん・・・。)口にだしてはいえなかったけれど彼女はそう思った。

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