新居の内見~この世界はダメ女に厳しすぎる~
kayako
前編
「このあたりは昔から本当に、地価が高いんですよ。
月8万以下の賃貸、それも2DKか1LDKで、さらにその条件でとなると……
非常に難しいですねぇ」
不動産屋のおばさんにハッキリそう言われ、私はゲンナリと肩を落とした。
そりゃそうだろう。こんな無茶な条件はそうそうない。
だけど私についてきた父が、おばさんに深々と頭を下げる。
「そこを何とか、お願いしますよ。
出来れば5月の連休までに……せっかくの娘の門出なんです」
「とはいえねぇ。
このあたり、学生さんも多いでしょう?
4月のこの時期はもう、いい物件はどこも埋まってまして」
正直――こんな父の姿は、見たくなかった。
私だけじゃなく、父まで『あの』彼の言うことを受け入れなきゃいけないなんて。
*
私――
ずっと実家暮らしだけど、一応彼氏がいる。
彼は32歳の医者の卵で、ついこの間国家試験に合格して医者になったばかり。
それまでは2年ぐらいずっと、バイトも何もせずに勉強に没頭していた。
彼女の私が何をしていたかというと――
土日ずっと、彼の食事や買い物、掃除などのお世話。
実家からの交通費も買い物の代金も、全て私もち。
デートなんてとんでもない。誕生日やクリスマスに何かプレゼントをもらったことなんて一度もなかった。
つきあい始めたのは、3年ぐらい前から。
母の知人の紹介がきっかけだった。
『スミカは何をやってもずっとダメダメで、稼ぎも少ないダメ娘だったけど、彼と結婚できれば将来安泰ねぇ~!
だって何と言っても医者だもの。宝くじ当てたようなもんよ!』
彼と付き合い始めて以降、毎日のように母はそう言ってきた。
彼が私を少し気に入ったと聞いてからは、ますます母は調子に乗り。
彼との結婚はいつか、日取りが決まったら新居への引っ越しはいつにするのか、顔を合わせるたびに尋ねてきた。
まだ付き合い始めて日も浅い段階だったにも関わらず、である。
結果私は、家で食べずに外食で済ませることが多くなった。
帰宅するのも、母が寝るぐらいの頃を見計らってから。
それでも母は隙を見つけては、彼との話をもちかけてくる。いっそ母と彼が結婚してしまえと思ったレベルで。
現実的に考えて、医学生の彼との結婚は難しい。
何より彼自身は「まだまだ結婚なんて冗談じゃないよ」とか笑ってはぐらかして、同期の女の子の話ばかりしていたのに――
だから結婚は彼が国家試験に合格し、医者になってから。私はどうにかそう言って、母を説得した。
半分ヒステリックになりつつも、それでも母は「じゃあ、彼が合格したらすぐに入籍ね!! 撤回は許さないよ!!」と納得してくれた。地団駄踏んで暴れまくりながら。
だけど、仕方がない。
私の実家は住宅ローンで長年苦しみ、住居はあれどお金はないという状況が続いていた。
貧乏で苦しむあまり、母はたびたびヒステリーを発症し、父や私に当たった。
そうなった時の母は、誰にも止められない。私は勿論――
元々、もの静かな父にも。
そもそも、無計画に膨大な住宅ローンを組んだのは父である。
そして母の期待に応えられず、就職がうまくいかずに派遣社員にしかなれなかった私自身も、母には貧乏の一因とされていた。
だから貧乏を理由に母が激昂する時は、父も私も何も言えなくなってしまうのだった。
彼との付き合いが平穏なうちは、まだそれでも良かった。
だけど2年3年とだらだら付き合いが続くうち、母からの「結婚の話はどうなってる」のプレッシャーは次第にキツくなっていく。
私自身が本当に彼のことを好きなのか。そもそも彼の方も、私を本当に好きなのか。
それすら分からないうちに、母の中で勝手に妄想が進んでいる気がした。
だが、少しでもそのことを指摘すると――
『スミカ! 貴方、彼と結婚したくないの!?
だったら貴方、この先どうやって生きていくのよ! 30歳もとっくに過ぎて、派遣だなんて……ホント、ただでさえ親として恥ずかしいのに!
彼みたいな人が貴方にこの先、現れるわけがない!
器量も性格も良くない、ろくに稼げもしない貴方は、医者の彼と結婚するしかないでしょ!?
