でーと

香久山 ゆみ

でーと

 ひだまり園に到着すると、建物の前に詩織は立っていた。俺の姿を認めると、パッと表情を緩めてこちらに手を振る。

 ほっと息を吐く。

 書店主の詩織から、緊迫した電話を受けたのはほんの十分前だ。どうやら緊急事態のようだが、状況がまったく分からないまま電話は切れてしまった。そこで、何とか聞き取った現在地に駆けつけた次第だ。

 しかし、様子を見る限り、身に危険が迫っているということではなさそうで、よかった。

「お待たせしました」

「いえ、こちらこそ呼び出してしまってすみません」

 とりあえず中へ、と促されて施設内に入る。

 ひだまり園は、入居型高齢者施設だ。

 設立は三十年程前と結構古い。が、玄関の自動扉を入ると、塗りたての真っ白な壁が目に入った。

「今、一階のロビーと事務室を改装しているんです」

 まだ改装中なので、と詩織が差し出したスリッパに履き替えて、真新しいソファーやベンチが置かれたロビーを抜ける。

「なんか――」

「え?」

「あ、いや、何でもないです」

 危ない、思わず心の声が出そうになった。

「なんだ、早速のかと思っちゃいました。それにしても、こうして建物の中を歩いてると、なんか新婚夫婦が住宅内見に来たみたいですよね。ふふ」

 ずきゅん! 先程俺が心に納めた言葉を詩織はさらりと口にした。とんだ小悪魔ちゃんだ。

「ここです」

 ロビーの隣の一室の前で詩織が立ち止まる。建て付けられたばかりの真新しい扉が閉ざされている。扉を睨みつけるようにして、詩織が経緯を説明する。

「今回、ひだまり園ではロビーの改装に併せて、物置代わりになっていたこの部屋を図書室へリフォームすることにしたんです。そこで、書架のレイアウトや蔵書の整理を、書店員の私がお手伝いすることになりました。けれど、作業を始めるとおかしなことばかり起こって。並べたばかりの本が崩れたり、しっかり組み立てられているはずの本棚の仕切りが外れたり、誰もいないはずの部屋で視線を感じたり。それで気分転換に外に出たら扉が開かなくなってしまって……」

 それで、携帯電話も部屋の中に置いたままだったため、公衆電話から電話してきたということだ。大工よりも、まず俺を頼ってくれたことが嬉しい。

「任せてください」

 引き戸のノブを掴んで、渾身の力でドアを引く。

 ガラガラ。

「うわあー」

 あっけなく扉は開き、勢い余った俺は廊下の果てまで転がっていく。

「え、あ、うそっ。ごめんなさい。大丈夫ですかっ」

「いてて。はは、大丈夫ですよ」

 ただただ恥ずかしい。

 二人で図書室に入る。

 新しく作られた部屋だからか、木の匂いが強い。まだ空の本棚と座席しかない。足元には配架を待つ本の入ったダンボール箱が二十箱程積まれている。大きな窓の前のカウンター席とテーブル席は陽だまりに包まれているが、書架には直射日光が当らないよう配慮されている。カウンター席は車椅子のまま利用できそうだ。テーブル席は十人座れ、その端の席に――。

「女の人の幽霊がいますか?」

 突然背後から話し掛けられ、俺も詩織もひゃっと飛び上がる。

「驚かせてすみません、ひだまり園の職員の冨久司ふくしです。今レクリエーションの時間が終わったんで、ちょっと様子を見に来ました」

 詩織から霊能探偵の知り合いがいるということは聞いていたらしい。

「冨久司さんも、視えるんですか?」

 確かに、テーブル席の端に女の幽霊が座っているのだ。

「いえ、あたしは見えません。けど、たまに利用者さんでそういうことを言う人がいて……」

 この部屋の前を通る際に、「女の人がいる」と言う利用者が何人かいたらしい。けれど、認知症の症状で幻覚を見ることってよくあるし、聞き流していたそうだ。ただ、祖父に会いにきた幼児が同じことを言うのを耳にして、引っ掛かっていたらしい。とはいえ、古い建物だし、壁のシミが女性の姿にでも見えるのだろうと考えていた。

