後編

 屈託のない笑みを浮かべる秋生あきみさんが、妙に眩しい。

 そう感じたのは、後ろめたさがあったからかもしれない。


「……では、よろしいですか? お体を装置で固定しますので、しわになって困る上着などはお脱ぎくださいね」


「は、はい……」


 結局、好奇心に負けた私は彼女の案内に従ってまんまと落とし穴の傍に立っていた。

 好奇心、そう好奇心だ。決してそれ以外の欲望があったわけではない。

 とにかく、ジャケットを脱ぐ。今日は賃貸契約という高い買い物をするつもりだったので無駄に気合を入れてしまったのが、裏目だった。


「問診表、お預かりしますね。……えー、伊集院晃いじゅういん・あきらさん。29歳。性別……ご病歴……はい、結構です。記入箇所を誤った部分はございませんか?」


「いえ、大丈夫です。それにしても、問診とは……」


「はい、感覚遮断落とし穴ですから。麻酔に近い形で下半身の感覚を奪わせていただくことから、体調に不安のある利用者様にはお断りをさせていただいているんですよ」


 なるほど、そういう建前で未成年の利用をお断りしてゾーニングを気取っているわけか。……いや、私は何を妄想しているんだ、くだらない。とはいえ、自分から着衣を乱して神妙な面持ちで女性の詰問に応えていくなど、十数分前まで想像だにしなかったことだ。初夜を前にした生娘のような(と、いう比喩も随分時代錯誤なものだと自分で思ってしまう)心持ちになったことで妙な気持が起こっているのか。


「それでは、15分体感コースをお楽しみください。時間は伊集院さんが落とし穴に嵌まってからの計測となります。……さ、そこの、テープがある位置へお立ちに」


「……っ」


「最後にお伝えしますが、こちらの感覚遮断落とし穴を利用された後、体調などに変化が生まれた際も当施設は責任を保証しかねます。人体に無害であるという許認可を厚労省より得ておりますが、この点のみ、改めてご了承ください」


「……も、もういいっ。早くしてくれ」


 そんなことは施設利用の同意書に書いてあったから重々承知だ。というか、文字にされるとおかしいだろマジでこの国! バカアホ! 滅びろ厚労省!


 最後に秋生さんから誘導されていたように、テープの貼られた位置に立つ。機械の操作盤らしきものが設けられた、別室へ移動していた秋生さんが、その操作盤らしきものを動かす。彼女の指へ呼応するように、無機質な装置が私の胴を抱きすくめるように固定した。


「それでは、ゆっくりと穴へ落とします。穴の底は伸縮性のある素材で作られており、様々な体格の方がお楽しみできるようになっております。落とし穴とはいえ、実質的には柔らかい布団で足がくるまれているような格好になるとイメージしてください」


「は、はい」


「それでは、装置を使って徐々に穴の底へ近付けて参ります。お足元のカバーが外れて穴が見えますが、体勢は固定されておりますので気になさらないでくださいね」


 、とシャッターが開閉するような音が聞こえた。

 ああ、これから穴に落ちてしまう。いや、嵌まる。いやいや、嵌められてしまうのだ。そう思っただけで、自分がひどくばかで、下品な人間に近付いた気がした。


「こちら、穴の中に備え付けられたカメラで伊集院さんの下半身を見ております。私が目測しながら操作をしますが、足がちょうどいい長さまで伸ばせた、と感じたらその時点で手を挙げてください。──私、春野秋生はるの・あきみが、伊集院さんの下半身の、感覚を遮断させていただきますので」


 ここまでに受けた説明によると、先ほど頓服したばかりの薬と、ちょっとしたガスの作用が短い時間で心臓より下に位置する器官の感覚を奪うのだという。医療の進歩が大したものだ、と感心する気持ちと、せっかくの技術をこんなことに使いやがって、という義憤が湧いてくる。


 ただ、を望んだのは私の方だ。


「あ……あ、ぁぁ」


 浮遊感を覚えると同時に、機械音と共に視点が少しずつ下がり始めた。

 穴。やわらかいあな。からだの半分が、あなに埋まっていく。秋生さんが見ているのが恥ずかしい。やめてほしい。でもなぜか、高揚する気持ちを認めそうになる。


「あ、うわ、わ」


 ──落ちる。


(……う。ま、まだ余裕がある、かも。身長は高い方だったからか……)


