金継ぎの恋
みずまち
私は明日、罪深きことを行います。 金継ぎには到底敵わない薄汚い灰色の烙印を、彼女のスカートへ押すのです。
菊のお花が嫌いでした。
あれは葬式のお花です。
匂いだって好きになれません。どこかつんとした、若い生命の匂いがするからです。
若々しい生命の匂いとは、赤ん坊の乳臭い匂いではありません。
どちらかというと、青春真っ盛りの青臭い茎の匂いに近いでしょうか。
青春時代を過ごす私たちの身体はそれはもう、生命が満ち溢れております。
その子によって匂いは違うかもしれませんが、私は茎のように青臭い子が多いと思います。
だけども私は違います。私はもう子供ではありませんから。
なので赤いお靴を履いて一人で外に出かける事だって、こうして出来るのです。
「より豊かな恵みと祝福をお与えください。アーメン」
昨日誕生日を迎え十三になった
学校から一度家へ帰宅すれば、昨日両親から贈られた赤い靴が目に入り、衝動的にそれを履いて制服姿のまま喫茶店へ来たのだ。
この年になるまで一人店へ入るという事をして来なかった由希子は、不安と緊張で小さく震える両手をぐっと胸元で抑え、意を決してからんころんと店内へ入る。
「レモネードをおひとつ、くださいな」
顔見知りの店員に窓際へ案内されると椅子に座らず、そしてメニュー表も開かずに声に出していた。
「あっ」
順番を間違えてしまったと気付いたのは、そんな由希子の様子にくすりと店員が笑い承諾したからだ。
(いやだわ私ったら。ちゃんとお席に座って、メニューを見てから注文しないといけないのに)
顔を下に向け恥を隠すように素早く椅子へ座れば、ちらりと視界に赤色が見え、その色に勇気付けられ動揺した気持ちを再び落ち着かせる。
足元では学校指定の黒い革靴から履き替えた、エナメルの赤い靴がきらきらと光っている。
(どう? 今日の私のお靴、素敵でしょう)
少し背伸びをして顔を上げ、ぱたぱたと爪先の丸い両足を遊ばせては赤い靴の光を楽しむ。そして左髪に結ばれているお気に入りの黒い線が入った白色のリボンをぎゅっと強く結び直し、身だしなみを整えた。
幼さならではの可愛さを強調する為に髪はいつもの二つ縛り。唇を赤く見せる為、右小指をコップの水へちょこんとつけ、その滴を下唇へ塗り軽く噛んではじわじわと赤みを帯びさせ色味をつけたりなんかして。
(これでお姉さまも今日こそは私を見てくれるはずだわ)
お顔は家の鏡台にあった母さまのベビーパウダーをこっそり叩いてみたのだけれど、少し白くなり過ぎたかしら。と、窓に映る自分の顔を見ては頬を少し擦ってみる。
すると、その窓硝子に
はっとして頬から手を離し、遊ばせていた両足を止めて両手を膝の上に置けば、テーブルへ運ばれてきたレモネードへと顔を戻す。
(来る、来るわ。お姉さまが、どどうしましょう!)
