後編


 土日に彼のところで滅茶苦茶に働かされてウチに帰れば、待っているのは母の「結婚はまだか」の小言。

 そうなる前に一人暮らしを始めれば良かっただろうって? 

『冗談じゃない、貴方なんかに一人暮らしなんて出来るわけない! ろくに稼げもしない癖に!!』が口癖の母が、許してくれるわけがないでしょう。


 全てを捨てて家出してしまえればと、何度思ったか分からない。

 実際、家出マニュアルを入手してガチの準備を進めたこともある。部屋の整理をしていらない本や服を売って、少しでも手持ちのお金を増やしたりして。


 だけどいざとなると、どうしても実行には移せなかった。


 ――母のあの容赦ない小言からは、一刻も早く逃れたくて仕方なかったけれど。

 父の寂しそうな背中が、いつも私の心を止めてしまっていたから。

 私がいなくなったら、父はどんなに悲しむだろうかと――


 母はいつも父を罵倒しているけれど。

 父の存在は私にとって、幼いころからずっと大きかった。

 仕事で忙しいことも多かったけど、一緒にいる時はしつこいぐらいにそばにいてくれて、ワガママも聞いてくれて、勉強で分からないことがあれば丁寧に教えてくれた。

 母に対して殺意に近い憎悪を抱いたことは何度あったか分からないけど、父に対してそう思ったことは一切ない。

 父は時には厳しいことも言うけれど、いつだって私に優しかったから。

 逆に言えば、父だけが私を繋ぎ止めていた絆であり――

 同時に、鎖でもあった。




 そうこうしているうちに、彼は国家試験に受かってしまった。

 ようやく彼が医者になった!と、母は誰より大喜び。多分彼本人より喜んでいただろう。

 早速私の新居の準備を、私より早く始めようとする始末。

「いつ家を出ていくのか?」は、最早延々と尋ねられた。私の一人暮らしはあれだけ拒絶した癖に、何故そこに彼がつくと大歓迎なんだろう?


 少しでも機嫌を損ねれば、また母のヒステリーが発動してしまう。

 それが怖くて、私はこう言ってしまったのだ――


「多分、5月の連休までには落ち着いて、引っ越しできるよ」と。


 母が小躍りして喜び、早く新居を選ばなきゃ!!と言い出したのは言うまでもない。

 結果私は、5月の連休までに新居を決めなくてはならなくなった。

 彼とは殆ど、何も話が進んでいないのに。



 一方で私自身は、何も喜べなかった。

 彼の就職が決まれば、同時に私が彼と結婚するのは決まってしまったようなものだから。

 何も嬉しいわけがない。

 土日だけでなく毎日ずっと彼に拘束され、自由など何もなく、ワガママに振り回されるだけの日々が待っている。

 それは多分、死ぬまで、ずっと。

 だから今日の内見は――

 私が半永久的に閉じ込められる、地獄の場所。その内見でもあった。


 ――だけど、仕方ないよね。

 どうせ、私の人生なんてこんなもの。

 夢を諦めないとか、人は何にだってなれるとか――

 小さい頃はそう訴える物語をいっぱい見てきたけど、そんなものはただ、私みたいなダメ人間を騙す為の大嘘にすぎなかった。

 そういう夢を見られるのは、ほんの一部、才能のある人間だけ。

 私みたいに何の能力もない、親や彼氏のヒステリーに振り回されるばかりのダメ女にとっては、想像以上に未来がない。

 それなのにあらゆるメディアが、全ての人々には未来がある夢があると五月蠅いほどに叫んでくる――多分それは、私みたいな弱い人間を自殺させず、ひたすら働かせる為に。

 今生きているこの国って、そんな世界。



 *



 やがて父の元に、ホットケーキが運ばれてきた。

 二つのチョコアイスが乗り、真っ白なクリームもついているホットケーキは、本当に美味しそう……

 すると父は、私にそのホットケーキを差し出した。


「スミカ。食べるか?

 滅茶苦茶美味そうだぞ」

「えっ?

 い、いいよ。お父さんが頼んだヤツでしょ」

「それじゃあ、あーんしろ、あーん。

 すごく食べたそうな顔してるぞ~?」

「えぇ……」


 確かに食べたかったのは事実。

 私は少々恥ずかしいながらも口を開ける。父はチョコアイスをひとさじすくうと、それをそっと私の口に差し出してきた。

 舌に乗せられたチョコアイスの風味は、ひんやりと冷たく、心地よい甘さ。

 ついつい二口三口と、続けて父に甘えてしまう。


「小さい頃はよくこうやって、スミカにうまいモン食わせてたなぁ。

 ほら、これもうまいぞ? ほら」


 とても楽しそうに、私の口にアイスを運ぶ父。

 さらにホットケーキも丁寧に切って、アイスと一緒に私に差し出してくる。

 ――私、30歳過ぎてるんだけどなぁ。

 さすがに少々面食らったけど、意外なほどの父の押しに負け、ついつい口にしてしまった。

 ほどよく焼けた生地が冷たいチョコアイスと絡まり、とても美味しい。


 すると父は、ケーキを細かくフォークで切りながら、ぼそりと呟いた。



「なぁ、スミカ……

 お前は彼と、本当に、結婚したいと思っているのか?」



 父の口から飛び出したその疑問は、ストレートに私の心に突き刺さってくる。


 結婚したくなければ、どうすればいいの。今更どうしようもないじゃない。

 だって私は、彼と結婚できなければ、どこにも未来なんてないんだから!