 ──嵌まっていく。


「……あっ。あの、あの」


 ──落ちる。嵌まる。




「あの。今、ちょうどいい感じなので。……感覚、遮断してください」




 ──堕ちる。




 ====================




「──っ、あ!」


 声が出た。どうしてかは分からなかった。

 ただ、出た。堪えきれないものが出た。そんな気がした。


『……5分経過。伊集院さん、いかがでしょうか。下半身の感覚は既に消えましたかー?』


 内見を案内してくれた時とは異なる、どこか気だるげな、作業感のある声が私の頭を悩ませる。

 ごめんなさい、と直感的に感じた。ごめんなさい。仕事熱心な素敵な女性に、こんな変な、ダメな大人の姿を見させてごめんなさい、という気持ちになった。


「ああ、あの、私っ。ほ、本当に下半身がなにもっ。む、胸の下らへんからなにもなくなっちゃったみたいでぇへっ」


『ありがとうございます。ここからは私から訊かれない限り、お話になってもならなくても結構です。──では残り10分、お楽しみください』


「ああっ、は、はひっ」


 やばい。もうろれつが回らない。くすぐったさと、身体が全体で一本の棒になったようなどうにもならない感覚に支配されそうだ。

 なるほど。これが感覚遮断落とし穴。なんか。なんか、なんか、うまくいえない。確かに初めての感覚でよくわからないけど、悪くはない。悪くは。


『……先ほどから3分経過です。計8分ですから、折り返しですよー』


「う、うう、うん。あの、ありがとう、ございます」


 慣れてきたという感触と、この気持ち悪さ……あるいは一種の気持ちよさには慣れることができないという感覚へ同時に襲われる。

 なんだか、不思議だ。不思議というのは、うまく表現できないということで。目は見えて、耳も聞こえて。舌も回るようになってきたし、私を固定している装置の温度と重みはわき腹の辺りにしっかりと感じる。


 でも、でも。何も感じない。身体の半分が、なくなった感覚がある。でも、実際はそんなことなくて、残った上半身は消えたはずの下半身の重みをちゃんと感じている。でもでもでもでも、うん、わかんない。不思議だ。不思議だった。


「あの、は、春野、さんっ。確かにこれ、すごいですね。なんだか……変? 面白い、です」


 私を見ているはずの秋生さんは何も答えなかった。

 億劫だと思っているのか。私のような変な人間とは、仕事でも話したくないのか。嫌だなぁ、という気持ちと、しょうがないよな、というあきらめが胸に去来する。しかし、胸を上下で半分に分けると、下半分はやはり何も感じない。感じないのに、感情が去来したように感じるのは不思議だと思った。不思議、不思議、……


「春のさんっ。これ、あとなん分、ですか? もうすぐ時間切れ、ですか?」


『……あと2分です。何か、ご体調に不安を感じられましたかー?』


「いえっ、だい丈ぶです。時間だけ、知りたくて」


『装置が観測しているバイタル、血圧、どれも正常なのでご安心くださーい……』


 あ、やばい。

 今なぜか、秋生さんの語尾にハートマークがくっついてきたような感じがした。ダメだな。私、なんなら溜まってるのかも。だめじゃん。変態だそれ。


 なんで。なんでこんなことになってるんだっけ。

 変な気持ちを味わって、変な姿を、いいなと思った女性に見られて。自己嫌悪と、背徳感が一緒にやってきてますます変な気持ちになって。


 でも、うん。まああれだ。


 悪くない。悪くはない。


 悪くないっていうのは、文句もないってことだ。うん。この体験、ぜんぜんわかんないことばかりだけど……、


(ん。もんく、ない…………)


 ふわ、と浮き上がるような感覚に襲われた。

 それと同時に、秋生さんの声が『穴に落ちてから15分』と知らせてくれた。




 ====================




 着衣を正し、背筋を伸ばした私へ秋生さんが話しかけてきた。


「いかがでしたか?」


 笑顔も、話し方も初対面の印象のままだ。先ほど、私が穴に嵌まっていた時の、気だるげでなんとなく冷たくて、けれど最後まで見守ってくれた彼女は何だったのだろう。

 気のせい、で済む程度の変化と言えばそれまでだが。


「うん……。確かに、不思議でした……としか」


「あはは、そうでしたか。お楽しみいただけたみたいで、よかったです」


 納得したように頷く秋生さんを、直視できなかった。

 彼女は住宅内見へやってきた私のために少しだけ特別なサービスを提供して、私は彼女のサービスを利用した。それだけのことが、なぜこうも罪悪感を覚えさせるのだろう。


「でも、私ほっとしました」


 と、秋生さん。続いて彼女は、恐ろしいことを言った。


「ほら。この落とし穴、下半身の感覚を奪うじゃないですか。私はまだ見たことはないんですが、体験中に失禁されて、気まずくなられる利用者がいらっしゃったみたいで」


「へ、へえ……」


 返事に困るし、何も言えない。

 ただ、そわそわとして居たたまれなさだけを感じる私へ、秋生さんが少しだけ近寄ってきて、言った。


「当施設の利用時は、の職員が最初から最後まで見守っておりますので。伊集院さんも、ご縁がありましたら。……また、私がいる時にお申し付けくださいねー……」


 あー。


(あー)


 あー、と思った。秋生さんの声を聞いた瞬間、そう思った。

 本当に、掴めない人だと。何度となく思い浮かべた単語だったが『不思議』な魅力を持つ女性なのだと、思った。




 こういうわけで。


 私、伊集院晃29歳は──。


 ゴルフコーススポーツジムが併設されてる高級マンションって、なんかいいよね。なんて、思いを新たにしたのであった。
















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゴルフコースとかスポーツジムとかが併設されてる高級マンションってなんかいいよね、というだけの話 パルパル @suwaharu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