目の前のレモネードに炭酸水は入っていないはずなのに、それを映す由紀子の黒い目は緊張でぱちぱちと弾け。乱れる鼓動を誤魔化すように左手で水滴のついたグラスを包み、丸い右指先で黄色いストローを支え一口喉に通す。
『レモネードはね、私たち女学生が恋をした時に飲む大人の飲み物なのよ』
いつの間にか同級生たちの中で流行った決まり事。
レモネードは恋の味。
年上のあの方を思わせるすっきりとした清潔感のある柑橘の香り。そして檸檬の酸っぱさは下級生に目もくれない、やはりクールな年上のあのお方。ストローでより深く吸っていくと、底へ溜まった甘くとろりとした蜜の味がその酸っぱさを優しく和らげてくれる。それは何時だって見ているばかりの下級生に、気まぐれに話しかけて笑顔を見せる上級生の甘さだ。
(やっぱり、やっぱり私たちにとってはレモネードは恋の味なのね。何ておませな飲み物なんでしょう)
レモネードの味と香りに勇気付けられ由希子は再び大人らしい表情を作って見せ。
細いストローで氷を一度回して恋の味に心を溶かしていると、たった今窓硝子に映った女学生二人がからんころんと店内へ入って来た。窓際へ座っていた由紀子の丁度正面に向かい合うテーブルへとその女学生二人は通されながら、メニュー表を見る前に一人が慣れた手付きで注文した。
「ホットレモンティー、二つお願いします」
窓際を背にして短く言った一人は、襟足にかかるくらいの少し色素の薄いウェーブがかった髪を耳にかけた背の高い色白の上級生、
そんな水江と向かい合っているもう一人は、真っ黒な艶のある髪を後頭部で一つにまとめ背中まで伸ばした、睫毛の長い名も知らぬ褐色肌の美しい上級生だった。彼女も水江ほどではないが、なかなか背の高い乙女で下級生らに人気があった。理由は運動神経が抜群らしく、よく陸上競技大会で名誉ある成績を出しているからだ。ミサの時間になると水江と一緒に聖堂へ向う姿を由希子は度々目にしている。
(また、あのお方とご一緒なのね)
作っていた大人の表情を少し子供の表情へ戻すと、先程口紅代わりに下唇へ塗った水滴がレモネードの甘い蜜と共にぽつんとテーブルへ一滴、落ちた。慌ててそれを由希子は拭こうとスカートの内ポケットから、いつも母に持たされているポケットティッシュを取り出し拭き取る。
そうこうしている内に上級生二人はすらりとした長い足をテーブル下へ出し、スカートに皺が寄らぬようにと静かに座っていた。スカートの上には緑や桃色、黄色といった春色の刺繍入りの白いハンカチーフを二人とも乗せており、あのハンカチーフはお揃いだろううかと二人のハンカチーフを見て手にしていたティッシュをこっそりポケットへ戻した。
椅子へと座るだけなのに絵画になってしまう、彼女達は何とも美しい仕草をするのだろうか。先程、店内へ入り優雅さの欠片もなくここへ座った自分の姿を思い返し由希子は思う。
母が作ってくれたこのお気に入りの赤いティッシュケースも、今ではあの白いハンカチーフには適わない。
(水江お姉さま、今日も堂々としてそれでいて凛とされて……何て綺麗なお姿なのかしら)
丸くなっていた由希子の姿勢も、自然と伸びてくる。
レモネード越しに見つめる由希子の憧れた熱い視線の先には、先程注文を声に出した背の高い上級生、水江。由紀子は彼女に対し憧れと小さな恋を生んでいた。
水江のウェーブがかった色素の薄い髪の一本一本を、窓から射す光が輝かせる。薄暗い店内で由紀子の目には一人、日射しを浴びた水江の髪だけが光り輝いているように見えてしまう。先週美術館で鑑賞した油絵の女性の髪も、窓からの日射しであのように光っていたと、うっとり思い出す。
由紀子が夢心地に揺られている間、二人が注文していたレモンティーが運ばれて来た。
水江はソーサーをゆっくり手に取ると、赤いマニキュアをした三本指でカップの取手を取り上げ上唇だけをカップの縁につけ、すぐにそのカップをソーサーへ戻した。
「あら、猫舌でしたの」
同席した黒髪の上級生は意地悪く水江に笑んで言うと、やはり長い睫毛をぱさぱさと動かし愉しげに瞬きを二度して見せ。そして、私は平気よと言わんばかりにこくりとレモンティーを一口喉に通した。
その様子に肩を軽く
(まあ、何て意地悪な先輩。水江お姉さまも、せっかくのお紅茶が美味しく飲めないでしょうに)
由紀子は思わずその黒髪の上級生の、鼻の高い横顔をはっきりと見た。よく見るとその鼻には太陽の痕が、そばかすがのっている。
