人を殺す覚悟

受付を終えて待合所の柔らかなソファーに腰を据える。俺はゆっくり、赫糸はドスンと。

こいつ一挙手一投足、一々力が強い。


赫糸は脚を交差させ、組んだ腕から顔が出ている手で自分の腕。トントントントントントン叩いている。


どんなけせっかちなんだよ。


でも子供みたいな心だとしたら少し納得はできた。子供ならば待てなんてそうそうできない。赫糸は多分子供で、だからワガママっぷりが酷いんだ。


んー……15、16歳の奴を見る目ではないが、仕方ない。


数分後、背の高い爽やかな男性が現れた。


「本日担当します、黒絵です」


とても接しやすい声色。見た目も清潔感が強く、男の俺から見てもかっこいいと思えるくらい魅力的な男性。


しかし、そんな男性を目の前にしても赫糸の強情っぷりは変わらなかった。


「遅い」


ただ一言、ギュルンと強く睨みが据えられた目をお兄さんに向けて言う。だが、そんな目に動じる事なくーーいや、寧ろ。


「無理言わないでくださいよ、準備があるんです」

「知らないわよ」

「それこそ知りません」


しっかり言葉を返していた。


「施設員ならしっかりしなさいよ」

「ラーメン屋がラーメンを作り置きしてますか? そう言う事です。…利用させてもらう側、利用してもらう側、双方を尊重出来るようになりましょうね」

「お説教はいいって」

「わかりました特別ですよ? …では案内します、ついてきて下さい」


赫糸はムスッとするが言われるがままお兄さんの背を辿った。


(お兄さんの対応なんかよかったなぁ…)


譲らない部分があった。発言にもあった通り、使う側・使ってもらう側、双方の尊重という意識があるのだろう。


つまりは対等な関係性。


強気に対応するならこっちも強気に対応する、それで文句を言ってくるなら同じく返す。


俺も似たような事をこの1週間してきたが、出来上がりはこんな質の高いものではなかった。

この人の対応は明らかに格が上。

自分はそう言うとこ含め全然何かが足りていないんだなぁと痛感させられる。


トコトコ歩くかなり大きな通路。


標識には個人仮想戦闘棟とかいてあった。

この通路の両脇には等間隔にドアが設置されており、番号の書かれた札がついている。


結構歩みを進めたところでそんなドアをお兄さんが二つ開け、手で促した。


「更衣室です。中のロッカーに黒色の総身タイツがあります。各サイズ好きなものを着用してください。ピチピチでもブカブカでもどっちでも構いません。施設用服も置いてるので、タイツの上に着込んでください」


案内された先の更衣室は少し見た目に反して広かった。白色のホログラマーのようなスベスベした質感のロッカーを開け、言われたままにタイツを着込む。

タイツをよく見ると、所々に線が入っていた。


施設用服は病院服みたいな感じだった。


ズボンの紐をキュッと閉め外に出る。

赫糸はもう着替え終えており、腕を組んで立っていた。


「遅い」

「うるーーっぐ。俺何も言ってない…」

「今から言おうとしてたんでしょ、なら良いじゃない」

「お前なぁ…」

「あんたの口答えにも慣れてきたわ」

「慣れたなら手を出すなよ、おかしいってその考え方」


そんな俺たちのやり取りを目の前にして。


「いやぁ…仲良いんだね2人とも、お似合いだよ」

「「っな…!?」」


お兄さんは面白いものを見ているように言った。

そんな発言に思わず顔が強張る。


(んなの合ってたまるか。暴力が灰田さんみたいなポカポカならまだしも、こいつはドゴン。可愛げなんて微塵もない。性格も悪いし子供っぽい、付き合いたいなんて思えないし付き合ってない。なにがお似合いだヴァーカヴァアーカ)


