からのかみ

いいの すけこ

オガラサマ

 神を箱から引きずり出してやると思った。


 佐和さわの生まれた小さな村には『オガラサマ』という神様がいた。

 小高い山の天頂近くにある神社に祀られた、小さな木箱。

 幼い頃、佐和は一度だけその箱を目にしたことがある。数え七つの祝いに神社に参った際に、神様がおさめられているという箱に手を合わせた。

 我々が崇めているのはオガラサマ、箱は入れ物、オガラサマの寝所のようなものである。

 そう父に説かれたけれど、佐和はただ箱を拝んでいるような気しかしなかった。

 煤けた箱に貼られた、何枚もの古びた札。読み解けぬ字が書かれたそれは、ついぞ剥がされた事がないようだった。

 本当は、からっぽなんじゃあるまいか。

 そう口にすれば、罰当たりなことを言うもんじゃありゃあせんと母に叱り付けられた。

 箱は幼い佐和でも抱えられるほどの大きさだった。

 ちょうど、人間の頭が入るくらい。

 箱が入れ物というのなら、オガラサマの頭でも入っているんだろうかなどと佐和は思ったものだ。

我々と同じお姿をしてるかは、わかりませんなあ」

 宮司は皺を刻んだ顔に、穏やかな笑みを浮かべて言った。

「だけど確かに、この箱の中にオガラサマはおわします」

 箱は間違いなく中身のある重さで、傾ければ中のものが微かに動くのがわかるのだという。

 そんなことを言われても、箱に触れたこともない佐和ではわかりようもない。不満が顔に出ていたのか、宮司のそばに控えた男が佐和に言った。


「確かに見えぬなら、無いものと同じです」

 男の言葉に、父母はぼんやりとした返事をした。

 この者は、大人たちが言うにはいつの間にか神社に奉仕していたという。初めのうちこそ我々百姓のような姿であったが、宮司のように袴も身につけるように――宮司の穿く濃い色でなく、薄い色の袴だったが――なり。宮司の傍らで祈祷を執り行う姿も、神に仕える者のそれらしくなっていったという。

 若者とも、かと言って年嵩という程でもなさそうな男は素性こそ知れぬが、宮司も信頼している様子だった。きっと信仰の篤い者ゆえ、オガラサマの元へ辿り着いたのだろう。

 男の言葉がわからぬのは、自分たちの方が浅学だからだろうと、父母は囁きあった。

「しかし見えぬからこそ、信ずることができるものもありましょう」

 学があるかは否かはともかく、佐和には男の言うことが一番腹に落ちた。少なくとも、ただただオガラサマはいるとそれだけを繰り返すよりは。

 

 野良仕事に滲んだ汗を拭いながら、仰ぎ見る山に。夜に泣く子をあやしながら、ご覧と見上げた月を背に。かくれんぼをしながら、怖々潜んだ境内に。

 村のいずこにもオガラサマはいた。

 作物を供え恵みに感謝し、子の成長を祈り。その子が悪さをしたら、オガラサマの雷が落ちるよと拳骨ひとつ。

 崇め奉り、畏れ。

 本当に在るのか否かは、やはり佐和には決めきれぬものではあったが。それでもオガラサマは佐和たちの生きる営みの中に、当たり前のものとしてそこにあった。

 だから長雨の終わりの季節、佐和の家がある集落を濁流が襲った時も。

 それはオガラサマの意思なのだと、誰もが言った。

 荒れ狂う川の対岸で、ただひたすらに拝んでいた父と母。幼かった弟だけが、神の思し召しとやらを知らずに泣いていた。

 佐和が助けを求めても、村の者もただ祈りの言葉を口にするばかり。振り切って川を渡ろうとすれば『オガラサマのお怒りが鎮まるまでの辛抱だ』と、ただ耐えることを強いられる。


 オガラサマの、オガラサマが、オガラサマは。

 そんなものが、本当にいるのなら。

「そんなら、誰か箱をここにもってこい!!」

 箱を叩き壊して、神とやらを引きずり出して、落とし前をつけさせろ!!

