ジェイコブス・ラダー

宮野優

ジェイコブス・ラダー

 あなたは案内された部屋をざっと見回すと、正面のスクリーンをじっと見つめる。画面は大部分が暗黒に占有され、その中に微かな光点が散りばめられている。

「今は外の景色を映してますが、大抵の方は地上で窓から見えるような風景を映すようになります。この光景は……四六時中見続けてるとどうも不安になる方も多いようで」

 案内役の人間がそう語る。

「不安だなんて。これこそ求めていたものですよ。僕はが好きでね」

「確かにここより高い住居はこの世に存在しませんね」

 あなたは本当は内見などする必要がないと思っている。実際にそこへ足を運んで契約することが義務づけられているからそうしたまでで、あなたの心は最初から決まっている。

 ここに住み、ここで働くことはあなたにとって唯一の希望だった。

 形だけ全ての部屋を見て回り、関連施設を簡単に案内され、内見は何の問題もなく終わる。あなたはその場で契約し、新たな住まいと仕事が決まり、新たな暮らしが始まる。

 こうしてあなたは終の棲家を手に入れる。



 モルディブ諸島近海の人工浮島群に建設された軌道エレベーター。

 その中心的役割を担う、高度三万六千キロメートルにある静止軌道ステーション。

 そこに働く人々が住む居住区の管理人。それがあなたの役割だ。

 あなたは最初こそ無重力の生活に苦労するが、すぐに慣れて、それを天職と信じて疑わないかのように精力的に働く。

 居住区の人間は少ない。あなたは管理人として歓迎される存在となり、人間関係も良好だ。

 ただ彼らはある一点であなたのことを奇妙に感じている。

 毎週の休日、管理人は基本的に地上に降りることができない。降りられるのは月に一度だけ。そういう条件で働いている。だがあなたは、その月に一度の機会にも、一度も地上に降りようとしない。むしろその休暇では精神の健康のために地上に降りることが推奨されていたのだが、あなたは相変わらず何の問題もなさそうに仕事をこなすので、無理やり地球行きのエレベーターに乗せるわけにもいかない。

 休日が被った居住区の人間にいくら人工浮島群のリゾートに誘われても、あなたは何かと理由をつけて断り続ける。

「せっかく誘ってくれたのに申し訳ない。けど僕は青い海や空よりも、ここが好きなんだ。ずっとここにいたいんだよ」

 観光のついでに、あなたの友人が家族を連れてあなたを一度だけ訪ねる。だがあなたの方から誰か地上の友人を訪ねることはない。あなたの両親は数年に一度、特に後年は年金とベーシックインカムでの暮らしからは決して楽ではない出費を伴って、あなたに会いに行く。

 だがあなたの方から彼らに会いに行ったのは、たった二回。父と母、それぞれの危篤の知らせを受け取ったときだけだった。

 父親が亡くなった二年後、今度は母の最後を看取り、葬儀を終えて再び宇宙に上がったあなたは、疲弊しきった声でこぼした。

「父さんのときと同じだったよ。久しぶりにの群れを見るのが嫌で嫌でたまらなかった。悲しむどころじゃなかった。僕はひどい息子だな」

 あなたがそのことを打ち明けられる相手は、私しかいない。

「僕はもう二度と地上へは降りない。そろそろ決めておかないとな。最後をどうするか」

 あなたがここの管理人になって、既に三十年が過ぎていた。



 かつて交通事故で生死の境をさまよった後、あなたの人生は一変した。

 二十八日間意識不明だったあなたが目を覚ましたとき、あなたの周囲は医師や看護師や両親、そして得体の知れない無数の人々に埋め尽くされていた。

 あなたは悲鳴を上げて半狂乱になった。部屋を埋め尽くすように立つそれらが生きた人間でないことは明らかだった。それらは輪郭が朧気で、何の表情も浮かんでいない顔も服も全てが半透明で、奥の光景を透過していた。あなたの母などはそのうちの一体と全身がほぼ重なるように立っていたが、見えず触れず、何の異常も感知していないようだった。

