はぐれた僕らのカンパーニュ

【あらすじ】

 日啓食品株式会社、東京本社広報部二課。究極の左遷部署である二課には、支社で大立ち回り﹅﹅﹅﹅﹅を果たしたはぐれ者が集う。

 いつものように暇潰し仕事を奪い合っていたある日、本社で莫大な横領事件が起きていることを、はぐれ者たちは耳にした。その金額はなんと百二十億。もちろん、はぐれ者たちには全く関係がない。


 はずだった。

「君、横領犯の一員なんでしょ?」

 穏やかで居心地の良かった左遷部署にその日、激震が走る。


 たとえ横領犯でも。

 たとえ左遷されても。

 僕らが望むのは――窓際すみっコぐらし。


【本文】

 暇は人間を狂わせる。


 桝田ますだの目の前には、暇の被害者たる狂人がいる。日啓食品広報部二課、課長の南條なんじょうだ。南條は椅子に逆向きに座り、背もたれに顎を乗せ、グルグルと椅子を回転させている。これを就業時間中にやるのだから恐ろしい。


「……何の薬物すか?」

 桝田は呆れて尋ねた。メンバーは三人、完全に左遷部署である。課長といっても、桝田より何歳か年上なだけの男だ。精神年齢はだいぶ下だ。


「ハッピーターンの粉」

 南條がアホ面で椅子にへばりつく姿を、美大卒の桝田はクロッキー帳に鉛筆で描いていく。前のページも、その前も、ギャグ漫画も驚愕の多様なアホ面が揃っている。案外、桝田も暇に狂わされているのかもしれない。