髪を高い位置で結んでいるので露わになった長い首から下の身体の造形が、制服の上からもしっかり分かるくらいに引き締まっている。黒く長い睫毛も、眉も、額から耳縁、肩にかけて曲がり下がった黒髪がとてつもなくいやらしいものに由紀子は感じた。だがその上級生が時々手を動かしたり、椅子の背もたれに上体を沈めたりとする度に、彼女の日に焼けた褐色肌が店内のランプに照らされ黄金に輝いて見える。その輝きに怯えるように震える胸奥を由希子は感じ、目をレモネードのグラスへと逃がす。
(ちがう、ちがうの。今日私は水江お姉さまだけを見にきたのよ。邪魔をしないで)
誰かに言い訳をするでもなく、由紀子はテーブル下で両手を組み神に一度懺悔した。聖書をいくつか脳内で読み上げては再び、彼女ら二人へと視線を送る。
二人の座るテーブル席には店内の窓、ステンドグラスから日が射しており、時折水江が細く尖った指先で頬にかかる髪を耳にかけ。その耳から光るイヤリングの赤色が、まだ幼い由紀子の目にはとても眩しかった。
(私の、私の赤いお靴に気付いてくださるかしら)
それでもぱちぱちと睫毛を鳴らしながら由紀子は必死に水江の姿を見続け、膝に置いていた手で紺色のスカートをきゅっと握った。
かちゃかちゃと、周りの客が立てるグラス食器の音に由紀子の胸の高鳴りはより強まっていく。
二人は時々互いの耳と唇を近付け合い、睫毛がくっついてしまいそうなくらいの距離でくすくすと笑っている。水江の普段見ない、どこかあどけない表情に由希子はまた胸奥が震えそうな気がして、それを見て見ぬ振りした。
日を照らした二人の談笑は、いつか図書館で見た悪戯っ子の妖精みたいで知らず知らずの内にストローを前歯で噛んでしまった。
(そういえばレモネードってとっても甘い飲み物だけれど、妖精の好きな飲み物なのかしら。妖精は、だって妖精は昔から砂糖菓子が好きだと読んだわ)
その時に読んだ絵本を思い出し、ぼんやり思いながら歪になったストローをカラリと一度回してみる。
もし少しでも水江が此方を見たらと思い、前歯で歪んだストローの口を右人差し指で隠し由希子はちらちらと二人へ視線をやり過ごす。
そうして少し時が流れ、照らす日が影に入ったその隙に二人の柔らかな空間へいよいよ入ってみようかと、履いた赤い靴を出そうと決意した時。
ざらりとした、そうといってこつんとした音も無く水江ともう一人の黒髪の上級生、二人の黒い革靴が爪先だけ当たるようにして静かに合わさったのだ。
かーん、と由紀子の頭から足先まで聖夜の教会の鐘の音が一度大きく鳴り響いた。勿論幻聴だがその瞬間に由紀子の身体は完全に硬直してしまい、二人の足元を凝視したままそこから視線を逸らす事が出来なくなってしまった。
二人の黒い革靴の先と先はくっついたままだが、水江と黒髪の上級生は表情一つ変えず談笑を続けている。互いに爪先が合わさった自覚も無いのだろう。
磁石の様に離れず皮肉にも再び窓から射した光がその黒い革靴を照らし始める。その革靴は学校指定の物だが由紀子達下級生の履いてきた黒色とは違い、上級生を思わせる少し色褪せた黒色だった。
水江と対面している黒髪の上級生の引き締まった
そんな錯覚をし、由希子は二人の爪先と爪先がまるでいつか秋の夕暮れ時に叔父の家で見た、金継ぎの茶器を思い出す。
茶器収集家である叔父の家へ遊びに行くと、窓辺で、夕日と、様々な形の茶器を眺める事が好きだった。
多く茶器はあれども、由希子は特に乳白色をした茶器がお気に入りで。その白に夕日の朱色が映る姿が好きだった。
夕暮れに沈みゆく日射しを受け、乳白色の茶器の口造り部分を薄っすらと円を描き、朱色に染まっていく瞬間。その時を見守りながら、自分の目も朱色になってきているのではないかと幻想する。
そうして両目を閉じれば、目の表面いっぱいに映り込ませた夕日の朱色を自分の目の奥にある水晶体へとじわじわ染み込ませ、上を向く。目は閉じているはずなのにその時の世界の色は何とも言えない茶色と黒に近い色と、朱色が混ざって由希子の身体を暖めるのだ。
それなのにある日、金継ぎされた一つの茶器が邪魔をして、口造りを縁取る夕日の朱色より金色が目立ってしまい、由希子は心底失望し叔父に何故金を入れたのかと問うた。何故か今、由希子はその時の事を思い出してしまい、また失望に駆られた。
そして視線の先の二人の姿に息を飲み、強く顔を下へ向かせ強引に自分の硬直していた身体を動かそうとした。
(ああ、ああ何てこと……!)
