近代の渡世術 ➂
常陸乃ひかる
転換期
浮世とは一種の箱庭だ。
明治四年(1871年)に、大規模な政治改革として
いわゆる『国』と云う箱の中に、『府』や『県』と云う小さな箱が
これは、近代という『時代の箱』の中での些細な一日である。
明治二十六年(1893年)。六月下旬。
ある山中に、部落さながらの居住区がある。そこは『アウト・キヤスト』と呼ばれ、自らを諦めてしまった神族たちが
黒の混じった銀色の
六十年を生きているのに
時刻は午前十時を過ぎたが、ロスは蒲団から出ようとはしなかった。あとからあとから睡魔がやってくるのでもなかった。本日は公休日で、気持がどこまでも晴れ晴れしていたからだ。
町役場の隣で人間の悩みを聞いているはずの時間なのに、その人間なんかには
ロスは普段とは異なる心境で口元を緩めると、蒲団のシワで蛙さながらの平泳ぎをし、ある程度疲れるとふたたび眼を瞑った。家での『無駄』とは、ここまで美化されるものか。
「ふふっ」
そんな深呼吸の合間だった。
ドンドン――
しばらくして、警戒心を剥き出したロスが「だ、誰?」と、戸に
ロスの高鳴りは継続していたが、「どうぞ」と、寝間着代りに使用している古い浴衣の襟を正しながら、裸足で土間に下りて戸を繰ると、頭の中で象っていた人物と同じ
武士のように大きな背丈、黒髪を撫で上げて後ろで縛った風貌――視覚から認識する姿は普段と
「すまない。寝ていたか?」
「ふたたび伏せようかと。え、えっと……公用ですか、私用ですか?」
「どこまでも用心する奴だな。後者だよ」
ロスを尋ねてきたのはアウト・キヤスト主神――ブラインドだった。彼は、たまには町に出ようと思うのだが、善かったら付合ってくれないかと云うのである。
「わ、わたしが? え、わたしと……?」
この主神、
「用事があるなら無理強いはしないが――」
「用事があるように見えますか?」
ロスは惑い、際限なく眠そうなまぶたを開くと、相変わらず憎らしい口を叩きながら承知の意を伝えた。
「では支度が済むまで待っている」
「オッケー、
「えいさ……っぷ?」
ロスは返答をせずに戸を閉め、どったんばったんと、和服に袴にメリヤスの靴下を着衣した。
「
そこには、先ほどと変わらぬ立居でブラインドが待っていた。
「コレ気に入ってるし、なによりラクなんで」
世間話も程程に、ふたりは道なき山を下り、獣道を進み、町に続く街道に着いた。あとはまっすぐ歩いてゆくだけ。ロスにとってはもう慣れた、数十分の
「ところでなんか食べませんか? わたし、昨晩から空きっ腹なんです」
「年頃なんだから、ちゃんと食べないと体に悪いな」
「それは外見だけですよ」
衣食住にこだわりのないロスは、眼に留った街道脇の
「レディ相手に、歳の話を掘り下げちゃダメですよ?」
一足先に
「さて、ここは奢るぞ。酒以外な」
主神の冗談に笑みを返し、ロスは好物を注文する。一息ついて、話も発展しないうちに、ふたりが注文した品が運ばれてきた。
「
「ふぅ。にしても、ここんトコ線路が各地に敷かれてるから、こういう掛茶屋って珍しいですよね。
「汽車での移動が多くなれば、宿場町が衰退してしまうのも道理だな。ところで相談所はどうだ? もうすぐ終るみたいだが、上手くやっているか?」
雲を仰いだブラインドに対し、ロスは首を横に振った。一緒に、ふんわりしたボブも
「人間は多種多様すぎて、なにを考えてるかわかんないんです」
「人間なんてみんな違うさ。中には
「まあ……。でも、やっぱ怖いです。心が読めないっていうか」
「心が読める奴が居てたまるか」
ここでふと想起したのは、ブラインドと交わした数日前の会話だった。偶然か必然か、ふたたび尋ねる機会がやってきた今、己が納得できる
「以前もこんな会話しましたよね。ほら、ブラインドさんが人間に畏怖するって言ってたやつ。あれって、つまりどういう意味なんです?」
「ありのままの意さ。私は人間が――人間の心が怖い。
呑気に団子を咥えていようが、甘味に笑みを浮べていようが、この者はロスにとっての絶対的な主神である。従うことも大事だが、問うことも――しかり。
「あなたのような強い方が? それがわかりませんよ」
「私は強くない」
人間より丈夫で長命――それ以外に
「
けれど今は、それを使わずに人と共存している。では本当に、『
「とはいえ我々は負けるさ。力だけでは国は造れない。約十五年前の――西南の
「た、確かに……あんなの、誰も望んでなかったと思いますけど……」
ブラインドの云うとおり、例え強大な力を持った神であろうと、人間の圧倒的な人員、資源、軍事力の前では無力なのかもしれない。
それでもロスは、
「あることないことを話していても仕方があるまい。さ、町へ行くぞ」
「はい……」
だが役場から離れた場所には足を向けたことがなく、普段歩かない
視界の隅――
「え、あの……今日はどんな用件で町に?」
「いや。御前さんが見ている光景が気になっただけさ」
「た、大したもの見てませんよ。仕事が終わるとすぐに帰っちゃうし」
「ははは、そうではないさ。私は、御前さんが――」
「おい! おめえ!」
ブラインドがなにかを云いかけたところで、突如それを遮った者が現れた。そいつは正面を切って睨み、ドスの利いた声を浴びせてきたのだ。いかにも素行が悪く、ボサボサの長髪を四方に散らかす、
「い、いきなりなんです……?」
「確か、相談所に居る神族だろ?」