「けど、壁を塗り替えたあとも同じことを言う人がいたから」

「えっ、この幽霊はずいぶん以前から目撃されていたんですか?」

 勝手に改装工事に伴って現れた幽霊かと思っていたが、改装前からいるらしい。昔から目撃されているのであれば、ひだまり園が建つ前の土地に因縁がある可能性もある。

「いえ、……ここ一年くらいですね。女の人がいると耳にするようになったのは」

 図書室にする前は物置で、ほとんど人の出入りもなく、当然事件など発生していないという。

「けど、目撃情報もバラバラで、十代の少女だという人もいれば、四十くらいの女性だという人もいたから……」

 冨久司は決まり悪そうに頭を掻いた。視えないものに理解を示す方が難しいだろう。

 今、目の前に座っている女性の霊は二十歳くらいだ。白いブラウスに紺地のスカートを穿いている。そう何人も幽霊がいるとは思えないから、恐らく同一人物だろう。

 彼女に事情を聞ければ早いが、生憎俺は視えるだけで幽霊の声を聞くことはできない。ただ、視えるものから汲み取るしかない。

 彼女はこちらの視線に気付かないはずはないのに、頑として微動だにしない。ぎゅっと唇を結んでいる。何か伝えたいからここにいるはずなのに。なんとなく、自分の祖母を思い出す。祖母もあまり自分の思いを表に出す人ではなかった。そういう年代の人かもしれない。

「うーん、物に憑いている場合、その思い入れの強かった当時の姿をしていることも多いけど」

 俺の独り言に、詩織が反応した。

「なら、ここの本に憑いてるんだわ!」

「え?」

 困惑する俺に、冨久司が説明してくれた。

「この図書室には利用者さんの蔵書を配架する予定なんです。足元のダンボール箱がそれです。読書が趣味の利用者さんで、ひだまり園に入居が決まって身辺整理したものの、どうしても蔵書だけは捨てられないって持って来られる方が結構いて。居室にはそんなにたくさん置けないから、物置で預かっていたんです。それを今回のリフォームで活用しようってことになって」

 てっきり蔵書は詩織の書店で用意したものだと思っていた。多少追加の購入はあるものの、ボランティアで手伝っているのだという。素敵な人だ。

 目撃情報の出始めた一年程前に入居した利用者の持ち込んだダンボール箱を、冨久司に確認してもらう。

「この三箱ですね。それぞれ別の利用者さんの蔵書です」

「なら、これじゃないかしら。とても読み込まれているし」

 詩織が一つの箱を指差す。箱の中に歴史小説がきれいに並べられている。

「それは、九十歳の男性のものです。幽霊は女性だから違うと思います」

 冨久司が言う。

「いえ、でも奥様の蔵書という可能性もあるんじゃないでしょうか。愛する妻の形見だから捨てられないって持ってきて、妻も夫を心配して幽霊として出てきたの」

 どうだとばかりに詩織がロマンティックな推理を展開する。

「奥様はご健在です」

 即座に冨久司に否定される。

 まあまあ、生き霊って可能性もありますし。と、フォローするが、どうやら冨久司は以前に妻の若い頃の写真を見せてもらったが、目撃情報とはまるで別人らしい。

「なら、残りの二箱のどちらかかー」

「あ、じゃあこっちは違うと思いますよ」

 冨久司が言う。

「これは八十歳女性の利用者さんが持ち込まれたんですけれど、ご家族によると読書している姿は一度も見たことがないということですし、緑内障で視力を悪くされてからは読書なんてとても。なので、そんな強い思い入れはないと思います」

「確かに、ラインナップもバラバラだし、全然読まれた形跡もないですね」

 真っ白なままの小口を確認して、詩織も冨久司に同意する。女幽霊はじっとしたまま動かない。

「ということは、この箱ですね」

 二人が次の箱に掛かろうとするのを止める。

「いや、ちょっと待ってください。その、八十歳女性のところへ案内してください」


 女性の居室へ向かう途中、詩織は様々な推論を立てて見せた。

 あの本は彼女の親友から贈られたもので、幽霊はその親友なのではないか?

