杠明

僕の額には3cmほどの傷がある。

4歳の頃、母の運転する自転車に乗っていた。たぶん幼稚園から帰る途中だったと思う。母はちょっとした段差でバランスを崩し自転車の前に乗っていた僕は勢いよく地面へ顔から突っ込んでしまった。

そこまでの記憶はある。しかしそれ以上先のことは覚えていない。


来年から高校受験だという所に成績は落ちる一方。もともと偏差値50あたりをうろうろするだけの成績で特別優秀でもなければ落第生というわけでもなかった。それが今では進学先を選べないほどひどくなっている。


「俊介、なんなの? この点数は?」

「うるさいな」

その日の夜、母は僕の成績表を見て憤慨した。

「これじゃどこもいけないんじゃないの? どうするつもりなのよ」

「俺だって勉強してるんだよ」

「してこれならなおさら悪いじゃない」

この言葉にカチンと来てしまった。

「母さんがあの時転んで俺が頭を打ったから馬鹿になったんじゃないの」

口に出して初めてその可能性が頭をよぎった。


自分の部屋に戻りベッドに倒れ込む。とても勉強する気分ではない。

額に傷に触れる。ほとんど髪に隠れてわからない位置だし見た目に関しては正直少しも気にしていない。だがもしかして本当にこの傷の原因のせいで成績が悪いのかもしれない。

あの時のことを、僕が自転車から放り出された時のことを思い出そうとしてみる。

……やはりチャイルドシートから放り出されるシーンで終わってしまう。


思い出せない代わりに別の妄想をしてみる。もし頭を打たなかったなら。

当然の額の傷はない。そして今よりずっと賢く、きっと全科目で学年1位を取っていた。

さすがにそれは誇大妄想だとしても今よりはましな気がする。

どんどん膨らむ妄想を楽しむうちに僕はいつの間にか眠ってしまっていた。


「あ、これは夢だ」

稀にこんな夢を見る。夢の中で夢だと自覚する感覚。

ここは僕が通っていた幼稚園。狭い庭には1本のあすなろの木、軒下に丁寧に置かれた子供用の遊具。すべてがすべて懐かしい。

ただ先ほどまで雨が降っていたのか大きな水たまりがあり、園児たちの姿は見えない。


夢の中だからと言ってもなんとなく侵入するのは憚られる。なんとか門扉の外から園内の様子を窺うがたまに元気な叫び声が聞こえるばかりだ。

懐かしさに浸っていると自分の横に何にも女性が立っていることが気が付いた。見覚えのある顔がちらほらとある。それもそのはずだった、彼女たちは保護者だ。時間はわからないがもうお迎えが来ていたのだ。どうやら自分の姿は見えていないらしい。


僕は保護者の中から母を探すがまだ来ていないみたいだった。保護者達は皆手に傘を持ち徒歩で来ている。近場の子供しか通っていない幼稚園で来るまでの送迎はほとんどない。僕の家もここから子供の足でも10分程度。

園内から園長が出てきて扉を開け、保護者達に挨拶をする。昔は園長がおばあちゃんくらいに見えたが今見るとそこまで年配でもない。夢の中とは言え俺だけ10歳以上未来からの視点だから当然とは言えば当然か。


保護者達離れた足取りで玄関まで集まり数人の先生たちに誰を迎えに来たかを伝えている。先生も慣れたものでほとんど顔パスで園児を呼びに行く。

呼ばれた園児は嬉しそうに走ってくる子もいれば少し不満顔な子もいる。

(どうして不満そうなんだろうか)

「今いい所だったのに」

園児の言葉で思い出した。園児は保護者が迎えに来るまでの時間アニメのビデオを見て待っているのだ。それでいい所で迎えに来て中断させられてしまったということなのだ。

「そういえば俺も似たようなこと母さんに言ったことあるな」


「すいません、遅れました」

後方で聞き馴染みのある声。

(母さんだ)

「大丈夫ですよ、遅れてないですよ」

相変わらず時間がわからないが確かにそこまで遅いとも思えない。

「昨日あんだけ遅れちゃったから今日はと思ったんですけど」

「俊介君もちゃんとわかっていますよ」

そうか、確かこの時期にばあちゃんが入院していたんだ。病院も比較的に近場とはいえバスにも本数は限られているし多少時間はかかっても多忙である以上自転車のほうが都合がよかったのか。


「お母さん、おばあちゃん大丈夫だった?」

写真の中でしか見たことのない幼い自分。少し生意気そうな顔つきに思えるのは自分自身だからだろうか。

「うん、明後日は休みだから一緒にお見舞い行こうね」


重い雲間から日の光が差し込んでいる。雨の後の匂いがとても心地よく感じる。

「俊介、自転車に乗りなさい。疲れたでしょ」

幼い自分はとぼとぼと母の押す自転車の横を歩いていたが母に促され自転車に乗った。園児の僕が付かれていたとは考えにくい。おそらく疲れているのは母だったのだろう。


「今日はケン君がさ……」

「ケン君は面白いね」

二人は今日の出来事を楽しそうに話している。そういえばケン君は今何しているんだろう。

母の運転する自転車はペースが遅く小走りと早歩きで十分に後を付いていける。


(あ、この場所だ)

もう家まで1分もかからない位置。当時住んでいたアパートに入るために車道から歩道に入る。そこの小さな段差で転んでしまう。

何とか止めたいと思うがすぐに無理だと理解した。きっと干渉できない。

それに出来たとしても現実の俺に影響があるとも思えない。


目を逸らして惨事に身構える。

ガシャンという大きな音。きっとこの後俺の泣く声が聞こえてくる。

しかし。


「お母さん!! 大丈夫!?」

幼い僕は額にうっすらと血を浮かべながら母に駆け寄っていた。

(え……)

「俊介、ごめんね。怪我して……」

母は俺の怪我に気が付き幼い僕を抱きしめた。

「僕は大丈夫、お母さんはどこか痛くない?」

「大丈夫よ、ごめんね。ごめんね」


目が覚めると11時。半端な時間に4時間も寝ていたらしい。

あれは俺の記憶だったのだろうか、それとも都合よく改変された妄想だったのだろうか。母に聞いてみればわかることだろう。

しかし聞くつもりはない。

もしかしたら本当にこの傷が原因で少し馬鹿になったのかもしれない。

でもそれはそれでいいと思えるし、それを理由に何かを諦めるつもりは少しも無い。


母さんに謝るのはちょっと照れくさいので結果で詫びようと思う。

何となく、明日から頑張れる気がする。

胸を張って堂々と生きていける気がする。

なんせ俺にはこの誇りの傷があるのだから。

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杠明 @akira-yuzuriha

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