どうやらゴロツキは、浮世という小さな箱の中から一粒の砂を拾い上げるように、わざわざロスへ絡んできたようだ。なんとも底意地の悪さが窺える。
「たまの休みだってのに……」
「こっちはな、相談しに行ったら門前払い食らったんだよ!」
「まあ、そんな恰好じゃあ……。え? てか、相談乗ってほしいんですか?」
ロスはわざとらしく
「オレもおめえと同じなんだよ」
「話が見えませんが?」
「べらんめえ同族だよ、わかれよそんくらい。で、聞きてえんだよ。オレはどうしたら天界に戻れんだ? なんでも答えんだろ、神様って奴はよう」
するとどうだろう。まるで予想していなかった愚痴が飛んできたのだ。はぐれ神族がゴロツキと化し、ちょっかいを出してくるなんて
「え、ちょ……待って、同族なの? わたしは、あくまで人間の相談を――」
「云う事が聞けねえってえのかよ! ふざけた
ゴロツキが
「見てんじゃねえよ人間どもが! おめえ等まとめてぶっ飛ばされてえのか!」
暴れ馬のように騒ぎ立て、周囲にまで暴言をぶちまけるゴロツキなど、本来は放っておくに限った。それなのに解せなかったのは、ロス自身の心の置場だった。どういうわけかゴロツキを恐れず、むしろ救いたいとさえ思えたのだ、
すると、「ふうん」と見兼ねた様子のブラインドが、庇うように一歩前へ出てくれた。彼の親切は――少し煩わしかった。
「あ、ちょっと? 乱暴はいけませんよ?」
「案ずるなロスよ」
大の男が
「なんだてめえは! 邪魔立てする気か!」
「私はアウト・キヤストの代表だ。この娘は大事な仲間なので、手を出さないでもらえると手間がなくて済むのだが」
「アウト・キヤストだあ? てめえ、あの
「いかにも。では、そちらは掃溜以下の
「黙って聞いてりゃべらべらと! 胸の悪くなる奴だ!」
ブラインドには戦意が見られず、食材に寄ってくるハエを追っ払うような顔付だった。だからこそ、熱した油に水をぶっかけたような火力になるのは道理だった。
熱くなる男たちを尻目にロスは、このゴロツキの存在は、
「同族として
「随分な口だな? オレは藩に仕えてた武士だ。けれど、
「
「神族にそんな俗称が与えられるかってんだ。一定の人間は
「そちらこそ、二十年も前の話を
それでもゴロが――彼がまともに生きられるように、
「ちょっともう……! マジでやめて、ふたりとも! それからそっちの貴方!」
だからこそ後先なんて考えず、男たちの間に入って声を荒げたのだ。
「なんだ、急に威勢善くなりやがって……!」
「ねえ、もしかして貴方って
「か、勝手なこと抜かすな! おめえ――」
「武士なんて、それなりの天界に居ないとなれませんよ? それにゴロツキは、アウト・キヤストの存在なんて知りません」
反論を挟む余地を与えず、ロスが確信めいた言葉を放つと、ゴロツキはあからさまに眼を逸らし、「チッ……」と図星を認める舌打ちをした。
「今からでも全然やり直せますよ? 長い生涯を
「おめえ、本当に相談に乗る気か? 銭なんて持ってねえかも知れねえぞ? ましてや、おめえ非番だろうが。それでも真剣に
「わたしは落ちこぼれだった――いや、今もそうかも。けど、自分自身に飽きたら終わりですよ。わたしたちだって
「急に強気になりやがって……御託はよせ」
ゴロツキは反論を見せながらも戦意を沈めていった。ブラインドも倣うように、護身術のような立居を解き、なにかを投げかけんばかりの表情を向けてきた。
が、ロスは続けた。
「最初の一歩は、最後の一歩と同義です。小さな箱の中で一歩目を踏み出してしまえば、あとはどうにでもなるんです。立ち止まっていたらいつまでも――」
「はあ……女がごちゃごちゃ口出しするんじゃねえよ」
「だ、だったら……
ウジウジした小者の姿が癪に障り、ロスはどうしても苛立ちを抑えられなくなって、頭の片隅に風呂敷で包んでいた悪たれ口を、とうとう叫んでしまった。
ゴロツキが
「……邪魔したな」
吐息
踏み出す一歩がないのならば、誰かに頼るのも選択のひとつである。はて、どこまでロスの叫びが伝わっただろうか。
「御前さん――」
ブラインドが口を開こうとすると、ゴロツキから離れていた町人たちが数人寄ってきて、「無事かいあんたら!」「ああ、本当気に入らない!」「なにが神様だ馬鹿馬鹿しい!」と、粋らしく声を被せてきた。
「でも悪い神ばかりじゃないんです」
「すまねえ、あんたらに云ったんじゃあないんだ。あんたらは
町人の声を聞くと、昨今の神族に対する評価が窺える。ロスにもその『血』が流れているので、心に響くモノがあった。
「ブラインドさん、もう行きましょ?」
「それが
――悶着を終えたあと、見慣れない洋食で胃を満たし、着物を新調して物欲を満たし、心だけを満たせないまま帰路についた。ブラインドが隣に居てくれるだけで満たせるものも存在しているが、それはまた別の感情である。
没落した神族や、元士族が商売に失敗する様を見て、時代は
安堵は
数日後、相談所の仕事を満了したロスは、アウト・キヤストに籠る
決意していたのは、なにもロスだけではない。人間も神族も、皆が悩み、皆が必死に生きているのだ、この近代で。
――そして翌年、明治二十七年(1894年)が訪れた。
日本という小さな
了
近代の渡世術 ➂ 常陸乃ひかる @consan123
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