心配なのよ、心配なのよ! 心配でたまらないのよアナタガアアァアアァアッ』
何かあるたび、「貴方が心配だから」「貴方を愛しているから」と大声で主張しては、発狂したかのように怒鳴りまくる母。
昔からこういう母のヒステリーに悩まされ、そのたびに私は母の言うことを黙って聞いてきた。
それが母の、嵐のような怒りを鎮める唯一の方法だったから。
だから何があっても私は、彼との付き合いを続けるしかなかった。
たとえ――
手をつなごうとすると、跳ねのけられてしまったりしても。
並んで歩こうとすると、すぐに先へ先へと歩いていかれたりしても。
道で友人らしき人物とすれ違うと、私を紹介するどころか赤の他人のふりをして友人との会話を優先したりしても。
料理にもやたらうるさく、自分が気に入ったレシピ通りにやらないと激昂したりしても。
話題の殆どが、同期の可愛い女の子の話だったとしても。
少しでもこちらが不満を言ったり、結婚の具体的な話を切り出すと「そんなにワガママいうんだったら、もう付き合いやめよう!」とか言われる間柄だったとしても。
*
不動産屋で散々相談を繰り返した挙句、彼の出した条件に当てはまる物件がようやく見つかり、私と父は下見に行った。
職場となる大学病院へ、5分以内で行ける場所。かつ、スーパーやコンビニとも近く、さらに言えば車などの騒音がほぼない場所。
今住んでいる場所が心地いいから、引っ越すなら同じ条件の場所じゃなきゃイヤだそうだ。
今彼が住んでいるのは1Kのアパート。勿論二人以上が住むことは想定されていない。
だから同じ値段や条件であっても、二人で住める物件となると非常に限られてしまうのが現実だ。
紹介されたのは築40年以上は経過している、古びたマンションの4階。
エレベーターはなく天井は低く、通路も階段もどこかうら寂しさを感じる場所だった。
中に入ると壁にはいくつも謎のシミがあり、台所もトイレも狭く古く、ビルの陰となり日当たりは殆ど皆無と言っていい。
歩くたびに床がミシミシと音をたて、かなり心もとなかった。
「お、おいスミカ。
この手すり、相当低いぞ? これはちょっと……」
ベランダもかなり狭く、窓から外を見渡した父はさすがに呆れていた。
そして父の言うとおり、ベランダの手すりが想像より低い。うっかり身を乗り出したら向こうへひっくり返ってしまいそうに。
それでも私は黙って、部屋の写真をスマホで淡々と撮影していく。
後で彼に見せる為だ。
何となく、結果は分かりきっている気もするが――それを父に言うわけにはいかなかった。
そして内見後。
私と父は、近くの喫茶店に立ち寄った。
今日は私も父もわざわざ仕事を休み、内見に来ている。
肝心の彼が何故来ていないのかって? お医者様のお仕事は何よりも優先しなきゃならないからに決まっているでしょう。
新居の下見なんて、下々の者がやればいい。ボクはそんな面倒なこと絶対にやらない、研修で滅茶苦茶忙しいんだから――
それが、彼の本音だろう。
歩き回って疲れてしまった私は、コーヒーを頼んだ。
父も私にならい、メニューを見ながらコーヒーを頼む。そして。
「おぉ。このホットケーキ、美味そうじゃないか」
少し楽しそうに、ホットケーキを注文する父。
彼の自宅近くにあるこの喫茶店はなかなかオシャレで、特にチョコアイスの乗ったホットケーキはとても美味しそうで、一度入ってみたかったけれど――
彼は甘いものが大嫌いで、店自体に全く見向きもしなかったっけ。
注文を終えると、父は少しどもり気味に尋ねてきた。
「なぁ……スミカ。
本当にいいのか?」
「仕方ないよ。あそこしかろくな物件ないし……」
「スミカの荷物、あの部屋にはとても入らないだろう。好きな本も漫画もDVDも、何も持っていけないぞ?」
「仕方ないよ。
私の好きなものなんて、彼は全部嫌いだし」
「え?」
「あ……いや、そんなこと、どうでもいいじゃん。
当面暮らせる生活用品さえあれば、別にいいでしょ?」
「いや、あのな……荷物だけの問題じゃない。
さすがにあれは、どうかと思うんだがなぁ。
いくら事情が事情とはいえ、スミカ。新婚の二人の新居だぞ?」
お父さんまで、新婚とか言うのか――
私はもうとっくに、結婚なんて言葉に絶望しているのに。
結婚なんて、この国の無力な女を縛りつけ、生かさず殺さず働かせるための方便。
世に溢れるロマンチックな恋愛物語なんて結局は、結婚という地獄に女を誘導する為の幻でしかない。
それがここ数年、母に怒鳴られながら彼と付き合った結果、私が培った認識だった。
「母さんもボヤいてたぞ。結婚式はいつになるのかって」
「だから言ってるでしょ。
結婚式なんて、この世で一番無駄なものだって……それが彼の口癖なの。
新居探しだけでも文句言うだけで全然協力してくれないのに、結婚式なんかやるわけない」
「しかしなぁ。年頃の娘を3年も待たせて、やっと就職できた今になって、こうも非協力的では……」
「仕方ないよ。
だって研修医って滅茶苦茶忙しいんだよ? ろくに家に帰れないくらいに」
私にはもう分かってる。
今日行った物件だって、彼は文句言うだけ言って見向きもしないに決まってる――
そもそもずっと前から、結婚の話を出しただけで彼は怒り出すような人だった。忙しいのにそんな話をするなと。
その癖、土日になると私を一方的に呼び出した。
「仕事で疲れているから」と拒否すれば、電話口で泣き喚くのは当たり前。
掃除やら買い物やら家事やらでこき使っては、買ってきたものが違うだの隅の埃が取れてないだの味が違うだので文句を言いまくり。
その上、ずっと帰してくれない。ヘタすると翌日に仕事がある日曜夜遅くまで。
終電逃しそうで無理矢理帰ろうとしたら、スプーンや箸を投げられて暴れられることもしょっちゅう。
そういう生活が、ずっと続いていた。
とはいえ4月から研修が始まって、土日にすらろくに会うことも出来なくなり。
私は逆にそのことに関してはほっとしていた。その分、会えた時の彼のワガママは数段酷くなっていたけど。
「そもそも、スミカ。
最近、すごく疲れた顔していないか?
派遣とはいえ、平日はお前も満員電車に乗って、フルタイムで働いている。
それに加えて土日まで、ウチからここまで1時間以上かけて通ってる。
このままじゃお前、結婚する前に病気になっちまうんじゃないかと、心配でな」
先に運ばれてきたコーヒーには殆ど手を付けず、父は尋ねてくる。
――その疑問は、こうなる前に聞いてほしかった。
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