純文学を書こうとした残骸

バルバルさん

そして、また私は文を書く

 私は、純文学というものが分からない。

 純文学。それは「学問化できるほどに純粋な文芸作品」だと私は思っているのだが、いったいこれはどういう作品なのだろうか。


 これから書く事は、あくまで私の感じていることだと思って読んでほしい。


 例えば、コナン・ドイルの著作、「シャーロックホームズシリーズ」。これは純文学だろうか。

 私はこの作品を楽しんで読めるが、かなりエンターテイメント性が高い作品だと思う。

 エンターテイメント性の高い小説、大衆小説を純文学と定義しないのなら、この作品は純文学ではない。

 だが、この作品はシャーロキアンという熱狂的なファンを生み出し、学問とも呼べるほどに考察されている。

 古く学術性の高い作品を純文学とするなら、これは純文学だろう。

 個人的には、シャーロックホームズや怪盗紳士ルパンといった、かつての古き良き探偵小説は純文学としてほしいのだが……


 例えば、夏目漱石の著作、「吾輩は猫である」は純文学だろうか。

 純文学的な作品を読んでみるに、純文学に不思議やファンタジックなものは必要なく、あくまで、現実世界を切り取ったものが純文学たりえるのだろうか。

 だが、吾輩は猫であるの猫は擬人化された感情を持ち、餅を食って歯にくっつけて踊るではないか。

 これは現実を切り取った、ファンタジックな感覚を廃した作品とは言えない。

 だが、一般的な人……例えば、「小説は読むけど、あくまで楽しみと時間潰しのため」な人たちに、吾輩は猫であるを純文学か?と聞けば、肯定されるかもしれない。

 やはり、昭和大正明治の有名な著作は、一般に純文学にカテゴライズされるのだろうか。


 まあ極端な話というか、言ってしまえば身もふたもないが、ウィキペディア先生に聞いたり、文系の学校で習ったりすれば、純文学は勉強できるだろう。

 しかし、それを書いてみろと言われると、私には無理だ。

 私の作品は、多かれ少なかれ、ファンタジー要素や、大衆向けというか、柔らかい表現を使って作っている。

 それは、純文学を嫌って。というわけではなく、純文学を狙って書いた私の拙作の「猫の母の恩返し」もある。

 だが、この作品が完全な純文学作品かと言われれば、作者自身、正直首をひねる。

 心のどこかで、「人を楽しませることをよしとするのではなく、感動や息苦しさといった、心の機微を文字で表現しなければ純文学ではない」と、勝手に思っているから。というか、思っていたから。


 今回、この作品はとある自主企画に寄稿しようと書いていた作品。それを書いているうちに感じた疑問を文章に打ち出したら、こっちの方が企画に合っているかな?と思い、こちらを応募させていただくのだが。


 エンターテイメント性はあって良いのか?

 大衆向けではあっていけないのか?

 ファンタジックな表現、非現実は描いてはだめか?

 リアルな苦しさ、感動を追求しつくした先にある作品しかダメなのか?


 そんな疑問が浮かんでは消え、浮かんでは消え……


 ああ、私には。純文学が分からない。

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