一方赫糸は動揺気味の声を出してはいたが、その後はスンっとした表情で立っていた。


「早く案内しなさい」

「…うん、そうだね。こればっかりは僕が悪かったよごめんね直ぐ案内する。けどその前にこれ」


そう言ってお兄さんは各自の手に、大きめの四角いものを渡していく。


「ここのルームキーです。部屋を出る時に室札の下にあるガラスの入れ物からこれを取り出して、仮想戦闘監督者に渡して下さい。渡さないと施設は利用できません。次に君たちが施設利用にくる時は僕みたいな案内つかないから忘れないようにね」

「わかりました」


そう相槌を打つとニコッと微笑みながら黒絵お兄さんは頷いた。


それからまた少し歩き、突き当たりを左へ。

この先も更衣室ゾーンと同じようにドアと室札がついていたが、加えて、色のつきの棒線が引かれた札もついていた。

今のところ見ている札の色は同じだが、書かれているものが同じだったり違っていたり。


【日本能力者学園】

【東京都新宿区】

【フラット】

【街】

【和城】

【中央塔】

【島】


などなど、様々だ。


そうした札を見ていると赫糸とぶつかった。

流石によそ見が悪いと謝ると暴力はふってこなかった。


今回入るのは【日本能力者学園】の部屋だそうだ。


中は機械が物々しく散らばっている、と言うことはなく寧ろ目に見えるのは小さなスペース。そこに僅かに歪曲している縦筒型の白いカプセル装置が3つ並んでいるだけ。


「じゃ、さっきの更衣室の札預からせて下さい。僕が監督者です」

「……なら別に渡さなくてよかったじゃない」

「練習です練習。次回勘違いしないようにね」

「そ」

「はい」


あぁ俺黒絵お兄さんになりたい。

憧れるよこんな爽やかに強気な対応ができるの。


俺もルームキーを渡すとお兄さんはオッケーを指で作って「じゃあカプセルに入って下さい」と言った。


赫糸は何度か経験あるのか迷いなくカプセルの前に立ち、各種あるボタンの中から開閉ボタンを押し当てる。そしてさっさと中に入って腰を据えると、カプセルのドアが自動的に閉まっていった。


俺はと言えばよくわからず棒立ちだ。


「あ、利用は初めてでしたか」

「そうなんですよ。だからちょっとわからなくて」

「…なるほど。閉所恐怖症とか持ってたりします?」

「閉所恐怖症……?」

「こう言う狭いとこに閉じ込められるのがすっごく嫌な人の事ですね」

「あぁそれなら全然! 土の中に居ても大丈夫だったので」

「つ、土……?」


すっごい怪訝な顔を向けられる。


まぁでも普通そんな事をする機会なんてないかと思えばその目にも納得した。


土に潜っていた理由は単純に熊をやり過ごしたり、上を通過する獲物を捕らえたりするため。

要は森でやっていた事。


普通そんな事を体験し得ない。


「ま、まぁ色々あるもんね世の中。取り敢えずここ、1番上のボタンを押してください。ちなみに帰る時はその下のボタンを押してね。それで、困ったことがあったらその更に下のボタンを押してください駆けつけます」


少し捲し立てられる言い方という事もあって頭に話が残らなかったが、忘れたらまた聞こう。


プシューと開いたドア。


真っ白い1人用ソファーに腰を据えて息を吐く。

すると、赫糸の時同様勝手にドアが閉まっていく。


それを見て一瞬不安になったのだけれど、最悪…ほんとに最悪壊せば良いと考えればそんなちょっとした不安もなくなった。


暫くしてお兄さんの声が鮮明に聞こえてくる。


「じゃあ目を瞑って深呼吸して下さい」


俺はその指示に従う。

ゆっくり息を吸い、そして息を吐く。

少しずつリラックスしていく身体。


途端。


意識はぐわんと何かに吸い込まれるように揺れ動いた。何事かと思い目を開こうとするが開かない。

抵抗できないまま俺はその意識の波に流されていった。


そうして気づくと、目は自然と開いていった。


「ぇ……」


目を開けた先。

そこに広がっていたのは、火の手が上がっているこの学園。それも集合場所にしていた中央広場の光景。

朝に見た景色では人が沢山いたのだが、火の手があってか人っ子一人感じられなかった。


寧ろ、建物は倒壊してるし、瓦礫が散乱している。何とか立っている建物もかなりひび割れ、ガラス窓は弾け飛んでいた。道の大半が破壊されているせいで石畳が捲れて土が顔を出している。