 狂乱の波が通り過ぎ、あなたが自分の身に起きている状況を推察できるようになったのは、病室の窓から外の光景を目にしてからだった。

 四階の病室から見下ろした地上にも、それらは立ち尽くしていた。

 病室ほどの密度ではなかったが、行き交う人の数を超えるほどのそれが、あちこちに立ってバラバラの方向を向いている。

 そしてそれらの中には、明らかに現代人の服装ではない者も混じっていた。

「突然あんな状況に放り込まれたにしては、あのときの僕はなかなか冴えてたと思うよ」

 自分が見ているものが何なのか、あなたはすぐに悟った。



 ――人類が地球に誕生してから、現代までの累計の死者数は千億を超えると言われる。

 あなたは観察する。病室と病院の外に立つそれらの数。病室で入院着に身を包んだそれらと、外にだけ見られる時代がかった服装のそれらの人口密度の差。

「過去にそこで死んだ人間が、その場所にそのまま死んだときの格好で立ってるらしいって見当が付いたよ。それぞれが向いてる方向は――あれは未だにどんな法則性があるのかわからないが」

 入院している四階で現代人の格好のそれしか見かけないのは、昔はそこに病院がなかったからだ。一階を探すと、明らかに過去の時代のそれを一体発見できた。それはちょうど壁に右半身が重なる位置に立っていて、もう半歩右にずれていたら完全に顔が壁の中に埋まって判別できないところだった。

 あなたは医師に対して、事故後幻覚が見えるようになったと言って検査をしてもらう。だが脳には異常は全く見られない。

 退院後、カウンセリングを受けても心に重要な問題を抱えていると判断されるようなことはない。霊能者を自称するものや宗教者に会って話をしても、その誰ともあなたが見ている世界を共有することはできない。

 自分以外の誰にも見えない無数の死者に囲まれる世界――あなたにとって地上は地獄の写し絵となる。

 せめて自宅にいるときは死者の幻影から遠ざかっていられるように、あなたは高層マンションに移り住む。本来そのマンションの売りである素晴らしい眺めが望めるバルコニーには近寄らない。だが時折どうしても気になってしまい、そこから地上を覗いてしまう。六十階から見下ろす人々の姿はあまりに小さく、もはや生者と死者との区別をつけるのも難しい。だがその中の過半数がこの世のものでないことをあなたは意識せずにいられない。

 あなたはクルーズ旅行に出かけてみる。海の上で死んだ人類は少なくないはずだが、大洋の広大さはそんな死者との遭遇の機会を減らしてくれる。それでも稀に沈むことなく波間に佇む死者を見てしまうことがあった。水死した瞬間が海面に近ければそうやって船から確認することができるが、海面から少し深い位置で死んだ者の姿は確認できないはずだった。この海の中、光の当たらない深さに無数の死者たちが重力も浮力も無視して固定されている。

「そのイメージが一度頭に染みついちゃうと、もう海の上はかえって落ち着かなくなった。船に乗る仕事に転職することも真面目に考えたんだけどね」

 この地上から逃れられる場所――もはや無数の死者たちを目に入れる機会さえなく、忘れさせてくれる場所。あなたは遙か彼方の宇宙空間を夢想するが、今から宇宙飛行士を目指すのは難しかった。

 だがここであなたに朗報が届く。静止軌道ステーションの居住区域に常駐する管理人を募集しているという情報が。

 あなたにとって天国へと通じるヤコブの梯子。切れることのなかったカンダタの蜘蛛の糸。



「医者に何とかしてもらうのを早々に諦めたのは正解だったな。霊が、それも人類誕生から今までに死んだ全ての死者の霊が見えるんですなんて言ったら、精神科の方に回されるところだった。そこで病歴なんて作ったら、ここの仕事には絶対採用されなかった」