「暇で辛い。仕事が欲しいよ~」

「無能には仕事を与えないのが一番ですよっ!」

 黒髪のボブを揺らして明るく答えたのは、唯一の仕事──暇潰しを勝ち取った藤井瞳子ふじいとうこである。

「それが経営上正しい戦略です。日本は解雇が難しい国ですから!」

 瞳子は細長い腕で書類にハンコをどんどん押して、数少ない仕事を猛スピードで贅沢に消費する。


「なんで経営者の味方なのさ」

「私は経営者の味方じゃないです。お金の味方です! 無能は経営の敵です!」

「僕、そんな無能かな」

「南條さん、札幌支社にいた頃も窓際だったんでしょ」

「僕はただ、経理の不正がバレたから機密を守れって言われて、ドリルでパソコン破壊したら、窓際にやられただけ!」

「札幌の頃から白い粉ハッピー粉決めてたんすか⁉︎」


 無能と言うより、悪魔か疫病神だ。


「それで首にならないの凄いっすね」

「あー、僕コネ入社だから」

 南條が得意げに手をひらひらと振る。

「ま、コネじゃないとこんな狂人入らないっすよね」

「でも、桝田君も二課にいるんだから、大概の無能でしょ」

「そっすね。博多支社でミスったんで仕方ないっす」

「本当にミス? ここ、多少のミスで飛ばされる課じゃないけど」

 返事の代わりに、舌打ちが聞こえた。言い過ぎたかも、と南條が思った時には、側にあったガラス製の置時計が、桝田の手に収まっていた。


「それ、投げるの?」

「……昔、少年野球で投手だっただけっす」

 南條の一言で冷静になった桝田は、気まずそうに言い訳した。

「投げていいよ! 僕、昔キャッチャーだったから」

 妙に明るい口調の裏を察せないほど、桝田は愚かではない。ここはありがたく乗せてもらおう。

「……絶対嘘っしょ」

「嘘だよ。でもばっちこい!」


 桝田が心の中で拝みながら振りかぶった時、静かだった瞳子が凛とした声で割り込んだ。

「それ、アトモスっていう二百万円する高級置時計です!」

「は?」

 枡田も南條もぎょっとして動きを止めた。


「ウッソだろ」

「マジですよ! だから南條さん、大人しくしないと弁償騒ぎになりますよ!」

「うげ。無理だよ大人しくなんて」

 南條が桝田の手からアトモスを奪い取った。真上に投げてはキャッチを繰り返し。桝田の心臓がキュッと縮んだ。


「僕、暇アレルギーだもん」

 南條が大あくびを放った瞬間、二課の電話が鳴った。左遷部署の電話って鳴るもんだっけ、と桝田が思った時には、既に南條が受話器を取っていた。

「……あー、うちは人事じゃないねぇ。君、無断欠勤してる一年目の子?」

 最悪の相手に電話を取らせてしまったらしい。


「退職代行に六万も? 絶対いらないよ。代わりに僕に三万ちょうだい。退職の手続き、全部やってあげる」

「南條さーん、うちは副業禁止っす」

 南條はにこやかに対応しつつ、足で無理やり桝田を遠ざけた。

「分かる分かる。でもこの会社、未来ないよ。ここ三期、営業利益ガタ落ちしてるしさ。辞めちゃおうよ」

 それで納得する相手も大概だが、なんと南條に退職代行を本気で任せるつもりらしい。


「……人を見る目ないな。相手はコネ入社だぞ」

「だから無断欠勤しちゃうんですよ!」

 ハンコを押し終えた瞳子は、ぐぐっと伸びをした。これで彼女も暇人の仲間入りである。

「でも、日啓食品に未来がないのは南條課長の言う通りです」

「どうする? 僕らも辞めちゃう? そのうち、基本給が五万とかになるかもよ」

 電話を切った南條が、瞳子と桝田の会話に無理やり参戦してきた。


「自社の退職代行をやる社員に払う基本給なんて、五万で充分っす」

「じゃあ残業代でも過剰申請するか!」

「……それは詐欺っす」

 残業代の不正受給は立派な犯罪、詐欺罪だ。


「詐欺なの? 仕方ない、この超高い時計でも売りさばくかぁ」

「ずるいですよ南條課長! その時計、私が狙ってたのに!」

「それは横領っす。十年以下の懲役っすよ」

 何故こんな奴らと同じ部署になってしまったのだろう。桝田の溜息は止まらない。


「でもみんなやってるよ、横領。ねぇ、瞳子ちゃん」

 南條が振り向いた。ぎょっとした顔で桝田も南條の視線の先を見る。二人の視線の先で、笑顔の瞳子が親指を立てていた。


「そうですね! 弊社で流行ってるみたいですね、横領。私は我慢してますけど!」

「瞳子ちゃん、横領やりたいの⁉」

「私はお金になることなら何でもしますから!」

 瞳子はつぶらな瞳を輝かせてガッツポーズをする。ツッコミが追い付かない。桝田の背中がどっと重くなった。


「ちょっと待って。うちの会社で誰かが横領してるのは確かなの?」

「さっき言ってた営業損益、ほぼ横領による損益ですよっ! 私の計算が確かなら、最低でも九十億円、最高で百五十億円。一番可能性が高い金額は、百二十億円ってところですかね! でも隠し方が分からないんです。横領は隠すのが一番大変なはずなのに!」


 たとえ横領したとしても、金遣いが荒くなったり、自分の口座に入れればすぐにバレる。自宅に隠すのも厄介だ。

「百二十億か。札束大浴場が作れそう」

 南條は手を叩いて大袈裟に笑った。桝田は口をぽかんと開けている。


「それを広島支社の上司に相談したら、あら不思議、広報二課に飛ばされちゃいました!」

「僕は逆だな。方法だけ知ってて、金額が分からなかった。上司に相談したらあら不思議、札幌の一人課長から、二課の課長に早変わりさ」

「南條課長、横領の隠し方を知ってるんですか?」

「このバカ高い時計だよ」

 桝田はアトモスを手に取り、また真上に放り投げては受け止めた。


「この時計が経費で落ちる訳ないよな。私物なら、無造作に会社に置くわけないよな。桝田君は、誰が買ったんだと思う?」

「……横領犯、ですかね」

「そゆこと。もし僕がこれを壊したら──」

 南條は大きく頷いた。と同時に、アトモスを壁に投げつけた。耳をつんざく音がして、見るも無惨なガラスの破片が床に散る。

「ねぇ桝田くん、僕、この後どうすべきだと思う?」

「も、もう一つ買って、こっそり元に戻すしかないんじゃ……」

 凍りつく桝田に顔を近づけ、南條は意地悪な笑みを顔に浮かべた。


「会社の金を隠すなら、一番の隠し場所は会社の中。こうして高級品に換えて社内に隠してるんだ。具体的に何に換えているのかは分からなかったけど、瞳子ちゃんがアトモスの話をしてくれてピンと来たよ」