火の粉が目の前で薄く散っていく。


黒煙は高く、火の勢いはかなり強い。そして熱い。

物が焼ける嫌な匂いと、咳き込みそうになる感覚に顔を顰める。


でもそう、ふと思い出す。

ここは仮想世界だ。


俺はポンポンと腰を叩いてみる。

感覚は生身とあまり変わらない。

隙間の多い石畳に足をコツコツぶつければそんな反動もちゃんと帰ってくる。音や臭いも鮮明だ。


着ている服は病院服みたいなものから薄めのインナーとトップスへ。厚手だけれど柔軟性の高いアウターは1番上のボタンまでしっかり止められている。

ズボンは体の線に沿う形で、何か多機能的な一面が伺えるが物がついていたり物が入っているわけでも無い。


ベルトはズボンとくびれ周りをきゅっと閉じて巻かれていた。


あまり余裕のなさそうな可動域だが、生地がよく伸びているおかげか腕をぐるぐる回しても動きに淀みが出ることはなかった。


空もちゃんと太陽があり、空特有の自然な青い色をしている。黒煙や火がかかって少し暗く、赤くも見えてくるが。


「仮想世界ってこんな感じになるんだな…すっごい現実と一緒」

「あんた世界大会とか日本大会みないの」

「え、あぁうん。見たことない」

「無知も程々にしないと痛い目見るわよ」


屈伸に前屈。

柔軟体操をしっかり取る赫糸を真似して俺も屈伸を始める。


『……あー、聞こえますか。聞こえるなら手を挙げてください。うるさかったら音量下げます』


どこからともなく聞こえてきた音。

黒絵お兄さんの声だ。


うるさくもないので何も言わず腕だけあげる。

赫糸は長座体前屈をしながら手を上げていた。


『はい、二人ともありがとうございます。えー華園くんがこう言うの初めてと言うことなので簡単に説明を』


仮想戦闘では設定をつけられます。


肌の露出。

部位欠損の可否。

痛覚の度合い。

能力の制限。

武器につけるコストスロットの制限。


等々。


特にベースとして使われる設定は痛覚の度合い。


1〜150%で設定できまして、要するに殴られた時の痛みを調節できます。

低いほど痛みに鈍くなります。

鈍くなるだけなので、怪我をして部位の機能が低下していても気づきにくいと言う難点があります。


『そして今回は佐々木主任の設定した条件での戦闘となります』


<<どちらか一方の戦闘不能時のみ帰還を許可する>>


『要するにどっちか死ぬまで殺し合って、と言う事です。落ちた武器や防具は設置していません。その代わりその他のオブジェクトには干渉できます。そこにあるものすべての使用ができます』


そこで簡単な説明を終えたらしく、質問があれば受け付けると言ったので俺は問う。


「あ、あの俺…人を殺したことなんてなくて……」


と。


すると黒絵お兄さんは言った。


『まぁみんな仮想世界でとはいえいずれ経験します。なので今日は運が良かったと思いましょう。一足早く人を殺す事を経験できますよ』

「え、なに励ましなんですかそれ」

『はい』

「やだなぁなんか」


爽やかな声でとてもバイオレンス。

何とも言えない気持ちに苛まれていると、柔軟体操を終えた赫糸が反復横跳びや体を回転させながら言ってきた。


「まぁ私も流石にそこまでした事ないからイーブンね、条件的には」


そんな言葉。


「いや流石に殺しの経験なくてよかったけど、そう言われるのはなんか違う」

「もうめんどくさいわねあんた」

「殺しを躊躇う道徳心と倫理感があって何が悪い! このバイオレンスゴリラ!」

「ばっ……。……いいわ、覚悟ができた」

「うわぁ悪手だったなぁ」


本当に目がやる気になった。


(まぁ、とは言え、生き物を殺してきた俺が殺しに対してあーだこーだ言うのも変な話か)


