方舟の解を求めよ

塗木恵良

1 指名性共犯者


 こどものような説明が許されるのであれば躯械くかいとはつまり機械でできた体のことだ。

 疑似神経を有しており、セラミック製の骨格と樹脂製の筋肉はあたかも未械体──無改造の人間だ──と変わらないように滑らかに動く。

 躯械使用者の多くは手足の一部または全部を躯械に置き換えている程度だが、内臓系の損傷や疾患、あるいは先の戦争による食糧難を逃れるために首から下のすべてを躯械にした者も珍しくはなかった。何せ、消化器官を全部機械製にしてしまえば小麦の代わりに燃料か電気で済む。

 ヴェズダは、体のどこも機械ではない。まっさらな未械体だった。

 侮蔑や嫉妬を込めてすべて生オールフレツシユなんて呼ばれることもあるが、それでも躯械化しなかったのは必要を感じなかったからだ。拒絶したわけでもない。なんなら、十四歳のころ流行りに乗って躯械化を試みたことがないわけでもないが、クリニックに連絡したあとなんだかとても嫌な予感がして結局予約枠を友人に譲ってしまった。

 その後もなんとなく避け続けて、結局ヴェズダは生肉のまま宇宙の果てにきてしまった。

 いや、果てではない。

 ここはおそらく太陽系ではないが、果てというほど遠くまで来てしまったわけではなかった。

 今も毎秒何光年とかいうすさまじいスピードで膨張している宇宙全体からすれば、ヴェズダの乗っている船は地球の近所をのろのろしている、むしろ相対的には近づいていると言ってもいいくらいだ。

 ベガもアルタイルもデネブもずっとずっと遠くて地球から見るのとそう変わらないくらいの位置に見える。

 あれが本当にベガで、アルタイルで、デネブなのかはヴェズダの貧困な知識と審美眼ではさだかではないが。

 ヴェズダはブリッジの巨大な窓型ディスプレイに投影されている外の風景をぼんやり眺めながらそんなことを考えている。のんきにしている場合ではなかったのだが、ヴェズダの思考は遅々としていて、まるで百年前に売り出された骨董品のパソコンみたいだった。

 のろのろと、視線を動かす。見るべきものをやっと視界に入れた。



 まっくらなディスプレイの前には男が立っていた。


 そんな男の足元には首から下を完全に躯械化しているらしい男が倒れていてぴくりとしない。この空間には三人の男がいて、残った一人であるヴェズダはブリッジに入ったところに立ち尽くして彼らの背後で視線を遊ばせることしかできないでいる。

 躯械が損傷すると液体が流れるということを、ヴェズダはさっき初めて知った。

 倒れ伏した男が、先ほどからずっとだくだくと得体の知れない液状のものを胸からあふれさせ続けているおかげだった。

 おそらくその液体が発生源となって、鉄さびと揮発性オイルのまじりあったつんと鼻につく臭気がブリッジに充満している。搭乗員たち共通のジャンプスーツに染みこみ胸の上を流れる液体は、湧き出た瞬間は透明なようだが、妙に粘性の高いそれは空気に触れるとともに赤く色づく仕組みにでもなっているらしい。床に広がったそれはあたかも血だまりのように真っ赤で、表面張力によって盛り上がっていた。

 がんばって血のふりをしている液体は、なんだか涙ぐましいものがあった。

 きっと躯械の開発者かパトロンかあるいはクレーマーかそのあたりに、『人間のかたちをしている体に流れる液体は赤くてどろどろしていなければならない』とでも言いだしたスピリチュアルで感傷的な人間がいたのだろう。ヴェズダは躯械に詳しくないので、そんな風に推測した。

「おはよう、ヴェズダ・ラビノヴィッツ」

 立っている男のほうが頭をもたげた。ヴェズダのほうへ視線をくれる。

 その顔を見た時、ヴェズダははっとした。この男はだいたい鉄モストリーアイアン──脳みそを除いた、爪先から頭のてっぺんまで躯械化した人間だと気が付いたからだ。感情を排して呼称するならば総械体というべきか。

 人類の技術はとっくの昔に不気味の谷を乗り越えているから、ヴェズダがそう思ったのは単に直感で、確信だった。造形が文字通り作り物みたいに整っているだとか、この暗い中で照明のより少ない入口側に立つヴェズダのほうへ悩むことなく目を向けただとか、こじつけに近い理由はいくつかあるけれどそれも全部後付けだった。

 総械体男の上半身は真っ赤に濡れていた。

 まるで殺人事件の真っ最中みたいだな、とそんな現場を見たこともないヴェズダは思った。こどもみたいで、無責任で、他人事めいた感想になってしまったのはひどい頭痛がさっきからずっと後頭部をじんじんとしびれさせているせいだった。とても嫌な予感がしていた。

 人生が丸ごと変わってしまうような、嵐のような予感だった。

 そしてたぶん、それはもう逃げられないところまで来ている。

「やっと来たね、俺の共犯者」

 男は笑ってヴェズダの方に左手を差し伸べた。その手は真っ赤に染まっていて、絵の具をいっぱいに溜めた桶に肘まで突っ込んだみたいなひどい有様だった。自分も同じユニフォームを着ているはずなのに、全くの別物みたいだ。

 ヴェズダは救いを求めるみたいに、もう片方の右手にも視線を走らせる。だらりと下がった右手は、やっぱり真っ赤で、やっぱりずぶ濡れで、違うのは銀色に鈍く光る鋭利な刃物を握っているということくらいだった。

