第2話 すみの晩酌処


「いらっしゃい」


 店内は木製の清潔な床に五つの個別席と、正面奥にはカウンター席があった。

 厳粛な出迎えの声主はカウンター奥に起立していた白衣の店主かららしい。

 大城は頭を下げた。

 よし、今日はここで腹を満たそう。

 彼は良い匂いに寄せられるようにカウンターに座り、


「腹を満たせるもので、おすすめはありますか?」


 彼は店主に尋ねた。

 とにかく、腹が減った。

 自分の空腹感を自認すると、胃が急に叫びだした。

 忸怩たる思いに駆られ、顔を下げた。


「全て自信をもって提供しています……今日は牛すじ鍋が一番人気でした」

「あ、すいません……ではそれと、唐揚げ、ハイボールありますか?」

「はい」

「ではそれでお願いします」

 

 大城が頭を下げると、白衣の店主は微笑み、「はい」と答えた。

 店主の表情には三十代くらいと思しき外見的な若々しさと玄人感を漂わせる雰囲気があった。

 大城はあまりの空腹感に、カウンターに居座る隣人のことなど一切気が付かず、スマホを弄り始めた。

 最近は、家に帰ると軽食とウイスキーを嗜みながら、Ⅴチューバーの動画配信を見るのにハマっていた。

 なんと、中には元ブラック企業勤めの人物もいるらしい。

 大城は共感を覚えながらも、彼女の配信を楽しみにしていた。


「お通しとハイボールです」


 スマホ画面に注視していると、カウンター越しから店主が腕を伸ばしてきた。


「ありがとうございます」


 大城は早速、冷え切ったジョッキを持って、ごくりとそのガソリンを飲み込んだ。

 冷たいハイボールが喉を刺激し、瞬間で脳が酔いを錯覚する。

 後から来るまろやかなスモーキー感が疲れを癒した。


「んっっまっ」


 彼には、度々思ったことを口にしてしまうという欠点があった。

 その声を聴いた店主は陰ながらにやりとした。

 大城は続けて、お通しという名の酒のつまみ『たこわさ』を口に運ぶ。


「ん~!」


 コリコリとした触感、噛むと鼻をツーンと刺激するわさびの刺激がやってくる。

 タコは噛めば噛むほど甘さや旨味を感じさせ、ハイボールをより味わい深いものに引き立たせる。

 大城はハイボールを飲んだ。

 喉が渇いていたせいもあってか、炭酸ののど越しが非常に嬉しいらしい。


「ん~ッ!」


 最近は仕事ばかりで、三大欲求を唯一満たせるのはこの食欲だけなのである。

 睡眠時間は毎日五時間取れればいいほどで、満足に寝られていないし、性など生まれてこの方一度として満たされたことはない。

 つまり、童貞なのである。

 しかし大城はそれを別に気にしたことはなかった。

(俺には、Ⅴチューバーさえいてくれればいいんだ……)

 などと思っているからだ。

 大城は再びスマホ画面を見た。

 SNSで推しの最新情報をさらっているのだ。

 そうこうしているうちに――


「お待たせしました、唐揚げと牛筋です」


 鍋はぐつぐつと煮立ち、唐揚げからはほくほくと湯気がたっていた。

 大城は内なる欲望に耐え切れず、割り箸を一瞬にしてつかみ取り、唐揚げを取り上げ、一個丸々ぱくり。

 あつッ! 

 け、けど……


「う、うますぎるぅ~」


 彼は目の端に薄らと涙を晒した。

 かりっとした衣に、ジューシーな肉汁、鶏肉だ。

 旨味がどろどろ舌をくだっていき、脳は快楽を覚える。

 ハイボールを挟む。


「旨いっ」


 アルコールは人間にとって毒であるはずなのに、どうしてこんなにも美味しいと感じてしまうのだろうか。

 大城は続いて、牛筋鍋に移る。

 中央に寄せられた牛筋肉をすくい上げる。

 一口、肉は舌を動かすだけで――……溶けた。

 彼は驚きに目を見張った。

 ばっちりと店主と目が合致した。


「……うまい、うますぎるよ店主」

「ありがとうございます」

「ふふ」


 隣からそんなささやかな笑い声が聞こえてきた。

(そういえば、もう一人カウンターにいたような……)