途端に由紀子は自分が今日履いてきた赤いエナメル靴が恥ずかしくなり足先を奥へと引っ込める。いつの間にか握り締めていたスカートはもうぐしゃぐしゃで、母に叱られる事も忘れ今の自分の身体の震えを抑える事にいっぱいいっぱいになってしまい。
(水江お姉さまのお靴が、あんな意地の悪いお方の足にくっついて。こんな公共の場に隠れて、お二人とも恥知らず!)
今度、朝のミサ時間に座っている時、あの黒髪の上級生のスカートを思い切り踏んでしまおうか。
いいえ、こんなに恥ずかしい思いをさせた水江お姉さまのスカートを踏んでしまおうか。
ミサの時間は毎朝床に直接座ってお祈りをする。
まだ背の低い由紀子の前には大抵上級生の一番背の高い学生が座っている。
わざと、わざと別の組へ紛れてどちらかの後ろを狙って神父様のお説教の間、ずっとずうっと踏んでいてみようか。
教会で、ましてや神父様のお話中に、白きマリア様に見られながら彼女らどちらかのスカートを踏んで見せようか。
——私のシューズの跡で灰色に汚れた紺色のスカートを見て、お二人は互いにどんな言葉をかけるのでしょうね。
由紀子はストローの代わりにもう青白くなった下唇を噛み、自分の胸内へ広がっていく安っぽい炭酸水の酸っぱさを押し込めた。やはり炭酸水など口にはしていないのに、しゅわしゅわと安っぽい炭酸水は弱々しくも由紀子の胸元を侵食し、支配していく。
胸内から鼻先へと上りついたその安っぽい炭酸水の酸味がぷんぷんと由紀子の大嫌いだった菊の青臭い匂いへと変化し、
このままでは由紀子の吐息は菊の香りとなり、店内全体を大嫌いな空気で埋め尽くしてしまうだろう。今まさに、黒髪の上級生によって金に光り輝いている、憧れの水江さえも。
微かに震えていた右脹脛に力を入れ、なるべく椅子の音を立てない様に由紀子はその場を立ち、小銭を幾ら払ったかも分からぬまま喫茶店を出た。
背後からあのステンドグラスから射す清い光が、そして二人の金色の光が追いかけて来そうで、途中から由紀子はお気に入りの赤いエナメル靴が土埃に汚れるのも構わず駆けた。途中、左髪に結んでいた白色のリボンが風に攫われた感覚もあったが駆けて、駆けて、光から逃げ涙をまなこに溢れさせたのだ。
嗚呼、神様。
——お赦しください。
私は明日、罪深きことを行います。
金継ぎには到底敵わない薄汚い灰色の烙印を、彼女のスカートへ押すのです。
ばつ? 罰なら受けますわ。私のこの足をちょん切ってしまえばいい! そうすればもうこんな赤いお靴もいらないわ。お靴だって勝手に踊って私の元から去って行くでしょう。
その時は母さま、金継ぎした花瓶へ青臭い菊の花を挿して祭壇へ飾って下さいましね。
罪を犯した私の嫌いなものを祭壇へ飾って、せめて私の足と赤いお靴のお祈りだけでもして下さい。
そして烙印を押された彼女たちへ、より豊かな恵みと祝福をお与えください。
アーメン。
了
金継ぎの恋 みずまち @mizumachi
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