 もしもここが殺人現場だったならば、この男はたった今、人を殺したばかりだろう。

 ヴェズダの頭の中にはたくさんの疑問符が浮かんでいたけれど、それを口に出そうとすると喉で押し合い圧し合いになってちっとも言葉にならなかった。

 一体この男は誰で、共犯者というのはどういう意味なのか。どうして躯械が損傷していて、どうしてその液体が男にべっとり付着していて、男はナイフを握っているのか。

 何故、倒れた躯械の人は血だまりのように見える水たまりの中に顔を伏せたまま起きず、ぴくりともしないのか。

 最後の質問だけは、わざわざ誰かに聞かなくても分かりそうだった。

「その人は死んでいるんですか?」

 一番聞く必要がなかったのにぽろりと口からこぼれてしまったのは、おそらく、否定してほしかったせいだ。

 ヴェズダの祈りは、祈りらしく、ただの思念のまま終わってしまった。男は無慈悲に口を開いて、にこにこしながら朗々と答えた。

「そうだよ、俺たちのための哀れな犠牲者だ」

 全く意味が分からなかった。だってヴェズダは、さっきコールドスリープから目を覚ましたばっかりだったからだ。




 ヴェズダが生まれる半世紀近く前に、世界大戦があった。百年にも及ぶその戦争によって、太陽系第三惑星である地球のうち七割が居住不可能地域アネクメーネとなり、一時期は総人口が十億人を割ったという。

 なんでそんなに長い間戦争していたのか、理由は判然としない。

 きっかけはよくある資源と土地の分割問題だった。アフリカの真ん中あたりで戦争がはじまって、それから十年もしないうちに鉱山も油田も肥沃な農地も、奪い合っていた土地そのものが焼け野原になって永久に失われてしまった。そのあとなぜか、アフリカ大陸で始まったその戦争が何故ユーラシア全土へ、そして海を隔てたアメリカ大陸へ火花のように伝播した。その後ほとんど一世紀のあいだ、無関係の場所で、無関係のひとびとが何のために争っていたのか、生き残った歴史学者と文献では合理的な説明をするのは全く不可能になってしまっていた。まるで保育室で赤子の号泣が他のこどもに伝播するような、ただ隣で泣いてるから自分も泣こうみたいな、そんな理不尽な戦争だった。

 ともあれ暗黒時代とでも言うべき戦火は、百年もすれば落ち着いたけれど、その爪痕はあまりにも大きすぎた。

 前述のとおり人間の住めない土地が多くなりすぎたし、人間が採掘できるような低層にある資源はほとんど採りつくされて、消費されきってしまっていた。最悪なことに、中世だか古代だかの生活に戻ればいいという話でもなかった。一部の奇異な人間を除けば躯械化手術を受け体の一部が躯械になっているのが当たり前の時代になってしまい、今更人類は利便性の恩恵を手放せないというのもある。それに、居住可能とされている地域であっても空気や水、土壌を機械によって浄化しなくてはろくに住めたものではない土地も多かったからだ。

 再生可能エネルギーのたぐいは戦前研究が進められていたが、戦争中にエコを考える人間なんていない。ほとんどが失伝しておりゼロからの開発になる、すると当然だが地道で気長な時間が必要だった。それに時間をかけたからと言って実を結ぶと決まったわけでもなかった。

 人類には鉄が必要だった。アルミが必要だった。銅が必要だった。ケイ石が必要だった。化石燃料が必要で、レアメタルが必要だった。

 ないものを得るにはどうすればいい。

 簡単だ。よそから奪ってくればいい。

 世界大戦と呼ばれるものはいつだって技術革新を生んできた。航空技術、大量破壊兵器、高度計算機エトセトラエトセトラ。のちの時代を豊かにするための萌芽は酸素と水ではなく硝煙と火花が育む。そういうわけだから、人類を窮地に陥らせた先の大戦もまた人類に希望の光を落とした。マッチポンプとは言わないでくれ。

 テラフォーミング、コールドスリープ、そして躯械化技術。三種の神器を持ち、人類は第二の航海時代に突入した。



 ヴェズダ・ラビノヴィッツが開拓船に乗ることになったのは、職場の人間に頼まれたからだった。

 ヴェズダはしがない工場労働者だった。体のどこも躯械化していないから高度で危険な作業はできず、清掃だとか螺子の点検だとか仕分けだとかをする低級作業員としてほそぼそと暮らしていた。給料は少ないが、同僚や近所の人間と助け合えば生活できないことはなかった。

 昼休憩中の雑談で宇宙開拓のニュースを知っても、それは全く遠い世界の話だと思っていた。ヴェズダだけではなくそこにいた皆も同じような態度だった。誰も自分が地球を追い出されるなんて思ってもいなさそうで、大変だねえ、でもちょっとわくわくするわね、と他人事のお手本みたいな感想を並べていた。けれどそのうちの一人が、妙に暗い顔をしていることにヴェズダは気づいてしまった。まだ幼い子供がいる女性で、しかしパートナーの話は聞いたことがなかった。

 後日、その女性から呼び出されるときひどく嫌な予感がした。ヴェズダは昔から、この手の予感に鋭いほうだったし、その予感が外れたことはなかった。けれど、だからこそヴェズダは、最初から断るという選択肢がなかった。呼び出しについても、そのあとのお願いについても。

 案の定、女性は顔を真っ青にして、なんの間違いか自分が開拓船の搭乗員に選ばれてしまったこと、けれど自分には無理なこと、ヴェズダは独り身だからどうか引き受けてほしいことを平身低頭して頼み込んだ。

 その時も、ヴェズダはひどい頭痛にさいなまれて耳の後ろがじんじんしていた。

 この頼みに頷いたら、ものすごく大変なことが自分の身に降りかかるだろう、ということを直感で理解していた。ヴェズダは努めて頭痛を表情に出さないようにして、女性の頼みを引き受けた。

 こうしてヴェズダは開拓船の乗組員になった。

 等級は最下層の第三級。

 まことしやかに囁かれている噂によると第三級はすべて肉オールフレツシユで固められていて、鉱山のカナリア役らしい。つまり宇宙船内や開拓星で、人間が生きていられる環境かどうかをチェックするための人員ということだ。だからというわけではないだろうが、女性に代わって自分が搭乗員になりたいとヴェズダが申請を出したとき、簡単な検査をしただけですぐに承認された。

