裸の猿には分からない


 自分ひとりの幸福が何かも分からない猿ばかり集まって、自分たちの未来がどうあるべきか首を捻ったところで答えは出るだろうか?

 はっきり言うと、答えは否だ。


 宇宙艦エリダヌスは十何光年も先の星をテラフォーミングするためと言うお題目を掲げた開拓船だ。その船の中で現在、見回り当番セントリーとして働いているのは二人だけ。脳以外を躯械化した男、シメオン・フィッシャーとその反対に体のどこも躯械化していない男、ヴェズダ・ラビノヴィッツだ。

 彼らはついこの間殺し合いのようなものを演じたばかりなのだが、最終的には和解し平和な時間を過ごしている──とは、残念ながら言い切れなかった。

「ヴェズダ・ラビノヴィッツ……」

 ヴェズダがブリッジで作業していると、どこからともなく恨めしそうな声がしていた。ヴェズダは諸事情あって一.五人分の作業があるため全く、これっぽっちも暇ではないのだがさすがにこれを無視はできない。ブリッジ内部をきょろきょろと見回すと、暗がりの中でひとりの男が息をひそめるようにして佇んでいることに気が付いた。人形めいた端正な顔立ちの男が無表情でうつむきがちにしているとマネキンみたいだとヴェズダは思った。

「シメオン、仕事サボって何してるんですか」

「あっ、冷たい……俺傷つきやすいのでもっとやさしくして」

「……今日はどうしたんだ?」

「あのさぁ……」

 シメオンはもじもじと、恥ずかしそうに胸の前で指を突き合せた。シメオンはヴェズダにこの船のこと、地球の現状について洗いざらいあとから妙に子供返りして、端的に言うなら甘ったれた態度を採るようになった。

「俺、いろいろ考えてさ……やっぱ頭開かせてくれない?」

「ラボに帰ってくださいね~。くっ重い」

 ヴェズダがぐいぐいと引っ張ってシメオンをブリッジから追い出そうとするのだが、躯械により生身の人間の数倍は体重とパワーがあるシメオンはびくともしなかった。

「やっぱりさ、それが最善だと思うんだよ。俺。ヴェズダにはとっても悪いと思ってるんだけど。でも、君もそう思うでしょ、ねえ、このままじゃだめって君も分かってるんじゃないかな」

 シメオンの目はガラス玉のようで澄んでいるが、これは彼の体のどこもかしこも人工物だからそう見えるに過ぎない。漫画的カートゥーン表現が許されるならおそらく今彼の目は紫色でぐるぐるの渦巻きを描いているだろう、典型的な発狂状態だった。

 最初はこうなる度に上へ下への大騒ぎをしていたヴェズダだったが、三回目を数えるころにはこれが定期イベントであることを学び、現在では「またこの時期が来たかあ」と冷静な感想を抱けるようにまでなっていた。

「だから私に自ら死ねと言うんですね」

「君に死んでほしいわけじゃなくて……でも、」

「私を殺しますか」

 シメオンは脳以外を躯械化されている。それ故、他者の命を奪うような行為ができない。文字通り不可能なのだ。だから、ヴェズダの死を望んでいても直接の手出しはできない。それを分かってヴェズダが口にするとシメオンは深い溜め息を吐いた。

「分かってるくせに、君って意地悪だね」

「あなたが繊細すぎて面倒だからそう思うんですよ」

「優しくしてって言ったんだけど」

「はいはい。ハグするか」

「する……」

 ヴェズダが腕を広げると、少しだけ身長が高いシメオンがもぐりこむように胸へ飛び込んでくる。力加減はされているのだろうがぎゅうぎゅう締め上げられて大蛇に巻きつかれているような気分になった。とはいえ拒否するつもりはないので、ヴェズダは彼の背中に手を回し落ち着くまで待つ。これがルーティーンだった。シメオンは他人とハグすることによってストレス値を減少させることができる。ハグが一番手っ取り早いのだ。

 大の男同士で何してるんだろうな、とヴェズダは一瞬我に返りそうになるが、これは治療行為だと自分に言い聞かせる。彼が抱える苦悩の根源を解決すればいいのだろうが、ヴェズダはカウンセラーでもないし、シメオンの問題はカウンセリングでどうにかなる領域を超えているように思う。

