見習い天使の外界レポート
蕪木麦
見習い天使の外界レポート
見習いの天使である僕に、ある日、先生から一つの課題が出た。
「今から小さな小箱をいくつか配ります。これをもって人間界へ行き、人間に配りなさい。彼らが中に何を入れたのかをレポート用紙に記入してくること」
教室の前方にある教卓の縁を指でトントンと叩きながら、細面の女の先生はコホンと咳払いをする。咳をするたびに顔が揺れて、その衝撃で頭の上に浮かんだ光輪がチカチカと点滅した。
彼女の横に控えていた助手の男の先生が、床に置いてあった大きい段ボール箱を手に取る。ふたは開いていて、中身である小箱の色が隙間から見えた。教卓から離れた席に座っていた僕は、目をキュッと細めてそれを観察する。
小箱箱は、縦十五センチ×横十五センチほどの大きさで、不透明だった。材質はガラスだろうか。赤、青、紫などの色で全体が塗られてある。
「先生、なんで僕だけなの?」
ビクビクしながら僕は尋ねた。
クラスメートはとっくに家に帰っていて、この場所には自分と先生しかいなかった。帰ろうとした時に、残るよう言われたのだ。天界にある天使養成学校に入学して五年たつけれど、僕は今まで先生に怒られるようなことはなかった。
「悪いこと、なんにもしてないよ」
「そうですね」
先生は眼鏡のつるをクイッと持ち上げながら答えた。彼女の口調は淡々としていて、発言によどみがない。どんな場面においても彼女の口角と眉は全く上がらず、その様子は時に命令を遂行するロボットを彷彿とさせた。
「ですが君には重要な欠点があります。そのせいで、周りとの差が出てしまっているのです。その穴を埋めるため、私は特別に課題を出しました」
「欠点?」
「どうやら君は、天使にとって必要な『優しさ』を知らないみたいですね」
先生はそう言うと、教卓の引き出しの中から一枚の紙を取り出し、僕に差し出した。
それは先週行われた、天使学の小テストだった。名前の欄には、自分の汚い文字が記されていた。その横には赤いペンで「0点」とつけられてある。
各問題をひとつひとつ目で追う。【友達を励ますために、あなたはどんな言葉をかけますか】【あなたがもらって嬉しいものを自由記述しなさい】【この台詞の中から、悪口に当たると思うものを選びなさい】。
「時間が足りなかったんだ。それに、難しい問題が多すぎるよ。他の子は、本当にスラスラと答えをかけたの?」
不貞腐れて言うと、先生は「もちろんです」と頷き、僕の机の上に小箱を置いた。一つだけ、他のものよりもサイズが一回り大きい。
「この箱にはどんなものでも詰めることが出来ます。人が何を入れるかを君が決めることは出来ません。人間に好きなものを詰めてもらったのち、あなたが入れたいと思うものを一番大きい箱に入れなさい」
こんな課題で、本当に自分は優しさがなにかを知ることが出来るのだろうか。しかし、彼女は僕のためにわざわざ独自の課題を考え、周囲との差が出ないように図ってくれたのだ。多少の不安もあったが、僕は最終的にそれらの小箱を自分の鞄に詰めた。
◇◆◇
人間界で最初に出会ったのは、セーラー服と呼ばれる衣装に身を包んだ、長い黒髪の女の子だった。
カナと名乗ったこの子は十四歳で、市内にある公立中学校に通っているらしい。無邪気で明るく、僕が天使だと名乗った時もさほど驚きはしなかった。
「へ~、なんでも詰めていいのか」
「うん。入れたいって思ったものを入れていいよ」
僕とカナは中学校の近くにある市民公園のブランコに共に腰かけて、箱についての意見を交わした。と言っても僕はあくまで観察者なので、アドバイスやサポートはできない。なので、カナが一方的に喋るのを、相槌を打ちながら聞くしかなかった。
「入れたいものねえ。綺麗なものを入れるのはいいかもね」
カナは人差し指で、ある一点を指さす。ブランコのある位置から一メートルほど行ったところに小さな花壇があった。植えられているのは全てシロツメクサで、白い花弁が風にあおられて左右に揺れている。