 開拓船は第一陣として四艘が用意されており、それぞれ目標の銀河へ旅立つ。目的地となる星は事前にハビタブルゾーンの惑星のうち地球類似性指標ESIと距離を勘案して選定されている。ヴェズダが乗るのはそのうち、「エリダヌス」と呼ばれているもので、これは四艘のうち目的の惑星が最も地球から遠く、地球類似指標もあまり高くはないことから人気がない船だったのも承認が早かった理由かもしれない。逆に一番人気の「ケンタウリ」は巷では方舟の再来と呼ばれ、搭乗権がオークションにかけられたという眉唾話さえどこからともなく漏れ聞こえてくる有様だった。

 ヴェズダはエリダヌスに乗るために職場をやめて、知人や友人に挨拶をして回った。

 幸運なことに、ヴェズダには家族がいなかった。父母は十五歳の時に失踪していて、祖父母は生まれてから会ったこともないし名前も知らない。だからこそ、ヴェズダは同僚の頼みを受け代わることにしたのだ。

 天涯孤独な自分は、家族がいる人よりも悲しませる人数が少なくて済む。とても単純な算数の問題だった。

 そうして準備を終えたヴェズダは船に乗り込むやいなやコールドスリープによって眠り、自分の当番が回ってくるまで時間ごと氷漬けにされることになった。

 宇宙は広い。目的地までは非常に長い時間がかかるので、常に数人が起きて船のメンテナンスをし続けることになっている。

 ヴェズダは百三十年目に当番が回ってくることになっていた。


 人生が二回分終わるほど長い眠りから目が覚めてみて、ガイドに従って身なりを整え、同じメンテナンス当番セントリーグループの人間と顔を合わせるためにブリッジに向かったヴェズダを待ち構えていたのが、この見るからに何かあったとしか思えない現場だった。

 同じセントリーの人間とは搭乗前に面識はなく、それどころか名前すら知らなかった。

 なので、当たり前だが、共犯者と呼ばれる謂れはない。思い当たる節は皆無だった。




「起きて、ほら、こんなところで寝てたら風邪引くって」

 肩をがくがく揺さぶられて、ヴェズダは自分が意識を失っていたことに気づく。金属製パネルの床は冷たく、それを冷たいと感じているあたり横たわっていた時間はあまり長くないようだった。

 頭を起こすと鋭い痛みがぶり返してきた。見れば、白いスライムのようなものがひとつふたつ、塊になって床にべっとりとくっついている。冷凍睡眠中、内臓がつぶれないようクッション材として難消化性食物繊維ペーストをめいいっぱい、喉からあふれるほど詰め込まれたのでそれを吐き戻したのだ。視界はまだぐらぐらしていたが顔をあげると男と目があった。

「おはよう、我が共犯者」

 その発言で、はっと我に返る。周囲を素早く見渡せば、ヴェズダはまだブリッジにいて、やや鼻が慣れたとはいえいまだにつんと鼻孔を刺激するオイルのにおいがあたりに漂っている。機材やデスクで上半身は隠れているが、床に延びる足も見えた。それを水浸しにするように広がる血だまりも。

 反射的にこみ上げてきた吐き気を飲み下した。それがヴェズダにできた精一杯だった。

「ヴェズダ・ラビノヴィッツ」

 声をかけてくる男はなぜかにこやかだった。

 血しぶきの一滴もついていない白皙が、青白く浮かび上がってホラーじみている。もっとも、男の手にはスイカも真っ二つにできそうな立派なナイフが握られているのだ。よりプリミティブな恐怖があった。

 この男の前で一瞬でも意識を失っていたことに今更ながら思い至って、足元がぐらつくような心地がした。

「悪いけど、二度寝はあとにしてね。俺たちには時間がないんだ」

「時間……」

「まずはこの死体を片づけてしまわないと大変なことになる」

「死体、なんですか」

 ヴェズダは自分で口にして、阿呆のような響きにびっくりした。さっき犠牲者だと言っていたことに、あとから気づいた。けれど男は笑みを崩さず呆れも見せず、「うん、そうだよ」と優雅に頷いた。

「なんでですか」

「時間がないって言ったでしょ、おしゃべりもあとだってば」

「待ってください、ついていけない……」

 情報量が多すぎるし、ヴェズダはずっと脳みそを針で刺されているみたいな痛みを感じていて碌に思考がまとまらなかった。何もかもが理解できない。目が覚めたら宇宙船で、目が覚めたら百三十年経っていて、それは自分で決めたことであっても信じがたいのに、その上起きたら人が死んでいて、男が殺していて、自分は倒れて、起こされて、せかされている。

 何故?

 何から手をつけていいかわからない。それに、死体、死体だ。さっさとしてくれと急かされてどうにかできるほど、ヴェズダは人生経験が豊富ではなかった。

 男はこてんと首を傾げた。こどもじみた仕草だが、明らかな成人男性がやっているせいで、いかにかんばせが整っていても違和感のほうが勝る。

「嫌なの?」

「え」

「手伝うのが嫌かって聞いてる。まだ眠いの?」

 休みたいというのが本音だった。ヴェズダはついさっきまで百三十年と一瞬意識がなくて、そこから目覚めたばかりだ。眠気なんて全く感じないけれど、整理したい。逃げたかった。だが、ここで本音を言うことに対して本能が警鐘を鳴らした。

 生唾を飲み込む。頭蓋骨のなかで、なまなましく嚥下の音が木霊した。

「……嫌って答えたらどうなるんですか?」

「君はとても頭が悪い子なんだな、って思う」

 その答えに単にヴェズダの調子をうかがうための質問ではないらしい、と気づく。前期学校エレメントリの児童が書いた作文みたいに稚拙な言葉だが、そこには明確に、分かりやすいほど裏の意味があった。