 彼は百年の長い時間を宇宙船の中に閉じ込められ、乗組員クルー同士が殺し合いするところを見て、時には自分も殺されそうになってきた。その間自分を保つために、方舟としてのこの船を守ることに存在意義を見出すようになったのだろうというのが本人の見立てで、だからこそヴェズダの頭を開きたがっている。ヴェズダの頭の中には、オーバーテクノロジーと言える拡張機能プラグインが存在しているせいだ。

 ヴェズダは、地球人類のために死ぬべきだということは理解している。だが、別にそれは今である必要がないし、よしんばASAP可及的速やかだったとしても承服しかねる。それが死に対する生理的な恐怖から来ているのか、はたまたもっと利己的で醜い精神活動に由来しているのかは考えないことにしていた。ともかく、死にたくはない、だが死ぬ必要があることは理解している、この二点の落としどころは誰かに殺されることなのだ。だが、シメオンはそれができないので、彼らは膠着状態とでも言うべき状態にある。問題の永久的な先延ばしと言い換えても構わない。

「……落ち着きましたか?」

「もう少し」

「私そろそろ仕事に戻りたいんですが」

「冷たすぎる。心が鉄でできてるんじゃないの……」

 体が金属とシリコンでできているのはシメオンのほうだ。シメオンの下手なジョークだろうかと思って愛想で笑ってやると、そういうつもりではなかったらしくまたずんと気配が重くなってしまった。またしばらく沈黙が続く。今回はヴェズダのほうが、一応、少しだけ、かすかに悪いので、おとなしく背中を撫でさすることに集中する。

「きみは……」

 やっとシメオンが体を離し、口を開いた。肩を掴まれてまっすぐに目を見つめられる。

「俺に生やすなら陰茎と乳房、どっちがいい」

「は?」

 喉からとても低い声が出た。


「呼び方分かりにくい? ちんことおっぱいならどっち好き?」

「すみません、どういう流れで、私は何を聞かれてるんですか?」

「そうだね。まず、さっきまでありがとう。だいぶ落ち着いたと思う。君に恥ずかしい姿を見せたね」

 そう言ってヴェズダをのぞき込むシメオンの顔はさっきまでと概ね大差はないのだが、確かに少しばかり余裕が見える気がする。発狂状態は脱したようだった。

「いえ、いつものことです」

「そう、問題はそこなんだよ。毎回毎回、俺はいつも君に迷惑をかけている」

 そんなことはないと否定してあげることはできないのでヴェズダは口を噤んだ。

「君は特別ハグが好きではないようだし、俺もみっともないところをこうも頻繁に見せるのは嫌だ。それで今思い出したんだけど、ハグは裸でしたほうが効果があるんだ。少なくとも俺のほうはね」

「そう、ですか」

 総械体のプログラムがそうなっているということなのだろう。ハグでストレス値を後退させられるような設計にしているだけでも設計者の顔が見て見たいのに、その上裸だと効果アップとか設計者は頭にティーンズラブでもインストールしているのかと疑いたくなる。

「だから、回数を減らすために裸でハグをしたいんだけど、君はどっちがいいのかなって」

「百歩譲って胸部は分かるんですが、股間はハグに関係ないんじゃないですか」

 ハグにちんこは使わない。ハグをしたら触れる可能性はあるが、わざわざつける必要があるとは思えない。疑念を浮かべるヴェズダに対し、シメオンはさわやかな笑みを浮かべたまま、

「できればセックスもしたいからね」

「……それをすると、どうなるんですか?」

「あれ、君って童貞(ヴァージン)? セックスすると気持ちよくなるんだよ」

「私のほうはおかまいなく。そうではなく、シメオン側はどうなるんですか」

 総械体でも痛覚はある。痛覚というよりも破損と言う情報を伝達するものであって、もしも腕を引きちぎられたとしても呻きひとつ漏らすことはないだろう。触覚も同様のはずではないのだろうか。

「気持ちよくなるんじゃないかな? 総械体でもしたい人向けのアタッチメントってかなり充実してるから」

「そうなんですね……」

「ぶらぶらさせておくとバランス崩れるからいつもは取っておいて、ベッドに入るときだけつけるんだよ」

 面白いでしょ、とシメオンが笑う。全く笑う気分になれなかったので口の端を引きつらせる程度がせいぜいだった。


「しようよ、セックス」

 それからというもの、シメオンは何故か頻繁にヴェズダをセックスに誘うようになってしまった。ついこの間までヴェズダを殺すだなんだと言っていたはずの人間が性行為に誘ってくるのはある意味では一貫していると言えるのかもしれない。どちらも生死に関わる問題なので。ヴェズダは仕事を中断させられたりいい気分でお茶をしていたりするのをぶち壊されたりしているので大変に気分を害していた。早くブームが過ぎてほしかった。