 そう、神を呪う言葉を吐いた瞬間。

 父を、母を、弟を。家を。

 佐和の全てを、濁流が押し流していった。

 ――ああ今度こそオガラサマは、小娘の無礼をお許しにならなかった。

 誰もが口々に言った。

 暗雲垂れ込める空を見上げれば、箱におさまった神がいる社が見えて。水につかることもない高い場所から、オガラサマは佐和たちを見下ろしている。

 神の怒りとやらに飲み込まれた家族を背に、佐和は山へ向かって走った。

 斜面を小石が転がり落ちてくる。山が崩れる前触れかもしれない。

 空が光って、雷音が聞こえた。村で一番背の高い、神社の杉にいかずちが落ちるかもしれない。

 そんなことはどうでもいい。佐和は泥にまみれながら、山を駆け上った。


 オガラサマのいる神社にたどり着く。雨風が叩きつける社殿は暴風にやられたのか、扉が外れかかっていた。二枚ある戸板の一枚が傾いて、隙間から中の暗闇が除く。

 社殿奥にある壇の上に、箱が置かれていた。

 誰に許されたわけでもないに目にしたそれ。沢山の札を貼り付けているのが不気味だが、それでもただの木箱だ。

 雷鳴が轟く。辺りを白い光が照らした。

「あ……」

 一瞬明るくなった社殿の中に、人影があった。

 あの、宮司の側仕えのような男と。その足元に倒れ伏した宮司と。

「おや」

 異様な光景に反して、男はのんびりと言った。

「箱ですか?」

 言葉を発せない佐和に構わず、男は続ける。

「オガラサマの」

 男はなんの頓着もなく、箱に手を伸ばした。

「……オガラサマの起こした、洪水に、家族を殺されたから」

 だから箱からオガラサマを引きずり出して、問いただすか恨みをはらすかしたかった。

 そのつもりでここに来た。


「殺された、この箱に?」

 男は片手に箱を載せて掲げる。あまり重さを感じられない動作で。それでなくても御神体のひとつでも入っていれば、箱を粗末に扱うような真似は到底出来ぬだろう。

 本当に、神様がおわす箱なら。

 それを、信じているなら。

「あんた、は、何をしているの」

 床に伏した宮司。着物の背中が赤茶に染まって見えるのは、泥か、それとも。

「オガラサマの様子を見に来ました。この嵐ですから」

「宮司様は」

 宮司は白衣一枚で倒れていて、ぴくりとも動かなかった。

「この足元なので。泥に足を取られて転び……打ちどころが悪かったのでしょう」

 雨ざらしにする訳にはいかぬと、宮司を社殿まで運んだと、そう男は述べる。

 安置するのにうつ伏せにすることがあるか、着物を汚すのは本当に泥なのか、いくらでも聞きたいことはあった。だが、糾弾の言葉は何ひとつ上げられなかった。知るのが恐ろしかった。

 知らなければ、見なければ、無かったと同じこと。


「箱はどうします。札を剥がして開けますか、それとも叩き割りますか」

 佐和の眼前に、箱が突きつけられる。

 オガラサマのおさめられた箱。

 神様の箱。

「あなたが何もしないというのなら、箱は壇に戻します。私は宮司様に代わって、箱を拝まねばならないので」

 一応ねと付け加えた男の、その中身は、佐和にはわからない。

「拝むって言うんなら、やっぱり箱の中にオガラサマがいるっていうの」

「箱の中身は、誰も知りません。中身のわからぬものを信ずるか信じぬかは、人の勝手。箱の中に神がいるというならいるし、いないというならいない」

 佐和は箱を睨んだ。

 幼い頃に見た箱と、何一つ変わるところはなかった。


「……あんたが、宮司様の代わりにオガラサマを鎮めるつもり?」

 何を信じたわけでも、拝んで嵐がおさまるとも。オガラサマが箱の中にいるとも認めた訳では無いが。

 それでも佐和に神について説いた男が。箱をなんの躊躇いもなく抱える男が。足元に無造作に転がした者になり変わろうとしている男が、なにを思うのか。佐和は知りたかった。

「外側がそれなりに出来上がっていれば、中身が何であれ人はそれなりに信ずるものですよ」

 白衣一枚の宮司に対して、男は常とは違う濃い高貴な色の袴を身につけていた。

 中身が不信心であろうと、悪逆の徒であろうと。

 神に仕える者と、同じ姿をした男。

「箱の中身は、誰にもわかりません」

 黒雲を割る雷光が、表情も見えぬほど白く男の顔を照らした。







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