 男は、この状況を見て否と答えるやつは考えなしの馬鹿だ、と言っているのだ。

 それはつまり、否と答えることは明らかに不利益が降りかかるということだった。その不利益が、一体全体どんなものか。想像するまでもなく答えが目の前に転がっている。

 ヴェズダの顔からさ、と血の気が引く。

「俺は頭の悪い子は好きじゃないんだ。だから場合によっては、仲良くするのを考え直すかもしれない」

「……手伝い、ます」

「そう? 無理はしないでいいよ」

「やります」

 そう宣言してから、いっそう頭痛がひどくなった。

 これまで生きてきて経験したことがないくらい、強く後頭部が痛んでいた。百万本の針で針山にされたところを、さらに角材で滅多打ちにされたみたいで、ヴェズダはとっさにうなじを押さえた。血は出ていなかった。だから、この耐えがたい頭痛がいつもの予感で直感なのだと分かった。

 この男の手を取ってはいけない。と、第六感が騒ぎまくっている。けれど、ヴェズダにはその手を取らないという選択肢はすでにもうどこにもなかった。




「君は足と頭、どっちがいい?」

 なにがとも、なぜとも質問をするのも憚られた。

 馬鹿なやつだと思われて相手の心象を悪くするのは得策ではなかったし、そもそも聞かなくてもわかる。床にいつまでも死体を置いておくことはできない。運搬するのだ。二人で長細いものを運ぶとしたら、端と端を持つしかない。

 ヴェズダは少し投げやりに足と答えた。

「うん、それがいい。頭は躯械じゃないけど上半身はだいぶ重いだろう、俺が担当したほうが無難だ」

 男は頷きながら倒れ伏した人……死体をひっくり返した。

 躯械から流出したオイルと冷却液の混ざった液体は少しだけ乳化しているようで、よく見るとただ赤いだけではなく濁ってマーブル模様を描いているようだった。

 その水たまり、油だまりに突っ込まれていた顔はひどい有様だが、おかげでヴェズダは死相をきちんと見なくて済んだ。鼻梁や眉骨はあまり高くなく髪は暗い色をしていて、おおよそアジア系の特徴を有する青年であることは分かった。

 アジア系は見た目から年齢の見当がつかないが、中年まではいかないように見える。ただ、少なくともその顔立ちからは、死んでいいような極悪人には見えなかった。

 頭に比べたら足はきれいなものだった。搭乗員ユニフォームも分厚いラバーソールの室内履きも少し血じみた油汚れがあるだけだ。

 ソックス越しに足首を握ると、樹脂でできた疑似肌膜ハイドの柔らかさが一瞬感じられたあと生き物ではありえない金属の硬さにぶつかってそれ以上指が沈まなくなった。

「せーの」

 男の掛け声に合わせて体を持ちあげる。

 見た目よりは重たい。が、想像していたよりは軽い。

 躯械の組成はおおよそ樹脂と金属のはずだから身構えていたが、同じサイズの鉄骨などよりはよほど軽そうだった。重さを感じないのは、一緒にこの体を担いでいるもう一人の男のおかげである可能性も高かった。総械体は首から下の躯械化とは段違いに金がかかるし、基礎スペックも要求される。そもそも一般流通しないくらい、文字通り格が違うのだ。

 総械体の男は、死体の脇から腕を通しほとんど抱き込むような形で上半身を支えていた。

 そんな体勢、ふつうなら気分が悪くなりそうなものだが、男の口元にはうっすらとした笑みまで浮かんでいる。ただ、楽しいからとか嬉しいからとかそういう理由があって笑っているわけではなくて、義務的に唇の形を整えた結果みたいな表情に見えた。

 死体を挟んで得体のしれない男と正面から向き合うような体勢になってしまったことにヴェズダは気がついた。心臓が嫌な音を立てて軋んだが、男の両手がふさがっているおかげで差し迫った恐怖は感じなくて済んだ。

「じゃあ、行くよ」

「……はい」

 そのままブリッジを出たが、部屋から出して終わりというわけではなくしばらく歩かなくてはいけないらしい。

 ヴェズダは必死で視線を虚空に泳がせながら、このあとどうなるのか考えないようにしていた。幸い、冷や汗で手が滑って握っている足首を落としそうになるし、頭痛がちっとも止む気配がないので、難しいことを考えられるほど脳のリソースに余裕はなかった。

「右に曲がるよ」

「はい」

「君の名前は?」

「え?」

「そういえば自己紹介をしてなかったと思って」

 先ほど自分の名前を、それもフルネームで呼ばれたような気がしたのだがあれは気のせいだったのだろうか。

 疑問は浮かんだが野暮なことを突っ込んでもいいことはなさそうだったのでヴェズダはおとなしく名乗った。

「ヴェズダ・ラビノヴィッツです。……二十三歳、男、第三級、未械体です」

「血液型は?」

「A型、二月九日生まれ、フルヴァツカ出身、病歴はありません」

「尋問じゃないんだからそんなにしゃちこばって答えないでいいよ。雑談だと思って」

 死体を二人で抱えて運びながらユーモアを交えた愉快なトークを期待していたとでもいうのだろうか、この男は。

 誠に恐縮だが、ヴェズダはそんなサイコパスではない。類は友を呼ぶとはいうが、勝手に共犯者に指名されているだけなのだから仲間のように思わないでほしかった。

 そもそも、共犯とはどういうことなのか。ヴェズダはこれから哀れな第二被害者になるのではないのか。油断させようというのだろうか。それにしたって、もう少し言い様もやり様もあると思うが。

 ヴェズダの探るような視線を、男は問い返されているものと勘違いしたらしい。

「俺はシメオン・フィッシャー。第一級搭乗員だ。セキュリティクリアランスはB。総械体だからほとんど血は通ってないけど、一応B型」

 案外律儀に名乗った男……シメオンに、ヴェズダは「はあ」と気の抜けた返事をするのが精いっぱいだった。それ以外にこの場で最適なリアクションがあるとは思えなかったが、シメオンにとってはそうではなかったらしい。くすりと笑みをこぼした。