「綺麗なものは、取っておきたいって思うの?」
僕は聞いた。
「じゃあ、ダイヤや宝石とかも一緒に入れる?」
「うーん。そういうんじゃないかもね。綺麗なものを沢山詰め込むのは好きじゃないの」
「なんで? 取っておきたいんでしょ?」
綺麗なもので箱がいっぱいになれば幸せなのではないだろうか。ふたを開けたら、キラキラが瞳孔に反射する。とてもいいことだと思うのだけど違うのだろうか。
カナはけらけらと声を上げて笑った。この子は笑う時、無意識に手足を動かす癖があった。軽く振った右手の肘が僕の肩にコツンと当たったが、当の本人は全く気付いていなかった。
「そう考えるとおかしいね。でも綺麗なものって、その人にとって違うからさ。たくさん入れて喜ぶ人もいれば、一つだけ入れて喜ぶ人もいるんだよ。逆に、汚いものを入れる人もいるかもしれない」
「よくわからない。汚いものを、好んで入れる人なんていないよ」
「そうかな」とカナは顎に手を当てる。
「たとえばね。私、合唱部に入っているんだけど、稽古ノートを毎日書かないといけないのよ。今日やった練習とか、反省点とかの記録をつけるの」
カナは肩にかけたショルダーバッグの中をまさぐり、一冊のノートを僕の眼前に掲げた。大学ノートと呼ばれている種類のもので、僕が授業で使っているノートと同じサイズだった。黄色い表紙は随分と薄汚れている。
「これ、汚いでしょ」
「うん、汚いね」
「でもこの中にはさ。練習キツイなーとか、セッション上手くいったーとか、そういう楽しい思い出もたくさん詰まっているんだよ。見かけは汚く見えるかもしれないけど、中身は美しい。そういうものも、きっといっぱいあると思う」
そう告げる少女の表情はとても生き生きとしていて、僕はしばらくその横顔に見惚れていた。春風が夕暮れと一緒に僕らを包む。遠くの方では、帰宅を促すチャイムが流れていた。
「カナはさ、優しさって何だと思う?」
「優しさ?」
「僕、優しいってどういうことか分からないの。だから、こういう課題をやってるの」
そこまで言ってから、僕は「いや、違うな」と首を振った。優しさの定義が分からないのではない。人のことを思いやり、助けることだと分かっている。分からないのは、それをどうやって表現したらいいかだ。
「うーん。そうだな。人が好きなものを、人が綺麗なものを、知ろうとしてくれることかな」
難しい答えが返ってくると思っていた僕は、自分に投げかけられたセリフの内容の簡潔さに少し唖然とした。そんなのでいいのか?
それにカナの意見を反映すると、僕が優しいということになる。優しさがなにかも知らない僕が、優しいだって? そんなわけないだろう。
ピンとこないな、と首をひねる僕を見て、カナは思い出したように口を開く。
「あ、そうそう。何を入れるかだったよね。……ずっと考えてたんだけど、私はやっぱりこれかな」
カナは右手に持っていた稽古ノートを、小箱の上にかざした。シュッという音を立てて、ノートが小箱の中に吸い込まれる。箱から透けて見えるノートは、ミニチュアサイズに縮小されて中に入っていた。
「まだいるんじゃないの?」と僕は聞いた。
「これ、去年のなんだ。練習が辛くて、部活絶対やめてやるって思ってた時期のノート。捨てるに捨てきれなくてさ」とカナは困ったように笑った。
◇◆◇
それから僕は、協力してくれそうな人間を探しては、彼らに小箱に物を入れて貰った。
小箱のストックは瞬く間になくなり、気が付けばあと二つ。そのうちの一つが僕用のものなので、あと一人協力してもらえば課題は終了となる。
汚いものを好んで入れる人はいない、というのが僕の意見だ。実際、これまでにあってきた人は、友だちと撮った写真や趣味で描いた絵、道端の花など、一般的に「綺麗」と言われるものを入れていた。
けれどもミオに出会って、その持論はあっさりと散った。
「……それってさ、時間とか自分も入れられるのかな」
