シュレディンガーの猫の箱
@aqualord
第1話
何かおかしい、そう感じ取れるのは生きてゆく上で大事なことだ。
奇妙な冷静さで自身を俯瞰した大谷は、目の前で得意げに捲し立てる男を見つめた。
男が持ってきた箱にも視線をやる。
男が言うには、これはシュレディンガーの猫を入れた箱だそうだ。
シュレディンガーがあの「シュレディンガーの猫」を着想したとき、実験のため実際にこの箱に猫を閉じ込めたというのだ。
確かにそれなりに年月を経たように見えるし、横に何かの古風な装置もついている。
「ご覧ください、中を覗けないように厳重に目張りしてあるのです。」
男が言うように、各面の継ぎ目は金属光沢を鈍く放つ何かで封じられている。
「内部から猫の鳴き声が聞こえてこないように防音にも配慮されています。見てくださいこの板の分厚さ。」
まあ普通の箱よりは分厚いといえる。
「これは猫を死なせてしまうかもしれないという非人道的な実験でしたので、シュレディンガーが働いていた研究所で、代々の所長にだけ存在が伝えられてきたものです。」
男はそう言って鞄から何語か大谷にはわからない言葉で書かれた証明書のようなのを出した。
「ここにも書かれていますが、今でもこの箱は機能していて、現時点でもこの中の猫は生きているか死んでいるか確率的にしか言うことのできない状態なのです。」
恭しく男はその紙を大谷に差し出した。
もちろん読めないから、本当にそう書いてあるのかどうかなどわかるはずがない。
「ところが、それほどの伝統ある研究所もスポンサーからの寄付が頼りなのです。お聞きになったことがおありでしょう。」
確かに以前どこかで欧米の大学は寄付集めが大変だと言う話を読んだ気もする。
「本来このシュレディンガーの猫の箱は永久に博物館に納められて保存され実験を続けていかなくてはならない人類の発展を物語る貴重な物なのです。」
男の説明が本当なら、そうなるのかもしれない。だが、大谷はさっき男がやはり詐欺師だと確信したので、だんだんだんと聞くのが馬鹿らしくなってきた。
「ですが、それも潤沢な研究費があれば、の話なのです。今回大谷様のもとにこれをお持ちしたのは、この箱を1年間お手許において人類史上最も有名な実験にご参加いただけるご幸運と引き換えに、若干のご寄付をお願いしたいと言うことでして。」
なるほど、騙す方法としては博物館級の物を「売る」と言うより、「1年だけ実験に参加」と言った方が納得しやすく警戒心が薄れるということか。
「そうですか。今でも実験が続いているのですか。驚きですね。その証明書には今猫が生きている確率も書いてあるのですか。」
男の口角が微かに上がったのを大谷は見逃さなかったが、あえて気づいていないふりをした。
「ええ。それが実験の意味ですから。ここにちゃんと書かれています。そうですね。大谷さんが実験に参加いただけることになるのは再来月の3日からなのですが、その時点で27.872901%となると書かれています。」
男は証明書のある部分を示した。
そこには確かにその数字が書いてある。
大谷はついに心底バカらしくなった。
だから言ってやることにした。
「そうですか。でも私にはもっと高い精度で確率を言えますよ。」
男はさも驚いたと言うように大谷を見る。
だが目には警戒の色が浮かんでいた。
「大谷さんは物理学が専門の方でしたか。」
「いえそうじゃありません。ですがわかります。」
「では確率を教えていただけますか?」
「ええ。ですが少し準備が必要ですのでちょっとだけお待ちください。」
大谷はスマートフォンを操作した。
そのまましばらくどちらも口を開かなかったが、ついに男の中で不安が勝ったようだ。
「そろそろ教えていただいてもよろしいでしょうか。」
大谷は微かに振動したスマホに目を落とす。
それから徐に口を開いた。
「ではお教えしましょう。これがもし本当にシュレディンガーの猫を入れた箱なのだとすれば、中の猫が生きている確率は。」
そこで大谷は一旦言葉を切った。
「確率は?」
男が問いかける。
スマホに連絡があった通り、外で車のドアが閉められる音がした。
「確率はゼロです。これは確実です。」
「ええっ?ちょっと待ってください。物理学では…」
もう時間を保たせる必要も無いので、大谷は男の言葉を遮って種明かしをする。
「いや、これは物理学の問題ではありません。あえて言えば生物学の問題です。」
「あっ!」
男はようやく自分の間抜けさに気づいたらしい。
そして、大谷の態度の理由にも。
男は慌てて逃げ出し、玄関の外で待ち構えていた警察官にあっさりと詐欺の容疑で捕まった。
あとで事情を聞かれた大谷は、警察官から、何故詐欺だと分かったのかと聞かれてこう答えたという。
「箱の中に閉じ込められた猫がどれほど生きられると思いますか?」
と。
シュレディンガーの猫の箱 @aqualord
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