人ではないにしても生き物は生き物。

命を奪い、それで命を紡いできた過去は変わらない。

殺し慣れていると言う現実も変わらない。


殺す感触はまだまだ全然覚えている。


生ぬるい肌温も、血生臭さも、腐敗臭も知っている。

でも人間を殺す感触を俺は知らない。

肌の温度の変わり方も、血生臭さも、腐敗臭も全然知らない。


それに、勝つつもりのない戦い。

だが、殺されるのは嫌で。

でも殺さなくちゃならないのも嫌で。


自問自答は平行線。


そんな中、黒絵お兄さんは言う。


『仮想戦闘というのはーー』


それは所謂データ上での戦い。


人体をデータ化して複製し、また機械が能力を読み取り、そこも完璧に複製する。

そしてその複製体をデータで作り上げたフィールド上に設置する事で場面が完成する。


複製体は、要はゲームのキャラクター。

それをあくまで操作している・・・・・・のが俺たち。


ゲームキャラクターが感じる事、見ていることを体感できると言うのがこの仮想戦闘であるのだと。


『感度は20%です。20%は…包丁で切った指の痛みが紙で指を切ったくらいに抑えられると考えてもらえれば。とはいえ、殴られたり焼かれたり斬られたり、勿論それなりの痛みも衝撃も感じます。双方舐めてかからないように。説明は以上となります』


