わたしも「いや痙攣(吃逆)と振戦(震え声)は違うんだって! あとこれは云々」とやらかしそうになりました。
欄外で。
原稿用紙を見るとこの欄外がけっこう広く取られており、大詰めの段階では編集者とここで熾烈なバトルを繰り広げる場合もあるとか。
しかし欄外では読書に一文字も伝わりません。
20x20の中で表現するしかないのです、われわれ物書きはアマでもプロでも。それは説明や弁明、講釈であってはならない。描写、表現、感動でなければならない。
「ああなるほど振戦は痙攣とは違うのね」
「あなたの中ではこの表現はこういうときに威力を発揮するのね」
「こう赤入れしたけどでもこういう意味合いだったのね」
これらの声は、すべて読者に伝わらなかった言葉たちです。
では読者とはだれか。第一の読者はわたしたち書き手です。では第二の読者は? これは大雑把にいうしかありません。他人です。
偶然にもその他人が赤入れをする立場でした。第二の読者となり、どんな反応だろうかとワクワクしていたらまあ、色々とツッコミを頂戴し、いい教材となりました。他人さまの頭の中はのぞけませんし、なぜ気づかなかったのだろう、という凡ミスも拾ってくれるかも知れません。それに、引っかかる箇所は遅かれ早かれそのポイントで読者は離れてゆくものです。
やや戻ります。編集者とバトル云々と書きましたが、本来的には原稿の随所で光るヒントの原石にしるしをつける作業ですよね、赤入れって。この表現はもしかすると伝わりにくいよ、とか、ここはこうするともっと素敵だよ、とか。
これら作業にアマ/プロの弁別が必要ないことも十分ご理解いただけるはずです。赤の他人が自分の原稿を読んでみて、どんな感想を漏らすか。そのひとなりの解釈で、どのような感動が惹起できたか。分かりにくい表現、伝わらなかった真意、伏線、裏設定はすべて問題なかったか。などなど。
アマ/プロに拘泥する理由は全くないのです。
要するに赤の他人、つまりは何気なくあなたの本を手に取った市井のだれかを読者と設定し、普段得られない感想や意見を貰う機会です。大いに利用させていただきましょう。
まとめます。
・欄外で赤と戦っても読者には一文字も伝わらない
・赤入れさんとケンカしても仕方がない
・赤入れさんはあなたの原稿の、より良くなるところのみを指摘する
最終的に私見ですが、
・赤入れさんが直すのは問題点、改善点である。作品としての奥深い良さや、語彙や文章力、書き手の人間性にまでは波及しないということ。良きにせよ悪しきにせよ。
といえます。
これら作業を務めてくださった秋坂さんに感謝を。
※このレビューへのご意見等は煙亜月へお願いします。
はじめて赤入れされる人は、「いえそこは、だから、こういう意図があって」と説明したくなるでしょう。
ですが、担当する人は他人の眼で、さくさくとあちこちに赤入れをしてきます。
「次こそは赤入れを減らしてやる」
そう想っても無駄です。
赤いダーツをもって荒野をうろうろしている人が、たまたま的になる牛を見つけたので投げてます。
そのくらい、ばしばし入ってきます。
真っ赤になって返ってくる原稿をみても落ち込む必要はありません。
それが『ふつう』です。
あなたの書いた力作は、校閲さんの眼にとっては、いい的みつけたぜ……と舌なめずりするような、「荒野の牛」でしかないのです。
死ぬやん。
大丈夫です。
刺さったダーツを見つめながら、残したいところは残してもいいのです。
「確かにそうだな」
そう想えば、直せばいいのです。
秋坂さんはとても優しい赤入れさんなので、上手な方ほど「物足りない」と感じるのではないでしょうか。
それ以外の方は、まずは、秋坂さんから飛んでくるダーツを遊園地のアトラクションのように楽しんで下さい。
わー本当に刺さってくる~キャッキャッ。
そして赤入れの終わった原稿をじっくり読んでみて下さい。
さあそれで、再度、全ての文章を磨き上げ、「これでもう赤入れはなくなっただろう」と満足したとしても、他の赤入れさんに見せると、また赤が入ります。
赤くしないと死ぬ病気なんだ……!
そのくらいに、牛である我々は想っておいた方がいいです。赤入れは、そういうお仕事なのです。
見るべきところを見て、やさしい口調で提案してくれる赤入れさんは、赤くなった原稿に落ち込むよりは、「また頑張ろう」「またこの人に赤入れしてもらいたいな」という気持ちをおこさせます。
修正されるなんて、なんだか怖いなぁ。
そんな方ほど、秋坂さんは、いちばんお勧めできる赤入れさんです。