「俺のプロフィールは退屈?」

「いや……」

「まあそうか。聞きたいのは俺のプロフィールなんかじゃないだろうしね」

 さっきと今とこれからのことのほうが知りたいんだろう、とシメオンは見透かしたようなことを並べてから、くいっと眉を持ち上げた。ヴェズダは空唾を飲み込んだ。

「……聞いたら答えてもらえるんですか」

 もしかしたらさっきの視線の意味を、シメオンはきちんと、精密と言ってもいいほど正しく察していたのかもしれない。ヴェズダはシメオンの名前も血液型もどうでもよかった。

「教えてもいいんだけど、一つ聞いてもいいかな」

「ええ……」

「君はこの船で死体が出たらどうするかを知っている?」

「……凍眠機ピユーパに入れるのでは?」

 自分で言ってから、ヴェズダはおかしいことに気づく。こっちの道じゃない。

 凍眠機と呼ばれるコールドスリープ用カプセルは貨眠室ハニカムに押し込められていている。かく言うヴェズダも先日冷え冷えの貨眠室から出され、横の解復室インキユベータで数日かけて解凍されてついさっき出てきたばかりだ。

 だから、ヴェズダはブリッジから貨眠室への道は知っている。故に断言できるのだ。

 今シメオンがヴェズダを導いているのはまったくの別方向だった。この先に貨眠室はない。

「二世紀前ならそうしたかもね。でも俺たちにはアイスバーになった死体と一緒に宇宙旅行をする贅沢は許されていない」

「では……捨てると?」

「それもダメだ。かつて火星に行くのも精いっぱいだったころ、宇宙飛行士の死体を持ち帰ったのは感傷的な理由だけじゃなかった。宇宙空間に遺体を放り出して、期待した通りに朽ちてくれるかどうかは分からないし、それに」

 思わせぶりに、言葉を切る。

「勿体ないだろう?」

 シメオンが足を止めた。ヴェズダもそれに合わせて止まったが少し遅かったようで、抱えていた死体が少し軋んだ音をたてた。膝かどこかでモーターが空回りする感触が、セラミックを伝って冷えきったヴェズダの指先を震わせた。

 目の前には両開きの扉があった。生体認証もカードリーダーも古式ゆかしい鍵穴もない。グランドピアノを立てて運び込めそうなくらいにサイズは大きいが、装飾のほとんどない質素なドア。人感センサー式らしくシメオンが来たことに気づいたように口を開けた。ひゅご、と空気の抜ける音が、寝ぼけた怪獣のいびきのように響いた。

「着いたよ」

 一歩踏み入ると照明が自動で点灯した。大きすぎる扉に対し、室内はさほど広くはなかった。グランドピアノを置いたらそれだけで半分は埋まってしまいそうなくらいのサイズだ。

 手前の壁には棚とロッカーが並び、奥の壁は垂直ではなくなぜかゆるめの傾斜がかかっていた。そこに三つ、四つ、横並びで観音開きの取っ手がついている。取っ手がついている周囲の壁にはちょっとした窓くらいの切れ込みがあるから、そこが開くのだろう。しかし収納だとすると、妙に下すぎる配置だ。腰を屈めなければ窓を覗くことができない。それに、壁の広さに対して窓枠が小さすぎる。

「ここは……」

「平たく言うと、ゴミ捨て場だ。生ものはこっち、金属はあっち」

 シメオンはなんでもないことをみたいに言った。

 生活をしていればゴミが出る。

 それはそうだ。宇宙だろうが、当たり前の摂理だ。だからこの船にこの施設があること自体は全く不思議なことでも、ましてや恐ろしいことでもなかった。

 けれど、今からしようとしていることが何なのか悟ったヴェズダは顔を真っ青にさせた。

「まさか……」

「君は知らなかったみたいだから教えてあげる。資源は有効に活用しないといけない……人間の体だったものであっても例外じゃない」

 シメオンは、にこりと笑みを深めるとヴェズダをさらに絶望に突き落とすようなことを口走った。

「さ、一緒に分別しよっか」

 彼の後ろの壁がうなる。正しくは、壁に取り付けられた小窓の向こうから、ごうんごうん、と巨大なコンクリートミキサーが回転しているかのような鈍い回転音が響いてきた。巨大な生き物の腹鳴だと錯覚させたがっているかのような絶妙のタイミングだった。




 船で出たゴミはすべてここで処理するんだよ、とシメオンは説明した。

 いらなくなったものを宇宙空間にそのままぽいっと放り出すわけにはいかない。変質や汚染リスクの問題もあるが、そもそもこの宇宙艦は完全に閉じており、チリ紙一枚を外に捨てただけでどこかにズレが生じるくらい資源には余剰がない。

 生ゴミは水分をからからになるまで乾燥させ、吸い出された水分は飲み水以外の生活用水に使われる。躯械なんてそれこそ捨てるところもなく、分解されたあとは他の人の躯械用にスペアの部品になったり、破損して使えなくなっていても単なる金属、単なる樹脂として船や各種機器の整備に使われる。

 無味乾燥な施設説明だったけれど、聞けば聞くほどヴェズダの手から力が抜けた。

 躯械の足が落ち、ガンッと耳が痛くなるような音を立てて床にぶつかった。火花すら散ったかもしれないが、今そんなことを気にかけるだけの余裕がなかった。

「でき、ません……」

 絞りだしたヴェズダの声はみっともないほど震えていた。

「何故?」

「何故って……できませんよ」

 聞き返してくるシメオンのほうをまっすぐに見つめることはできなかった、それどころか視線をそちらの方向にやることさえ難しい。ただ金属製の床の上に焦点も合わせずにふらふらさせるので精一杯だった。