 黙殺していると、シメオンがヴェズダの周りをうろうろしながら「なんでしたくないの?」と尋ねる。

「私たちは恋人でもなんでもないですし、そういう関係を安易に持つべきではないと思います」

「ヴェズダがしたくない、ってことではないんだね」

 よかった、とシメオンが胸を撫でおろす素振りをする。そこを拾われるとは思っていなかったのでヴェズダは咄嗟の返答に窮した。実際、嫌かどうかと聞かれるとよく分からない。ヴェズダは童貞だったし、能力のせいで友人関係も利害と損得の有無しか考えてこなかったので性知識は保健体育的な部分で止まっている。

「恋人じゃない人とセックスしてはいけないっていうのはリスク管理の問題だよ。柔らかくて繊細な部分を他人に晒すわけだしね。不用意に他人とやると傷や病気のリスクが上がるうえ、責任を取ってもらえない可能性がある。その点、ここでそれを問題にする必要はないだろう? 俺は躯械だし、ここには俺と君以外いないから不特定多数と交わるわけではないし」

「デメリットがないとしても、する理由がないと思います」

「セックスは気持ちがいいことなのに?」

 きょとんとするシメオンに対して、そういえばこの男は脳に快楽を送るためならギャンブルを肯定できる倫理観の持ち主だった、とヴェズダは思い出した。最終成果物の脳内快楽物質が分泌されるなら手段は問わないということだろう。

 問うてほしい。切実に。ヴェズダは眉間を押えながら断る理由を考えようとした。そこでふと気が付く。

「……あなたが本当の理由を教えてくれたら検討します」

 確かにシメオンはギャンブルを肯定していた。だが、実際にはそれは嗜む程度のようだったし、自ら進んでやりにいくような熱量を持っているわけでもないようだった。それと同じようにセックスについても一歩引いていそうなものだ。

 なのにぐいぐい来る理由が分からない。つまり、ヴェズダに説明していない意図があるに違いなかった。ヴェズダはそろそろシメオンの行動パターンを解析しつつあった。シメオンは「本当の理由なんてないよ」と即答したが、ヴェズダはそれに構わず無言で見つめ続ける。表情は笑顔で固まっているし、目が泳いだりもしないし、躯械だから冷や汗をかくわけでもない。総躯械というやつは不便だ。心をどこまでも隠してしまう。

 心とかいうものを暴くことができるのであればセックスとかいうやつもやぶさかではないのかもしれない。でも、一糸まとわぬ裸になって恥ずかしいところを見せあったからって精神活動の一端だって掴めやしないのだ。余裕がないところを本当のその人だなんて言うのは、揚げ足取りに近いものがある。そもそもシメオンの余裕がないところなんてヴェズダはごくごく頻繁に見ているし、迷惑をかけられているのだから今更だ。

 にらめっこに根負けしたのはシメオンのほうだった。

「か……」

「か?」

「快楽堕ちしたら何でもお願い聞いてくれるかなって……」

 何恐ろしいこと考えてるんだこいつは、とヴェズダは戦慄した。そして、冷静に見えてこの男は先日からずっと発狂状態のままだったということに気づく。なるほどこういう発狂の仕方もあるらしい。ヴェズダはさっき自分がこの男について理解してきたような錯覚を覚えていたことを恥じた。

「せめてそこは私のことが好きだからとか言えるようになってから出直してください」

「言おうか?」

「言っても今更ですよ」

 シメオンの病は根深い。とんでもなく。時折ヴェズダは途方もない長さの道を前にしているような気持ちにさせられる。だのにヴェズダはどうしても、この男に僅か期待を寄せてしまう。

 期待なんて、恐ろしくささいなものだ。

 個人的な感情を抱いてほしいだけ。ヴェズダという個人を見て、個人に対して殺したいだとかセックスしたいだとか思ってほしいだけ。そんな些細なことがこのポンコツサイボーグには分からないのだ。そう思うことがどういう感情に由来するものか、ヴェズダはなるだけ考えないようにしている。

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方舟の解を求めよ 塗木恵良 @OtypeAlkali

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