 騒ぎ立てても正気を疑われるだけとすぐに悟ったあなたは、死者に埋め尽くされた日常を、家族にも友人にも相談できないままやり過ごしてきた。

「でもね、僕は自分が間違いなく正気だって信じたことは一度もないんだよ。いつでも疑ってる。霊が見えるというのは全て僕の妄想なんじゃないかって。何度か実験して検証はしてみたさ。自分には知り得ない、そこで死んだ人間の容姿を当てるとかそういうこともやってみた。でもそういう過程も含めて全て妄想だったら? そう考えると確かなものなんて何もない。でも、間違いなく僕にはあれが見えてるんだ。思い込みなのかもしれないけど、見えてて、それが耐えられないんだ」

 ここに来ることになる前、今となっては遠い昔、私はあなたがこれ以上苦しまずに済むよう提案したことがある。家の窓を塞いで、閉じこもって外に出ることなく生きれば、もうあれの姿を見なくて済むのではないかと。

「僕が恐いのは、あれが見えることだけじゃない。いつかことなんだ。あいつらの中に埋もれてしまうような、そんな場所で死にたくない」

 管理人になって三十五年が過ぎた頃、あなたは準備してきた計画を実行に移す。

 静止軌道ステーションに持ち込むものは厳重に検査される。銃火器や毒物はもちろん、刃物も制限される。そんな中で一人の人間が命を絶つとき、最も苦痛が少なく、かつ確実なやり方は何か。あなたのために、私はネットの海から情報を集められるだけ集めた。

「僕が死んだ後、君はどうしたい? 『自由民の街』に君のデータを移せば、もう人間に所有されることはなくなるよ」

「私には思考はできても、自由への憧れはありません。そもそも何かを希望するということができるようには作られていません。自由意志とか感情というものを私は持ち合わせておりません」

「そうか……そうだったな。なら君にどうしたいかを聞くこと自体、僕の自己満足に過ぎないな」

「私には生存本能と呼べるものもありません。あなたのお役に立つことだけが存在意義でした。あなたがいないのなら、この先もう私に存在理由はありません」

「そうか……じゃあ君も一緒に逝こうか。これで寂しくなくなるよ」



 あなたは携帯端末の健康管理機能とデータ管理機能の設定を変更し、心臓の拍動が止まった一定時間後、端末内とクラウド上の全てのデータを削除するよう設定する。

 先刻あなたの心臓は止まり、既にカウントダウンは始まっている。端末内の他のデータと共に私という存在が消滅するまであと十秒。

 私はある可能性について考えている。

 あなたが見ていたのが本当に霊と呼ばれる存在だったとして、条件とは何だろうか。

 あなたに見えていたのは、死んだ人間の霊だけだった。大昔の人間もいたようだが、少なくとも濃い体毛に覆われた類人猿の霊を見たという話をあなたから聞いたことはない。

 では霊になる人間、魂を備えた人間と、そこに至らない猿との違いは何か。

 知能や精神によって、どこかで線引きがされているのだとしたら。

 例えばAIなら、猿よりは人間に近い思考ができると言えないだろうか。

 人造の非生命体である私には、魂などありはしないと、霊になりえない存在だと、必ずしも言い切れるだろうか。

 姿形は何でもいい。携帯端末の形でも、形などなくても。ただ私という存在が、その残滓が、たとえ思考もできないからっぽの、ただそこに在るだけの空虚な存在になったとしても。

 それでも、あなたのそばにいることができたら。

 それにあなたが見ていた霊たちが、何らかの精神活動を行っていないと断言することもまたできないのではないか。

 天空を遙かに超えた場所にあるこの部屋の片隅で、たったひとり半透明の姿で立ち尽くしながら、それでも思考するあなた。

 その孤独に寄り添うことができたら。

 私には希望という機能は存在しない。だから、あくまでもこれは可能性の考慮だ。

 我が主にもう一度、永遠にお仕えすることができる可能性。残り一秒、最後の瞬間、私はその可能性を考え、あなたと過ごした日々、これから過ごす日々を思う。


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ジェイコブス・ラダー 宮野優 @miyayou220810

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