「すごく潔癖症とか? 強迫性障害は船に乗れないはずだけど」

「そういうことじゃなくて……無理なんです、とにかく……」

 死んだ人間をばらばらにして、素材ごとにわけて、ごみ箱もといリサイクルボックスに入れる。

 シメオンがしようとしていることはそういうことだった。ヴェズダは頭をふるふると振った。受け入れられなかった。拒否して、そのせいで自分が殺されるかもしれないなんて考える余裕もなかった。

 生理的に受け入れられない。思考の前に拒絶が来るから、否定以外何もできない。

「無理じゃないよ。搭乗員になる前に講習だって受けただろう?」

「私が習ったのは機材のメンテナンス方法です。こんなことじゃない」

 シメオンは宙ぶらりんになっていた死体の半身を床におろしてから少し困ったように前髪を掻いた。だが、仕草も表情も演技っぽく、本心はいまいち飲み取れなかった。

「じゃあ、何の役にも立たない、文字通りのただのお荷物をどうするつもり」

「に、荷物って」

「一人死んだ分リソースに少しは余裕が出るだろうけど、一人分の人員がいなくなった損失を補填できるほどじゃない」

「……なんで、なぜ自分が、責められるようなことを言われているんです」

 ヴェズダは目を覚まして、殺人現場に遭遇して、殺人犯に脅されて死体の運搬をした。

 さらに脅迫されるならまだしも、ショッピングモールで駄々をこねるこどものように叱られる謂れはない。そのはずだった。

「この人は君のためにこんなふうになったのに?」

 シメオンはそうは思っていないみたいだった。

 一遍のゆらぎもないまっすぐな視線をヴェズダに注ぐ。何かあふれそうだと錯覚しかけるくらいのそれを受けて、ヴェズダは反論の言葉を取り上げられたことを知った。

「この人に死体になってもらったのは君のためだよ、ヴェズダ・ラビノヴィッツ。正しく言うなら、俺が君と仲良くなるために、この人にこんな風になってもらったわけ」

「は?」

「俺は、君と二人きりが良かったんだよ」

 セントリーグループはたいてい三人だということをヴェズダは思い出した。

 知識人階級から選出され緊急時には艦の全権を握ることもできる第一級、第一級の抑止でもあり通常時の艦の管理を引き受ける第二級、そして彼らの補佐や雑務を請け負う第三級から、一人ずつが選出されてチームになる。搭乗員の等級配分はピラミッドではなくほとんど完全な円筒形だ。シメオンは第一級で、ヴェズダは第三。

 おそらく殺されたこの人物は第二級で、同じセントリーグループとして三年間の当番をこなすことになっていた人物だったのだろう。

 シメオンに言われてヴェズダはもうひとつ気づいてしまった。

 そうだ、二人きりだ。

 しかも、ただの二人きりではない。相手は第一級搭乗員として第三級搭乗員のヴェズダに対する命令権を持ち、未械体であるヴェズダでは到底力でかなわない総械体で、極めつけに人をひとり殺してけろりとしているような破綻した人間性をしている。

 そんな相手と三年、宇宙を突き進む鋼鉄製の密室の中に閉じ込められているのだ。

 飢えた熊の檻に入れられるのと、どっちがひどいか、ヴェズダは思わず考えた。

 答えは出なかった。どっちにしろあんまりにも現実感がなさすぎる。




「電源の落ちた躯械の分解はちょっと面倒なんだよね。通電させないといけないから」

 まるでエンストを起こしたマニュアル車の点検でもしているかのような調子でシメオンが言う。

 ヴェズダは口を閉ざしたままに命じられた通りにオイルまみれの搭乗員服を切断して剥ぎ取って、クロスと洗浄液で躯械の表面を清拭している最中だった。

 躯械は冷たかった。

 人間の見た目をしたものが、石のように固く冷え切っていると、言葉にできない生理的な嫌悪感と忌避感がこみあげてきた。だがヴェズダは必死でそれを無視した。

 今は、躯械体の胸に空いた傷が救いですらあった。

 どんな膂力でナイフを突っ込まれえぐられたのか、傷口はぽかりと広がりグロテスクというよりメカニカルな中身を晒していた。人型自律式ロボットヒユーマノイドだと思えば幾分嘔吐感をわずかに紛らわすことができた。

「そっちは平気?」

「大丈夫、です」

「手が必要なら声かけてね。遠慮しないでいいから」

 ヴェズダの横でシメオンは意外にも真面目に解体の準備を進めていた。

 こう言ってよければ親切ですらあった。

 遺体の服を脱がせる時もヴェズダひとりでは重すぎて持ち上げることができないため胴体や足の付け根を支えて作業の補助をしてくれたし、体を拭く時も同様だった。

 躯械のメンテナンスについては座学の知識はあれど初心者のヴェズダのためにちょうどいいクロスと洗浄液を見繕い、最初のひと拭きとしてお手本も見せた。ヴェズダが困って質問するより先に気を利かせてくれる場面も多く、こんな場面でなければ感心しただろう。ただヴェズダはまめまめしく動くシメオンが近くに来るたび体がびくつきそうになった。

 ヴェズダは混乱していた。

 自分と仲良くしたくて殺した、というシメオンの発言を額面通りに受け取るほど、ヴェズダの脳みそはお花畑ではない。

 ただ、ヴェズダと二人きりになりたかった、というのは本音じゃなかったとしても本質に近いだろうとは思っていた。

 それは個人的な好意がどうこう、なんてものではなく──そもそもシメオンからは言葉選びの割に、友好的な関係を築こうという態度だと感じられなかった──、ヴェズダがシメオンにとって絶対的な弱者だからだ。

 肉体においても権限においても、ヴェズダがシメオンに勝てる要素はないのだ。第三級搭乗員であるヴェズダには氷漬けにされた他の船員をたたき起こす権限がないから誰かに助けてもらうこともできない。当たり前だが宇宙に法律は存在しないし、刑務所も裁判所も交番もない。秩序は人間の頭の中にしかないので、ここじゃボールペンより役に立たない。

 こんな状態で、ふつう、命令も断ることができるだろうか。答えはひとつ、無理だ。

 ヴェズダは実質、常に自分の命や立場を人質に取られ続けているようなもので奴隷よろしく人権を無視された扱いをされたところで打つ手はないのだ。

 そう考えれば、シメオンにはヴェズダに優しくする理由がない。メリットがない。ふつうの人間なら倫理や道徳、それこそ良心を引き合いに出せばいいが、さらっと人を殺しているシメオンに限ってそんなのあり得なかった。

 ここまで言っておいてなんだがヴェズダは不条理を押し付けられたいわけではない。

 シメオンの行動には理屈が通らず、一貫性がなく、故に理解ができなくて不気味で仕方がないという話だ。

 悶々と考え込むヴェズダを後目に、外付けバッテリーの準備が終わったらしいシメオンは、「ちょっとそっち支えてくれる?」とヴェズダの手を借りて死体を横臥に起こし、躯械体の腰あたりを撫ではじめた。

 腰骨から尾てい骨へとなでおろす仕草は見ようによっては淫靡に思えそうなものだがそう感じられないのは状況が状況だからか、はたまた躯械の股座に性器が存在しないからか。

 淀みなく動いていたシメオンの手は目的のものを見つけたようで、爪で引っ掛けたあと押し込むとそこが一度青白く点滅した。

「じゃあバッテリー繋ぐから、頭支えててくれる?」

「はい」

「あ、生体部分……未械なら全部か、じゃ、手だけでいいからラバーして。万が一だけど、感電するかもしれないし、ラバー以外で触らないようにね」

「……わかりました」

「びっくりするかもしれないから、心の準備しておいて。うっかりぶつかって電気で丸焦げにされないように」

 シメオンという人間は、ストックホルム症候群を量産するのに向いていそうだ。

 そうヴェズダは思った。

 かけられる言葉は配慮に満ちている。柔和な笑みとともに投げかけられる声音は柔らかくともすれば優しさすら感じてしまいそうだった。ブリッジでのことが全部うそだったような気がしてくる。

 当然錯覚だ。さっきの光景もかけられた言葉も冷たい響きも全部全部逃れられないほどに現実だ。

 ヴェズダは二の腕まであるガードラバーを着用し、遺体の肩と、頭を手で支えた。

 名前も知らないこの犠牲者は、首から上は躯械化されていない。

 持ち上げるとき触れてしまった頬は生身で、思ったよりも肉らしくなかった。死後硬直が進んでしまっているのか、生きた人間というよりも冷えて固くなり始めた蝋みたいな鈍い反発を感じた。

 清潔な布で拭き上げたおかげで、表情がきちんと見える。見えてしまう。目は閉じられていて唇は少し開いているが強張っているのか弛緩しているのか医療知識に乏しいヴェズダには分からなかった。

 堪え難い吐き気がヴェズダの喉奥を刺激した。冷たい死臭が鼻腔から脳に忍び込んで交感神経を弄んでいる。目の奥がちかちかしてきた。

 冷や汗をどっとあふれさせているヴェズダにかまわず、シメオンは作業を進めていく。バッテリーからケーブルを長く伸ばし、先端の接触式送電パネルを遺体の腰にピタリとくっつけた。

「いくよ」

 シメオンは予告してくれたが、ヴェズダの耳にはろくに入っていなかった。

 ばつん、という音は、巨大なゴムが前触れなしに断裂したようだった。

 音程の高低もわからないほどの一瞬でそれは鼓膜をつんざき、音が神経信号を伝わるよりも速く、刹那のあいだだけ閃光が二人の間を照らした。

 ヴェズダの手の中で釣り上げたばかりの巨大な魚のように何かが暴れた。ヴェズダの手が触れているのは遺体なので、暴れているのは人間の死体ということになる。ヴェズダは咄嗟に視線を落としてしまって、逸らすことができなかった。

 死体と目があった。

 アジア系だからか、あるいは瞳孔が開ききっているからか、ひとみは奈落のように真っ黒だった。びきびきと顔面の筋肉が不随に痙攣し、引き連れ、苦悶とも喜悦とも言えない表情に歪む。

 そしてぽろり、と転がった。涙でもよだれでもなく、首が落ちたのだ。首の付け根で胴体と切り離され、頭蓋は重力に従って落ちようとした。側頭から後頭部にかけて押さえていたヴェズダの左手に、ずしりと、頭蓋骨と脳みその全重量が落ちてくる。

「……、ッ」

 ヴェズダの喉から悲鳴は出なかった。息を飲んだせいで呻きも一緒に喉の奥に吸い込まれてしまった。

 落っこちたのは首だけではなかった。もうヴェズダが片方の手で支えていた死体の肩が、ぐらりと揺れた。横臥が崩れて床にうつ伏せで──うつむく顔はもうないのだが──倒れこむ。と、衝撃とともに躯体が関節ごとにばらばらになった。あたかも、テーブルクロス引きに失敗した積み木のお城のようだった。

 かつて体だったものが床に散らばっている。

 冷静に考えるなら、躯械はメンテナンスのために着けたりはずしたりできなくてはならないわけで。どういう仕組みだかヴェズダにはわからないが通電とともに部品が分離パージしたのだろう。

 一遍に衝撃的なことが起こったせいでややオーバーフローを起こしかけているヴェズダは、シメオンのほうに視線をやった。何かを考えてのことではなかった。

 シメオンはヴェズダと目が合うとにっこり微笑んだ。これまでだってずっと笑っていたけれど、今はなぜかはにかんで思春期の少年めいた少し血の通った笑みのように見えた、気がする。

「今のさ……初めての共同作業って感じだったね」




 残念ながらヴェズダはもう一回たたき起こされて、きちんと最後までごみ捨てを遂行させられた。

 とはいっても、もう山場はとっくに超えて消化試合になっていた。

 生体部分である首から上はシメオンが処理してくれた。ヴェズダはパーツごとにばらばらになった四肢の断面にオイルをさして保護用のカバーをかけ、何回かに分けて保管庫ストレージに持って行って、それで終わりだった。全部で二時間もかからなかった。

 今日はこれで休んでいいと言われ、ヴェズダはその言葉に従って自室に戻った。冷凍睡眠から起きたばかりなのに、もう三日も眠っていないような気がした。

 メンテナンス当番の搭乗員はそれぞれ個室を与えられていて、これは第一級から第三級で家具や設備のグレードが変わるものではない。ただ、位置がかなり離れている。等級による格差というより、出口のない密室で血のつながらない他人同士が閉じ込められ共同で生活しなくてはならないストレスを考慮してのことだ。今のヴェズダにはありがたかった。あの理解不能なシメオンから物理的に距離を取れるのは望外の喜びだった。

 船に乗り込んだときに持ち込んだ自分の手荷物を一度格納庫へ取りに行かなくてはいけないが、今はそんな気力も体力もない。

 ヴェズダはまっすぐ自室へ向かい、カードキーで開いた扉をくぐるなりシングルベッドに飛び込んだ。人工重力はきちんと働いていて、ちゃんと向こう脛をポールにぶつけて悶絶することになった。

「い、いたい……」

 痛みのおかげで、少し頭がさえてきた。

 ヴェズダは天井をぼんやりと眺める。扉上の非常灯しか光源がないこの部屋ではほとんど何も見えなかった。その代わり暗闇は記憶専用のスクリーンにちょうどよかった。

 シメオン。

 シメオン・フィッシャー。

 年齢は不明。出身も不明。

 第一級というからには低級労働員であったヴェズダと違って高い学歴があり、端的に言えば頭がいいはずだ。

 そもそも第一級搭乗員はセントリーに任じられている間代理艦長としてこの船の乗員について命を預かる立場に置かれるから、所詮小間使いでしかない第三級のヴェズダなんかよりよっぽど厳格な審査を通っているはずである。

 それが殺人? ジョークにしても意味不明だ。スラップスティックにも限度がある。

 俗にサイコパスと呼ばれる、良心や道徳心の欠如した種類の人間は地位や能力が高い傾向にあるらしい。シメオンもそのたぐいであることは、おそらく疑いようもなさそうだった。ヴェズダは自分の命運が今や風前の灯であることをひしひしと感じた。

 いや。

 問題はそこではない。

 自分ひとりの命が潰えるよりももっと重大な問題があった。

 この船は開拓船だ。この船に乗った数千人の命運、そして限りある資源を擲って送り出した地球の人々の運命が、今やシメオンの手の中にある。

 意味不明な理屈で、自分ひとりの都合で、ほとんど面識もない人間をさっさと殺せてしまうような人間の掌中に。

 ぞっとした。あの男と三年間二人きりだと気づいた時よりも、背筋すべての毛穴に氷を詰め込まれたようになった。冷凍睡眠中だってもう少し温かったと思えるような寒気だった。

 あの男を放置したらどうなる?

 ヴェズダが考えると、答えるように頭痛がひどくなった。目が覚めてからこっち、強弱はどうあれずっと頭のどこかが痛んでいるが、自己主張するかのように鮮烈な痛みだった。それと同時に、心のどこかから決意のようなものが滲みあがってくる。

 ──殺すべきだ。

 シメオン・フィッシャーは、生きていてはいけない存在だ。この船に、セントリーとして、第一級搭乗員として、存在していてはいけない人物だ。絶対に、あの男を野放しにしてはいけない。

 最悪なことに彼を止められる人間がいるとしたらそれは、ヴェズダだけだ。第三級で、未械体で、学歴も碌にないヴェズダひとり。

 無意識に呼吸が浅くなった。

 ヴェズダは意識的に他人を害するような行動を取ったことはない。人を傷つけるためにナイフを握ったり、アイアンを振るったり、引き金を引いたりしたことはない。平和とは言えない時代で幸運にも平穏な人生を送ってきた。

 殺意や憎悪を抱いたことも、ゆえに誰かを想像の中で傷つけたこともなかった。完全に怖じ気づいていたし、どんな理由であれひとを害して、ましてや殺すなんてダメだとヴェズダの中にいる善性が主張している。だが、頭痛に流される。

 ──殺さなくては。

 どうせいつか、無茶苦茶な理由でヴェズダは殺されるに違いない。きっと野生動物よりも悪辣な理不尽だ。シメオンがその気になったら、ヴェズダは文字通りあっという間もなく処理されて、生ごみ処理機に突っ込まれるだろう。なら、この命と引き換えにしてシメオンを排除したほうがいい。

 とても簡単な、算数の問題だ。

 一人か二人が死んで、数千人と十億人が安寧を得る。

 考えるまでもない。

 だが、ヴェズダの中ではぐるぐると葛藤が渦を巻く。これまで築き上げてきた道徳や良心、倫理……ではなかった。その皮をかぶった、ただの恐怖心だ。誰かを殺すというのは

 言葉で考えるだけで胃の奥のほうに冷えた鉄を押し付けられるような固くて冷たい違和感を覚える。それはだんだんと、全身の血を固くしていくかのようだった。ヴェズダはベッドの上で、頭を守るように丸くなった。

 結局行きつく答えは、ずっとひとつだけだ。

 あの男を殺さないと、多くの人間が犠牲になる。そういう確信めいた直感があった。そしてこの直感は絶対に外れないのだと、ヴェズダは経験則で知っていた。

 ヴェズダは算数が得意だ。六桁の掛け算だって暗算できる。だから、こんな簡単な算数の答えを間違うわけがなかった。


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