 彼はカウンター席に座るもう一人のお客に目を向けた。


「こんなに美味しそうに食べる人、初めてみました」


 その声に生気を感じられなかった。

 しかし、その声音には女性特有の微かな温かみを感じる。

 隣人は髪の長いスーツ姿の女性だった。

 目元には濃いクマがあり、頬は真っ白というか真っ青で、唇は乾燥が見え隠れしている。

 大城同様、かなり疲れた様子が判然と顔に現れていた。

 彼の場合、あどけなさが未だ消えておらず、テスト日の大学生感があったりなかったり。

 隣の女性の場合、顔の造形が優れているお蔭か、パット見の印象は悪くなかった。


「あっ、すいません、うるさくて」

「いえ……」

「……お互い、大変ですね」

「えぇ、貴方も」


 女性の前にはまだ複数の皿が残されており、グラスは空っぽ寸前だった。

 ゆえに、


「「ハイボール……あ」」


 店主が声に出して笑いながら、


「はい」


 店主は二つのグラスを持って、カウンターよりも奥の部屋に消えていった。

 二人は気まずそうに視線を下に落とした。


「この時間まで、お仕事、ですよね……」


 この気まずい空気を和ませようとしたのか、女性はそう口にした。


「はい、貴方も、ですよね……」

「はい……」

「あ、ここって、最近できたばかりだったりします?」


 大城も、社会人として、同じ対応をへたっぴながらも実践してみせた。

 彼は営業職ではないものの、少数人の前でプレゼンテーションをしたりと口下手すぎることはなかった。

 ただし女性との会話は別だった。

 今や、部下や同僚の一日に数回あるかないかの会話くらいで、学生時代から異性からの弄りやアプローチを特に苦手としていた。


「あ、はい。多分、先週あたりからだと」

「へえ、いいところですね、お酒も、料理も美味しくて」

「ですね、私は今日で三回目です」

「俺も通い詰めることになりそうです、どうせ残業の所為で空いているだろうし……あはは」

「あはは、家に帰っても料理を作る気力もないですもんね?」

「めっちゃ分かります! だからいつもはスーパーかコンビニで割引のシールが張られた総菜や弁当を買ったりして」

「はい、しかも健康が頭によぎって余計に罪悪感が増したりして……」

「あははは」

「あはは」


 ……店主が冷えたジョッキを二人の席前に置いた。


「お、お待たせしました」

「「ありがとうございます……」」


 暗い空気だったが、二人はすぐにハイボールを流し込み、


「~~~!」

「旨いぃ!」


 酒の力で元気を取り戻す。

 彼は牛筋鍋を積極的につつき、時たま唐揚げを食し……すると、女性の視線が彼の手元の唐揚げに注がれていることに気付く。


「あ、どうです? 一つ、いかがですか?」


 大城は店主をちらみした。

 店主は頷いた。


「いいんですか?」

「はい」

「すいません、ありがとうございます」


 彼はその皿を一席分空いた位置に座る女性に流す。

 女性は流麗に唐揚げを取り、口に運んだ。


「~~~! 美味しいです」


 女性は恍惚の表情を浮かべた。

 どきり……

 彼は一瞬、心臓が高鳴ったのを感じた。

 ぱちりと目が合い、女性が控えめな笑顔で、


「美味しいですね」

「はい」


 彼はすぐに視線を外し、自分の頬が火照っているのに気づいた。

 急激に恥ずかしくなった彼は急いで鍋を食べ終えて、立ち上がった。

 そして、女性が立ち上がったのも、同時だった。


「あ……先どうぞ」


 彼は片手を前に出して、先を譲った。


「ありがとうございます」


 こうして、女性が会計を済ましたあと彼も会計を終え、外にでる――と、彼はあっと驚いた。

 女性がしろい息を吐きながら、彼のことを待っていたからだ。


「……あの、もう、終電はありませんよね」

「え? あ、はい……」


 二人はげっそりと疲れた顔にも関わらず、その肌には血が通っているのをありありと自認することが出来た。


「結構、歩いたり、しますか?」

「あ、はい実は……」

「良ければ、私の家、近くにあるので、その……一緒に飲みませんか?」


 彼は胸がどくどくと波打っているのを自覚した。

 嬉しくてたまらない感情が、腹の底から沸き上がる。


「い、行きたいです」

「けど、明日も早いですよね……」

「始発で帰れば間に合うと思います!」

「あ、良かったです、その」

「はい」

「こ、コンビニでお酒でも、買いましょうか」

「あ、はい」


 二人はままならない会話を楽しみつつも、コンビニへと足を運んだ。

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社畜と社畜は惹かれあう 高坂栞 @772988

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