本編
本編
かすかに、ジャコウの香りがした。
ひとけのなくなった月夜に、私はひっそりたたずみながら、目をこらしていた。
姫路城二の丸にあるこの『お菊井戸』は、曰く付きの古井戸であった。
石の杭に取り囲まれ、蓋こそないが頑丈な鉄格子が張られており、二度と身を投げ捨てられることのないよう安全策が取られている。
ひらり、と闇が揺れたような気がした。
ひらり、ひらり。
ジャコウアゲハか。
井戸から沸いて出てきた漆黒の蝶々は月明かりに照らされ、ひらりと舞い上がった。
姫路市が市の蝶々として制定しているのがジャコウアゲハだ。
昼間通りすがった市内の小学校では、ジャコウアゲハの食草であるウマノスズクサを栽培していた。つる性の草で、不思議な花をつける。
ウマノスズクサは毒草だが、ジャコウアゲハは自身の体にその毒をため込んで、自分を捕食する者を中毒死させるのだという。
かすかに、声が聞こえてきた。
一枚、二枚……
隠された皿を探し続けているというお菊の声だ。
姫路城主に仕えていたお菊は、家臣が乗っ取りを企てていることを知ってしまった。
暴露されることを恐れた家臣は先手を打ち、家宝の皿を一枚隠してお菊のせいにした。
お菊を引っ捕らえて後ろ手に縛り、松につるして拷問したあげく、井戸に投げ捨てだのだった。
だんだんと、声が井戸を上ってくる。
五枚、六枚……
ジャコウアゲハのサナギは女性が後ろ手に縛られた姿とそっくりだという。
まるでお菊が縛られたような形をしていることから、ジャコウアゲハのサナギをお菊虫と呼ぶのだとか。
その声は、すぐそこにまでやってきた。
八枚、九枚……
十枚一組であったという家宝の皿が一枚足りない。
どこを探しても見当たらない。
見当たらないはずである。
私が井戸に投げ捨てたのだから。
ところが、十枚目を数える声が聞こえてきた。
粉々になった皿を、じゃらじゃらとかき集めるような、耳障りな音がする。
ああ、うれしや……
なおも恨めしそうなお菊の声がまとわりつく。
井戸の底からいくつもの黒い蝶があふれ出てきた。
息をするのも苦しいほどに、私を覆い包む。
その中に一匹、色の違う蝶を見た。
レース模様のような黒い縁取りに、薄い褐色。
よく見るアゲハチョウに似た姿をしていた。
ジャコウアゲハは雄と雌とでは色が違うのだ。
物を言おうとした私の口へ、蝶がなだれ込んでくる。
生まれ変わっても、その身を賭して、恨みを果たす覚悟であった。
静けさが戻る。
今はもう干上がっているという古井戸。
光が届かぬ奥底で、なにかがうごめいていたとしても、それは誰も知るところではない。
バタフライエフェクト 若奈ちさ @wakana_s
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます