【KAC20242】理想の家

いとうみこと

あなた

 池田真司は、後輩の片瀬が運転する社用車の後部座席で今日の内見の資料に目を通していた。本来ならここにいるのは別の同僚のはずだったのだが、急用ができたとかで急遽真司にお鉢が回ってきたのだ。断り切れずに引き受けたものの、真司はこんなふうにやりかけの仕事を引き継ぐことを好まない。会社からも客からも仕事ぶりを比較されるからだ。仕事への情熱など欠片も持ち合わせない真司にとっても、それはあまり気分のいいものではない。


 そんな憂鬱な気持ちとは裏腹に、車は順調に市街地を抜けて畑の中の一本道を進んでいた。デスクワークに飽き飽きしていた片瀬は鼻歌混じりで田舎道のドライブを楽しんでいる。その横顔を見ながら、羨ましい性格だと真司は思った。


 真司は再び資料に目を落とした。今日の目的地は郊外の小さな集落だ。真司の会社が管理している数軒のログハウスのうちのひとつを買いたい客がいるという。内見してから決めたいとのことで、成約の可能性はかなり高い。逆に言えば、失敗すれば真司の責任とされかねないから客の要望をしっかり掴んでおく必要がある。活字に起こされた理想の条件を真司は声に出して読んでみた。


「大きな窓」


 ごく一般的な要望で、真司は何も感じなかった。


「小さなドア」


 これには手書きの「?」が付いている。真司は首をひねった。そして、何かの聞き間違いなのだろうと思うことにした。


「古い暖炉」


 今回は暖炉付きの物件だけを準備しているので問題はないと、次に進んだ。


「真っ赤なバラと白いパンジー」


 ここまで読んだとき、真司の頭に思い出したくもない女の顔が浮かんだ。これはまだふたりの仲が睦まじかった頃にその女がよく口ずさんでいた歌詞だ。しかし、女は後にストーカーとなり、長いこと真司を苦しめ続けた。真司は急いで客の名前を確かめたが、その女とは一致しなかった。


「おい、おまえ、この客に会ったことあるか?」


 真司は身を乗り出して、運転席の片瀬の肩を掴んだ。片瀬がひゃあと悲鳴を上げ、弾みで車が大きく蛇行した。


「びっくりさせないでくださいよ! 危ないじゃないですかっ」


「悪い、悪かった。そんなことより、この客どんな女だった?」


「そんなことよりって……」


 片瀬は不満そうに口を尖らせながらも渋々質問に答えた。


「そうですね、年は池田さんと同じくらいかなあ。何でも、昔付き合ってた人がいて、その人と一緒に住みたいと思ってた家がウチのログハウスそのものらしいですよ」


 池田の脳裏にくぐもった女の歌声が流れ始めた。何度も何度も繰り返された、今となっては呪いのようなメロディーだ。背中を冷や汗が伝う。


「でも、その相手の人が急にいなくなったらしくて、ずっと捜してたんだけどやっと最近見つかって、一緒に暮らすために買うんだって喜んでましたね。なんだかちょっと不思議な感じの人でした。って、あれ、先輩、どうしたんすか……」


「頼む、ここで降ろしてくれ……」


 ルームミラーに映った池田の顔は土気色に変わっていた。



作者註:小坂明子さんの「あなた」('73)に着想を得ました。もちろんストーカーの歌じゃなくて、ウィキによると彼女の淡い恋の思い出の歌だそうです。まさかこんな使われ方をするとは思いもしないでしょうね。小坂さん、ごめんなさい(_ _;)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【KAC20242】理想の家 いとうみこと @Ito-Mikoto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