痛み。


そうだ、殺される前に俺は痛みを強く感じる事になるんだ。痛いのは嫌いだ。


それは俺が強くなろうとした一つの要素でもあった。


森での鍛錬は…そう。


娯楽的な意味合い、じっちゃんの意向。

それらも勿論動機の一つだったが、更に奥には苦しみを回避する為の力が欲しいという願望があった。


森の中で俺は生きる為に動物を殺していた。


だが動物だってそう易々と命を明け渡してなんてくれやしない。抵抗もするし、逃げもするし、逆に殺しにかかってくることもある。


それは当然であり、向けられる生への執着。

死んでたまるかと言う動物たちの思い。

寧ろお前が食糧になれと言う目線。


怪我は無抵抗の動物を殺すよりも増える。


その相手が強ければ強いほど。


その時に負う傷が原因で膿んだり、熱を出したり、暫く動けなくなったこともあった。


苦しいのは嫌だ。

痛いのは嫌だ。


弱いままじゃいつか死ぬ。


それに俺は食う為に殺している。

そして食う為には殺さなくちゃならない。

だから食う為には怪我をしていてはいけない。


環境的にも、俺には強さが必要だった。


そうした気持ちをバネに鍛錬を積み重ねる程に傷は負わなくなり、獲物を逃す事もなくなってくる。

一方的に屠れる力があると言う事は脅威に晒されなくなったという安心感を手招く。


そして心に余裕が生まれてきてーーある時、俺は動物を殺す事を躊躇うようになった。


それは慈悲でもなんでもない。


ただ単純に、今までは生きる為に殺していた。それは仕方のない事で、今も目的としては変わらない。

でも余裕がある頃と比べて昔はガムシャラで、それこそ俺が死ぬ可能性だってあって、だから何も考えずに済んでいた。


けど、心に余裕ができてしまうと余計な事を考えてしまう。


俺は生き物を殺して良いのかと。

怯え、震え、鳴いて逃げる動物をとっ捕まえて完全に殺し切る。


たまに死ぬよりも前に失禁する動物と出くわしもした。


覆い被さり、首をへし折る前に気絶させようと腕を掲げる。腹を向けさせ、そこに膝を入れて体重を乗っければ、四足歩行の動物は大概動けない。


そんな向きだから、自然とそれはかかってきた。

ズボンにかかった尿は、とても熱かった。


熱を、帯びている。


しかし、死んでからはそれも含めてぬるくなって、冷めていって、冷たくなる。


命を奪っていると言う行動を冷静に捉えた時、俺は酷い嫌悪感と罪悪感に苛まれた。


1週間ほど悩んだ。


その間狩りはせず。

取り敢えず修行だけ。


何も食わず、飲み水だけの生活をしていれば体は痩せていく一方で、それに、腹が減って力も出なくなっていく。うまく寝付けなくなり、空腹に吐き気を催すこともあった。


そんな中で俺は見た。


動物が動物を殺す瞬間を。


まぁ別に今まで全く見たことがなかった、と言う事ではない。でも、今、この瞬間に見れたことが大事だった。


冬に差し掛かる秋の出口付近。

獰猛に鹿の腹を食い荒らす熊の表情。


ついさっきまで生きていた鹿は黒い目を開けたまま横たわっている。食われ始めは悲痛な金切り声を上げていたが、すぐに呻きも足の動きも止まっていた。


俺はやっぱり殺しは良くないと、思ってしまった。

けど、熊を見て俺はそれも違うと気付かされもした。


普通もっとふくよかで大きい熊。

しかしこの熊はとても細い。

別に川から上がりたてで毛が濡れているからだとかじゃない。ただシンプルに細い体をしていた。


あの熊にとって、さっき殺した鹿は生きる為に必要なものだった。それは紛う事なき事実である事を目撃する。


それも冬手前、あの雰囲気的に冬眠も出来ないのだろう。苦しいのだろう。


俺の腹も強く唸る。


鹿の死体を見て腹をすかしてしまっていた。

それくらい俺も極限的に腹が空いていた。

俺はため息を吐いた。


自分はやはり生き物を殺して自分の命を紡ぐしかできないのだと。自然の摂理の残酷さに抗えないのだと。

でもそれが正しい生き方なのだと。


じゃあ、それが生きる為に必要なら。

俺が今も強く死にたくないと思うのなら。

苦しみたくないと思えるのなら。



俺は生きていく為に生き物を殺さなくちゃいけない。



俺の動物を殺すという覚悟は、そう言う変遷を経て確立していた。


しかし人間はどうだ。

友好的な同じ種族。

食べられるわけでもない。

殺さなくちゃいけない状況でもない。


殺す意味のない相手を殺せと言われて、俺はそのまま、殺す意味があるのだろうかと問い返してしまう。


俺は人を殺す覚悟を持ち合わせていないんだ。


例えデータ上での殺しでしかないと言われても、人間を殺す事に変わりはない。

殺しの感触はそもそも気持ち良くなんかない。

動物ですらそうなんだから、人間相手なんてもっとだろ。


『では』


だから俺は、やっぱり痛みを我慢してーーー


『始めてください』

「ーーーぅ"っ」


刹那、凛夏の獰猛な声が。


「っぬぁあ!!!!」


一体に響いた。


昇也の眉間を完璧に捉えた凛夏の拳。

顔面の皮膚を波うたせ、眉間に近い鼻の骨を軽く押し潰しながらグンッと真下へ振り抜かれる。


抵抗のない昇也の体はなす術なく後頭部を石畳に打ち付ける。体もビタンッと張り付く様に地面に接した。

ただ、凛夏の殴打の威力が高すぎたのだろう。


体は少し浮き上がっていた。


2度目の地面への衝突。


散らばる石畳の破片と土の塊。


強張る体。

一気に抜けた酸素を得ようと咳き込みながら息を吸う。


強いとは思っていたが少し油断していた。

そう昇也は目に残る凛夏の残像を見ながら後悔していた。


「ぅ………」

「……」


(確かに、痛いな…)