「ありがとうございます! 私、物を見る目には自信があるので! でも壊しちゃダメですっ! 二百万円の時計ですよっ!」

「うんうん、ごめんね。瞳子ちゃんはお金に汚いもんね、気になるよね」

 南條が瞳子を宥める隣で、桝田は粉々になってなお輝くアトモスの破片に目をやった。


「そもそも、札幌で経理がやってた不正自体が、横領の辻褄合わせだったみたいでね。それで僕は絡繰に気付いたわけ。もう分かるだろ、二課ここは横領に気付いた人間を閉じ込めて、隠蔽する部署だ。ねぇ、桝田君は何に気付いて飛ばされたの?」

 桝田は俯いて目を逸らした。


「もしかして君、横領犯側﹅﹅﹅﹅じゃない?」

 え、と瞳子が呟いた。桝田の顔は真っ青になっていた。


「桝田君って美大卒だよね。やけに刑法に詳しいみたいだけど、勉強したの?」

「……まあ」

「さっき桝田君が横領という言葉を出したとき、随分驚いたよ」

 南條も瞳子も、横領を上司に相談して飛ばされた。二度と他人に相談しない、と心に誓っている。二人は横領という言葉を封印して今まで過ごしてきた。


「横領の話を始めたのは桝田君なのに、僕と瞳子ちゃんが乗ったら、横領を知らない素振りを見せた。もしや本社のスパイかな、僕らから横領の話題を引き出して、今度こそ首にでもするのかな、と思って少し試してみたら、意外な答えが返ってきたよ」


 南條の言葉の意味は、桝田にはすぐに分かった。

「あの高級時計を壊したら、っていう質問っすよね」


「本社のスパイなら、『自首』とか『始末書』とか言うよね。僕を処罰する口実にできるんだから。同じものを買って戻すというのは、全てを他人の目から隠したがっている、スパイというよりは横領犯側の発言だ。違う?」

「……はい。俺自身、詳細は知らないんすけど」

 桝田の言葉が止まった。続けて、と南條が低い声で促す。


「俺、デッサンのようなリアルな絵が得意なんすよ。給料安いんで、小遣い欲しさに、ウェブで絵の依頼を受けてたんです」

 桝田の絵柄に個性はない。依頼の少なさに嘆息していた頃、一つの依頼が届いた。


「領収書の模写っす。筆跡を丸っきり同じようにコピーしてくれ、って」

 映画の小道具だと言われたが、桝田は信じなかった。どうせどこかの会社の不正だろうが、桝田の知ったことではない。金になるからと引き受けた。


 しかし何十枚目かの宛名が、上司の名前だった。依頼主は自社の人間だと気付いた時には納品済で、桝田は不正の片棒を担がされたことを悟った。


「密告しなかったの?」

「たくさんの画家の中で僕を選んだのは、副業禁止を破って小銭を稼ぐ僕を共犯にして、脅迫しているんだ。そう思ったんです」

 依頼を断った瞬間、この部署に飛ばされたのが脅迫の証拠だった。そして桝田は今も、字が震えないように細心の注意を払いながら、まだ領収書の複製を行っている。


「本当にすみません」

「桝田君を責めようなんて思ってないよ。むしろ逆」

 上から降ってきた南條の声は、思いのほか優しかった。

「横領犯のせいで僕らは暇人になったわけだろ。僕は横領犯を見つけたいんだ。桝田君、仲間になってくれるよな?」

 仲間、その一言が引っ掛かって、桝田は目を伏せた。


「……俺には無理っす」

「え、嘘。この文脈で振られるの? なんで?」

「仲間って、自分を理解してくれる人と作るもんでしょ。南條さん、俺と相容れないっしょ」

「僕のことサイコパスかなんかだと思ってない?」

「思ってますけど、それは関係ないっす」

「でも桝田君、割と普通の人じゃん。変人さなら瞳子ちゃんの方が上だよ」

 南條は首を傾げる。桝田は何に自信がないのか、そちらの方が理解できなかった。


「南條さんは、俺がなんで領収書を書かされっぱなしなのか、不思議に思わなかったっすか? 他人に相談すればいいのに、って」

「ちょっと思った」

「俺、昔から黙っちゃうんすよ。なんか嫌で。たぶん、それを言っちゃうと、理不尽な状態にある自分を、直視しなきゃいけないから」

「……ごめん、もう分からないかも」

 南條の表情がどんどん硬くなる。瞳子も顔が曇った。


「被害者の自分を直視できる人っていますよね。俺は昔からそれが苦手で。少年野球でコーチにケツ触られた時も、彼女に浮気された時も。言いたいのに言えないんじゃなくて、言いたいとすら思いたくない。理不尽に二課に飛ばされても、俺の中ではミスが原因だ、と思い込む方が楽っす」