 あれは彼女の推し活の成果で、「推し」が読んだ本を彼女は購入していたのではないか?

 実はあれらの著者が彼女自身である?

「いや、あの本は確かに彼女自身が読みたくて購入したものだと思います」

 そう答えると、詩織も冨久司も首を捻った。

 部屋に入ると、八十歳のフミさんは薄い色のサングラスを掛けてベッドに横になったまま、ラジオを聴いていた。ほとんど視力がないからテレビは観ないのだという。だからそんな彼女が生き霊を飛ばすほど読書に思い入れがあるとは思えない、と冨久司が暗にいう。

 突然の訪問者に、ベッドの上の彼女が首を傾げる。冨久司が、俺と詩織のことを簡単に説明する。

 早速蔵書について話を切り出すも、彼女の反応はない。冨久司と詩織はそれみたことかと視線を投げる。視える俺は、彼女の無反応さが女幽霊の頑固さによく似ていると思う。

 どう話せばいいか迷った末、結局俺は祖母の思い出話をした。

「俺の祖母も緑内障で、視力を落としてからはサングラスを掛けていました。自分の目を人に見られたくないからって」

 見た目は変わらないのに本人は気にしていたようで、写真を撮る時もサングラスを外さなかった。サングラスで彼女の表情は読めないが、小さく頷いたように見えた。話を続ける。

 祖母は若い頃は仕事に子育てに奮闘して、六十を過ぎてようやく自分の時間ができた。やりたいことはたくさんあった。読書はその最たるものだった。けれど、若いうちしかできないことからと、スポーツを始めて、地域のコーラス隊にも参加して、あちこち旅行して、七十を過ぎてようやく読書をしようと思った時には視力も集中力も落ちて、もうとても本なんて読めなかった。

 祖母の話を聞いて、彼女はふっと笑った。「わたしと一緒だわ」と。

 読書する暇もないくらい遮二無二働いた。

 読みたい本はたくさんあった。いつか忘れず読むために大事にしまっていた。とてもとても楽しみにしていた。

 だけど、もう読めないの。図書室に行くこともない。

 彼女は寂しそうに言った。

「大丈夫です!」

 詩織が力強く割って入った。

「フミさんも図書室使ってください。週一回なら朗読ボランティアに来てもらえると思います。リクエストもできます。それに、蔵書の内のいくつかはオーディオテープが発売されているから、ボランティアのない時も読書できます。フミさんの思っていた読書とは違うかも知れませんが」

 サングラスの上からも彼女の面食らった様子が伝わってくる。

「けど、こんなおばあさんのために朗読させるなんて、ご迷惑じゃないかしら」

「全然! 自分の力を誰かのために生かしたいって人がいますから、そうやって感謝してもらえるだけで十分ですよ」

「わたし、今からでも読書できるの?」

「はい!」

 陽だまりの中の朗読会はとても心地好いだろうなと思う。

 彼女たちが朗読会の話題に花を咲かせている隙に、俺はそっと部屋を出る。

 廊下を駆ける。

 トイレ!

 まったくしまらない。本に囲まれるとどうしてもトイレに行きたくなってしまう。こんなことでは書店主の夫なぞ務まらないぞ。なんて馬鹿なことを考える。実は詩織にはすでに一度フラれているのだ。けど、こうして頼ってもらえるというのはまだ脈があるのではないかと思ってみたりなんかしたりして。

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