くらったはずの痛みは想像よりも下ぶっていたが痛いのには変わりがなかった。

例えるなら投げられた鉄の塊が石に変わった感じだ。


ジンジンと響く眉間あたりを撫でながらのっそり昇也は起き上がった。


そんな姿を前に、凛夏は追撃せず、見下ろしていた。


「…あんた硬化とか身体強化の能力持ってるの? 頭蓋骨割ったつもりなのに」

「お、お前人殺しした事ないんじゃないのかよ!」


昇也の体に傷は見当たらない。

額の鬱血や後頭部から血が垂れ落ちていない。

少し当たっただけとは言え鼻の骨が折れていてもおかしくない。だが鼻血は出ていない。


凛夏は少し警戒心を携える。


「力加減でどうなるかなんて安易に想像できるわ、経験がなくともね」


脚をふらつかせる事なく立ち上がった昇也は、何もしてこない凛夏を怪しぶみ、警戒しながら呼吸を整える。


「脳震盪とかもないのね」

「脳震盪ってなんだよ」

「……詳しくは知らないわ」

「ああそうかよっ」


お互い、見つめ合う。

距離は遠くない。むしろ近い、拳一つ分しかない。


存在自体を格下であると見下す凛夏。

睨みを効かせながら見上げる昇也。


いつどこから攻撃が飛んできてもおかしくない、そんな状況。


だが一向に攻撃は発せられない。


そんな状況に痺れを切らしたのか凛夏は言った。


「あんた、私が女だから殴れないとかしょうもない事言ったら焼き殺すわよ」


明確な殺意を込めた発言。

昇也は怯む事なく、小さく「あぁ」と声を返した。


「……」


殺す。


「………」


少しずつ現実味を帯びてくる言葉の重み。

そして、敗北者は勝者の言うことを聞くという約束。

少なくとも、負ければロクでもない事になるのは想像できている。


昇也はしかし、それでも殺したくないと考えていた。


彼にとって殺す意味としては弱かった。


したくない殺しをする気分の悪さを知らなくて済むのなら、まだ凛夏の言う事を聞いている方がいいと。


「ちなみにさ」

「なに」

「お前が勝ったら何命令するんだ」

「………」


ただ、指示される事柄がなにかわからないのも怖いもの。昇也は凛夏の目を見て言った。

そんな昇也をみた凛夏は少し黙って、しかしすぐ、ニヤァと不敵な笑みを浮かべてこう言った。


「退学でもしてもらおうかしら」


と。


「能力者が学園を卒業しないと苦労するらしいから」

「お、お前…やべぇな、ほんと。頭イカれてる。それ、同じ事言われるとも思わないのかよ」

「覚悟はあるわ。それに私、強いから」


高慢な態度は、自負する力量があってこその、言わばプライドの表れでもあった。


少なくとも、昇也にはそう感じられていた。

そして確かな力の片鱗。それを真正面から受けているからそこを疑うつもりもない。

身長差もあってか、グワァーと押し付ける様な威圧感を前に昇也は冷や汗をかいていた。


(こいつならその命令をやりかねない)


風格が、今までの言動がその顔が声が、そのやりかねないと言う見解を強く肯定させてくる。


「……じゃあ俺の命令もそれだ」

「そう。別に構わないわ」


同じ命令を提示しても顔色一つ変えない凛夏に昇也は歯を噛み合わせた。


なにも悪い事をしていないのに「退学させられる」と言う非現実ながらも現実を帯びた命令事。

昇也にとって理不尽極まりない条件。


彼の心に一つ、強い拒絶心が生まれ出る。


退学を何故しなくてはならない。

退学を俺はしてはいけない。

退学はお前がするべきだ。


確固たる拒絶の意思。


洗脳的な言葉達が昇也の周りを螺旋状に繰り出し、更にその感情達は分厚く大きく強大に。そうした感情渦巻く昇也が浮かべる形相はまるで昇也ではないかのよう。


その瞳と覇気は凛夏の心臓に強く刺さっていた。

無意識に半歩右足だけ後ろに下げている。微増する体温。心拍数が少し高い。


睨み合う二人。


そしてーー昇也の殺す事に対する心の揺らぎ。


それは、嵐海らんかいの様な風景から一変。

波風立たない様相が一面に広がり、スーッと澄み切った瞬間。


(こいつは殺さなくてはならない)


ドギツイ甘い香りがブワッと広がった。

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幻惑のアレース ー 日本能力者学園編 ー 鍵ネコ @urara123

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