 それが間違いなのは知っている。現実から目を逸らしているとか、傷つきたくないだけとか、言い訳だとか。散々言われてきた。


「でもそれは、できる人の考え方っす。俺は無理でした。息をするように現実を見られる人の正論に合わせて、息切れしながら生きるのも疲れるんで」

「なるほどね。確かに全然理解できないねぇ」

 南條はのんびり髪を整えて頷いた。


「でも、理解できなくても、仲間にはなれるよ。僕が暇アレルギーなのを、桝田君は理解できないだろうけど、それでも僕は桝田君が好きだよ。桝田君は僕が暇アレルギーでも、克服させようとしないもん」

「……暇は、潰せばいいじゃないっすか」

「それと一緒。現実は、僕が代わりに見ればいい」

 南條はいつになく真剣な表情だった。


「できて当たり前なことが、自分だけできないこと、あるよね。逆もある。桝田君は領収書の模写、僕は……パソコンを破壊する危機管理能力?」

 南條の笑い方は高笑いに近かった。笑いきってから、南條は童顔に寂しそうな笑みを浮かべた。


「危機管理は得意なんだよ。親の会社の跡取りとして、叩き込まれてるから。日啓食品に親のコネで入ったのも、会社を継ぐための下積みだよ。左遷されてるけど」

「ドリルでパソコン破壊するからっす」

 思わずツッコミが口をつく。コネ入社なら確かに首にはならないが、それは同時に会社に絶対服従なのが当然ではないのか。


「そうだよ。でも僕はどうしても、親にも会社にも服従できないんだよね。色々あってさ、むしろできるだけ盛大に、親の顔に泥を塗りたいくらい」

 南條は狂人だが、悪意のある行動を取る男ではないと思っていた。なのに今の南條からは、底知れぬ深い悪意が窺える。親に執着する理由を言わないのが逆に怖い。


「横領犯を捕まえて、横領と隠蔽と左遷の話を、世間に全部ぶちまけようよ。きっと株価はストップ安、株主総会は大荒れ。うちの親、激怒だろうな」

 南條は立ち上がってカーテンを閉めた。戻った南條は、逆光の中で桝田と瞳子を手招きし、小声で囁くように言う。


「そうなったらさ、最高だと思わない?」


 桝田は唇を震わせたまま、返事が出来ずに固まっていた。


「それはちょっと困ります!」

 南條と同じくらい純粋な顔で、瞳子が顔をしかめた。

「私、この会社の株主なんです! 株価下げないでくださいっ!」

 ほっとした桝田と呼応するように、南條がぴくりと眉根を動かす。


「アトモスのような横領の証拠品が、本社の至る所に隠されているはずです。それを全部集めて、本社に返した方がいいと思いますっ!」

「僕は反対だな。この会社に忠誠心なんて、もうないよ」

「私もこの会社の味方じゃないです! 全部返すなんて言ってません! 三十億円ほど、私たちの取り分にします!」

「三十億? 俺たちが?」

「なにせ事件を隠蔽できて、株価が下がらずに済むんですから、本社にも得な話です。一人十億は貰わないと、割に合いませんっ!」


 瞳子の声は上擦っていたが、彼女のその興奮が刹那的なものでないことは分かる。瞳子は本気だ。


 南條と桝田は顔を見合わせる。

「なるほどね、十億か」

 南條が気圧されたように、ようやく一言絞り出した。


「そっちの方が面白いね」

「南條さん⁉」

「皆、きっと驚くよ。左遷されたはぐれ者が大金持ってたら。ね、桝田君」

 桝田は返事できずに視線を揺らす。しかし二課には輝く目で桝田が頷くのを待つ南條と瞳子しかいない。


「……仕事上の付き合い、ということなら」

 逃げ場はないと察した桝田は、ゆっくりと首を縦に振った。

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