おじいさんと斎場へ

川線・山線

第1話 おじいさんと斎場へ

私が初めて近しい人の「死」と直面したのは、幼稚園の年長さんだったか、小学1年生だったか、父方の祖父が亡くなった時だった。もう45年ほど前の話だ。


祖父は、明治の終わり、明治45年生まれの人だった。「明治生まれは頑固者」なんて言う話を聞くが、如何せん「頑固者」かどうかもわかる前に亡くなってしまったので何とも言い難い。母の話を聞く限りでは、心優しい人だったそうだが、時に怒ると厳しく、物差しをもって追いかけられた、と言っていた。ちなみに母方の祖母も、物差しをもって母を叱りつけていたらしい。おかん、そんなに怒られるようなこと、何したん??


さて、私が物心つく頃には退職していたが(昔は55歳定年だったので)、祖父は国鉄でSLの機関士をしていたらしい。母に聞く限りでは、福知山線(JR宝塚線)の勤務につくことが多かったそうだ。宮原の機関区にいることもあれば、吹田の機関区にいることもあったらしい。祖父母の家は宮原からそう遠くないところにあったので、しばしば母は宮原の機関区へ、祖父にお弁当を届けたりしたこともあったそうだ。吹田機関区ではまだ子供だった継父を機関車の運転台に上げ、色々な装置を説明したこともあったようだ(継父が祖父の写真を見て、涙を流して思い出話をしてくれたことがある)。


私の祖父の思い出は、祖父が私の実家(娘である私の母の家)に自転車で10kmほどかけて来てくれたことや、関西の今は無き遊園地「宝塚ファミリーランド」に連れて行ってもらったことを覚えている。


「宝塚ファミリーランド」は両親にも何度も連れて行ってもらったことがある。その時はいつもレストランで外食をしていたのだが、祖父はお弁当を持ってきていた(多分祖母が作ってくれたのだろう)。当時幼稚園に行き始めたころくらいの私は「お弁当は嫌だ。レストランで食べたい」と相当ごねたらしい。後日、両親は祖父から「息子に贅沢させすぎだ」と叱られたそうだ。


さて、そんな祖父だが、61歳だったか、胃がんで亡くなってしまった。いろいろと可愛がってくれ、またかっこいいSLの機関士として、もっと話を聞きたかったのに無くなってしまったのはとても悲しかった。祖父母の家はそれなりの広さがあったので、自宅で葬儀を行なった。


葬儀を終え、「棺」という「箱」に入れられた祖父。祖父を乗せた霊柩車を先頭に、一族郎党マイクロバスに乗り、斎場へと向かった。斎場につくと、祖父の棺はレールの上に乗せられた。棺はレールの上を進み、炉の中に入っていった。係員の方がボタンを押すと、炉の扉が閉まった。まるでエレベータのドアのように見えた。ドアが閉まり、みんなで読経し、その場を離れる。


その光景の中にいた私は、祖父がまるで銀河鉄道のレールに乗って進み、エレベーターで天国に向かっていくように思えた。


お骨上げにはいかなかったので、その後のことを知るのは年を重ねてからのことだが、斎場での祖父との最後のお別れの時に、そのように感じた、と思い出したのである。

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