 ――心に溢れてくるものは、そんな叫び。

 誰にも言えない、誰にも言ってはいけない。そんな叫び。



「最近のお前、『仕方ない』が口癖になってて、気になってる」



 チョコアイスの甘さと一緒に、父の言葉はじわりと胸にしみこんでくる。



「スミカがさっき言ってたこと、ずっと気になってるんだよ。

 私の好きなもの、彼は全部嫌いって……

 スミカは昔から、本や漫画が大好きだったじゃないか。それさえ手放すのかって」



 アイスの心地よい冷たさと、ケーキの暖かさ。

 その味を噛みしめながら、喉に何かが詰まってくる。

 それは――心からの絶叫だったかも知れない。



 嫌だ。

 嫌だよ、お父さん。

 私、結婚なんてしたくない。



「……何で今更、そんなこと言うの?」

「何でって。

 スミカ。ここ最近ずっと、心から笑っていないだろう?

 お父さん、知らないうちに、何かとんでもないことをお前にやってるんじゃないかって……」



 それは4分の1ぐらい本当。

 だってこの状況から私を逃げられなくしたのは、4分の1ぐらい父のせいだから。

 父がずっと優しくて、私が家を見捨てられなかったから。



「大事な娘が結婚するのに、その未来を心配しない父親なんていないだろう?

 たとえ相手に、どれだけ金があったって」



 不器用ながらも呟く父。

 その言葉に、私の中で――

 何かが、一気に崩壊していく。

 ちょうど、ホットケーキの上で溶け崩れかけたチョコアイスのように。



 気がつくと、涙が出てきた。

 同時に、喉から溢れ出した言葉は。



「あんなヤツと、ずっと一緒になんて……

 死んでも……イヤ……!!」



 言ってしまった。

 誰にも言ってはいけない自分の心を、あまりにもあっさりと。




 **




「……そうか。

 お父さん、スミカを奴隷のように売るところだったんだな。

 どうしようもない男に」



 私は全てを話してしまった。

 全てが終わると分かっていても、もう話さずにいられなかった。

 彼の――あの男の内情を。



「……ごめん」

「謝るのはお父さんの方だ。

 ずっと苦しませて、本当にすまなかった。

 お母さんを止められず、お前の苦痛にも気づかなかった

 ……父親として恥ずかしい」

「……ごめん。

 本当に、ごめん……もう、無理……」



 洪水の如く溢れ出る涙を押さえられないまま、ひたすら頭を下げるしかない私。

 そんな情けない私の頭を、父は優しく撫でてくれた。



「大丈夫。

 お母さんは、俺がちゃんと説得する。いや、そうさせてくれ。

 お父さん、今まで何も出来なかったからな。

 ――心配するな。お母さんだって、鬼じゃない。分かってくれるさ。

 スミカが今言ってくれたことをちゃんと話せば、きっと納得してくれる」



 **



 その2年後。


「スミちゃん。せっかくの新居なんだし、真面目に内見しよう?」

「うぅ……そんなこと言ったって、この間の物件でいいじゃん……

 こんな朝早くから行かなくったってぇ……眠い~」

「ダ・メ!

 この前のところは収納が狭いって、スミちゃん文句言ってたじゃないか」


 私は強引に、新居の内見に連れだされていた。

 夫にしっかりと手を引かれて。


「別にいいよ、もう……

 私の本とか色々処分すれば何とかなるって言ったでしょ?」

「何度も言ったよね?

 僕、スミちゃんの好きなものを犠牲にしたくないって」

「う、うぅ……!」

「それにあそこ、君の職場からだって結構遠かったでしょ?

 今度のところはお互いの職場から近いし、条件だって最高なんだ。早く行かないと取られちゃうかも知れないよ?」

 

 夫とはつい1週間ほど前、そこそこ立派な結婚式を挙げたばかり。

 今は新居をどうするか、二人で必死にあちこち見て回っている最中だ。


 ちなみに夫は、10年以上前から立派に稼いでいるサラリーマン。勿論医者ではないけれど――

 ちゃんと私を、大事にしてくれる人。

 その証拠に、私が満足する新居を見つけるまで、決して諦めてくれない。

 私が適当に妥協しようとしても、引いてくれないのだ。

 きっちり私が満足しないと、自分も満足しない。そういう人。


 あれから色々頑張って、色々なところで探して、やっと見つけた。

 そんな、心から大切な人だ。


 そして一緒についてきた父も嬉しそうに、私たちの後ろからついてくる。 


「そうそう。ちゃーんと二人で納得するまで、しっかり見るんだぞ。せっかくの二人の新居なんだからな~。

 終わったら、二人にホットケーキ奢るから!」

「うわぁ、嬉しいなぁ! 僕ホットケーキ大好きなんですよお義父さん!

 さぁスミちゃん、行こう!!」

「は、はぁ~い……ね、眠いぃ~」


 そんな風に、お互いしっかり手を繋ぐ私たちを見る父の目は――

 とても、幸せそうだった。





 Fin


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新居の内見~この世界はダメ女に厳しすぎる~ kayako @kayako001

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