小学六年生のミオは全身傷だらけで、手や腕に絆創膏をいくつも貼っていた。ランドセルの肩ひもを握る手が震えている。髪はボサボサで、目の下には濃い隈があった。
「それは、自分が大好きだからってこと?」
『給食で残しちゃったから食べる?』と彼女に差し出されたコッペパンを頬張りながら聞くと、ミオは途端に険しい顔になって僕を睨んだ。
「逆だよ。自分が大嫌いだから、自分を消したいの」
その言葉を受けて、僕は口をつぐんだ。左手のひらの上にある小さな箱を、幼い少女に渡そうか悩んだ。そしたらどうなるだろう。指で箱の隅をつついた途端、彼女が箱の中に吸い込まれたら。課題は終了し、僕は天界に帰れるが、それは本当に自分の望んだ終わり方なのだろうか。
「……なんで自分を消したいの?」
「生きる意味がないから。学校に行くといじめられる。好きなものもやりたいこともない。生きるのはとてもしんどいなって」
下校路の歩道を歩くミオの姿勢は猫背で、足取りは酷く重かった。僕は彼女と二メートル以上の距離を取っていたが、すぐにその背中に追いつくことが出来た。
「でも、分かってるよ。私にとっての幸せが、天使さんにとっての幸せにはならないこと。天使さん、すごい変な顔してるもん」
「どんな顔?」
「こんな」
ミオは自分の頬を両手でギュッとつぶして、肩眉をひそめた。その表情がおかしくて、僕は少し笑った。ミオもつられて、クスクス笑い始めた。
「笑えたじゃないか」
「え?」
「笑えたよ、今」
どんよりとした虚ろな目が、一瞬だけだが煌めいたのを僕は確かに見た。
「笑えたから、なんなの」
しかしミオはすぐに視線を雨に濡れたアスファルトの地面に落としてしまう。立ち止まった彼女と僕の位置が重なり、その表情が鮮明に把握できるようになった。
ミオは声を殺して泣いていた。目の奥から零れた熱い水滴は顎の下を流れ、服を濡らし、地面にしみ込む。ミオは僕が片手に握った小箱を奪い、地面に思いっきり振り下ろし、その上から靴を―。
「やめてっ!」
僕は咄嗟にミオに駆け寄り、その体に抱き着いた。動きを封じられたミオはバタバタと暴れる。パンチを頬に食らっても、足で脇腹を蹴られても、僕は手を離さなかった。
「……汚いものを、沢山見てきたんだね」
「…………ん」
ミオは僕の服に顔をうずめたまま、コクリと首を振った。
「本当に、消えたいのに、僕が悲しむと思って箱を投げたんだよね」
「…………ん」
「……ごめんね。天使なのに、助け方が分からなくて」
こういう時にどういう言葉をかけていいのか、僕は分からない。何かを言おうとすると、口の中で絡まる。くしゃくしゃになった糸を解くのには時間がかかる。それと同じで、言葉もなかなか出てこない。
何が優しさなのか、未だに分からないけれど。
僕は君の悲しそうな顔を見たくないし、そんな君を他の人に見せたくないのだ。
「分かんないからさ、僕も優しさの意味が分かるまで、僕は君の隣にいることにする。一緒に綺麗なものを探していこう」
カナに教えてもらった。優しさは、人が綺麗だと思うものを知ろうとしてくれること。綺麗なものがないなら、それを僕が代わりに見つけてあげれば良い。ただ、横にいる。それだけで自分は、誰かを笑顔にしてあげるのではないだろうか。
「……課題の締め切りは」
「遅れたっていいんじゃないかな。特に言われてないし」
「……また、消えたいって思ったらどうするの」
「そしたら僕が、色んな所に連れて行く。ミオが案内してくれてもいい。僕、人間界のこと良く知らないから」
僕のセリフに、ミオはちょっと照れくさそうに笑い、そっと僕の手を握った。
◇◆◇
何でも入る箱を渡された時、きみは何を入れるだろうか? 僕はまだ何を入れるか決めていないけれど、どちらにせよ中身となるものが、その人にとっての光であればいいな。さて、課題を続けようか。
・
見習い天使の外界レポート 蕪木麦 @mikoituki
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