心理的瑕疵予定物件

志波 煌汰

2DK、駅近、家賃2万円。現状死亡者なし。

 どう考えても事故物件でしかありえなかった。


 春からの一人暮らしに向けて部屋を探し始めた私が見つけたのは、それほどまでに破格の好条件だった。

 広々とした2DK、駅・コンビニ近、日当たり良好な三階。築浅でオートロック付き。もちろん風呂とトイレは別で、洗濯機が外置きというわけでもない。


 これほど条件が揃っていて、月々の家賃は二万円。


 ありえない。近隣の物件と比較しても四分の一以下である。おとり物件だとしてもあまりにも怪しい。

 絶対にワケありだと思って調べ始めたが、その「ワケ」が見つからない。

 駅近ではあるが電車の音がうるさいわけでもない。近隣にお墓や刑務所、暴力団事務所などの気分の良くない施設が存在するわけでもない。近隣住民とのトラブルでもあるのかと思ったが、調べた限りそういうわけでもなさそうだ。


 となるとこれは事故物件しか考えられない。そう思ってネットの事故物件データベースや報道記事を漁ったが何も出てこない。私の調べでは過去にあそこで死んだ人はいなさそうだ。

 あまりにも怪しすぎる。いっそ見なかったことにするかとも思ったが、しかし家賃二万円でこの好条件は捨てがたかった。実家からの仕送りがそれほど見込めない私にとって、家賃が低いことはかなり重要だ。


 そういうわけで意を決してこの物件を扱っている不動産屋に問い合わせることにした。

「この安さにはどういう理由があるんですか?」

 詰め寄ると不動産屋の担当者は何とも気まずそうな顔をする。

「あそこの物件ですか……まあ……いい物件なんですけどねぇ……」

 何とも歯切れの悪い回答に私はさらに圧を強める。

「理由さえ分かって納得できれば是非住みたいんです! 教えてください! あそこはいわゆる、心理的瑕疵物件ってやつなんじゃないですか!?」

 心理的瑕疵物件。居住に際し心理的に抵抗が発生する可能性のある物件を指す。私が事前に調べたように、近隣に好まない施設があるとか、過去に人が死んでいるとかそういった物件だ。最も事前調査で近隣に問題がないことは確認できているので、この場合は事故物件のことを指している。

 私の指摘に不動産屋は何とも微妙な顔をした。

「心理的瑕疵物件と言えばそうなのですが――何せ基準が曖昧ですからね――お客様が懸念されているような、『誰かが死んだ』というような事実はありません。これは誓って本当のことですよ。我々も散々調べましたから」

「じゃあ、この家賃は一体」

「そこまでご興味がおありでしたら――」

 不動産屋は溜息を吐きながら、懐から鍵を取り出す。

「――内見、行ってみます?」



 案内されたのは事前に調べたとおりの素敵な建物だった。

 全体的に白を基調とした外観はなかなかに洒落ている。オートロックのエントランスを通って、エレベータで三階へ。築五年も経っていないので、どこを見てもぼろ臭いところがない。

 鍵を開けてもらって入った部屋もまた良い。日当たり抜群で、収納も不足がない。どの部屋も広々としていて綺麗で、いかにも住みやすそうだ。

 まさに理想の物件。薔薇色のキャンパスライフを送るのに相応しく思えた。

 重箱の隅をつつくように目を光らせても、どこにも家賃が下がりそうな要素は見当たらない。こんなところに住めたら素敵だろうな……。ベランダで風を感じながら青空を眺め思いを馳せていた私は「すみません、家賃の低い理由って」と問いかけるために部屋の中を振り返った。


 そこに、幽霊が居た。


「ひっ……!」

 恐怖と驚愕で肺が潰れたと錯覚するほど縮み上がる。口から漏れたのは息を呑む悲鳴で、それは私の恐怖心と反比例するみたいに驚くほど小さかった。

 それはまさに幽霊としか言えない存在だった。見間違いや勘違い、何らかのトリックではありえない。明らかに異質な雰囲気を纏っており一目見ただけで体の芯から凍えるようだった。

 体は透けている。顔は……ぼんやりとしていてよく分からない。いや、顔だけではない。全体的な輪郭そのものが。男なのか女なのか、痩せているのか太っているのか、背は高いのか低いのか。そのどれもが不明瞭だった。まるで存在そのものがぼやけているよう。いくら見ようとしても焦点が合わないというか、無理やりずらされるような気持ち悪い感覚。それなのに目を離せない。瞬き一つできずに凝視しているにも関わらず、何一つ捉えられない。そんな明らかに奇怪な体験が、そこにあった。


 時間にするとどれくらいだろうか? 案外、数秒程度に過ぎなかったのかもしれない。だが私には、陳腐な表現だが永遠のように感じられた。

 そして前触れもなく唐突に「それ」はふっと姿を消した。

 映画のコマ送りのように不自然な、まるで最初から何一つ異常などなかったかのような消え方で、そのこと自体がどうしようもなく異常だった。

 恐怖のあまり呼吸が止まっていたのだろうか。視界が急に広がったような感覚を覚える。同時に、ペタリと腰が抜けてベランダに座り込んだ。全身からどっと冷たい汗が流れる。

 完全に理解した。この家賃の低さは、あれのせいだ。


「あ、その様子だと見たようですね。今日はこちらでしたか」

 部屋に入ってきた不動産屋が声をかけてくる。私は震える声で抗議するように言った。

「や、やっぱり誰か死んでるじゃないですか、この部屋!!」

 しかしスーツの男はそれに対し困ったようにぽりぽりと頬をかくと、答える。

「いやあ、それなんですがご説明した通り誰も死んでいないんですよね」

 そして、ぼそりと付け加えた。


「……


 その言葉に、疑問を覚える。それは相手にも伝わったようで、「見てもらったところで改めてご説明しますよ。立てますか?」と手を差し伸べてきた。私はその手を取り、よろよろと立ち上がる。聞きたかった。納得の行く説明を。



「あの幽霊なんですけどね、どうやら死んでないらしいんです」

 説明はそんな言葉から始まった。

 死んでない……というと。

「生霊ってやつですか? 生きている人の恨みとかが幽霊みたいに現れる、っていう……」

「おやお詳しい。もしやオカルトに興味とか?」

「源氏物語にも出てくるじゃないですか。六条御息所」

「博識でいらっしゃる」

 茶化すような物言いに批難する眼差しを向けると、男は咳をして誤魔化した。

「そう考えるのも当然でしょうが、違います。あれは、……らしいです」

 ……? どういう意味なのか、いまいち呑み込めない。

 私の怪訝そうな表情を見た担当者の男はそうでしょうねとでも言うように頷き、「最初から説明しますね」と話し始めた。


「あれが出始めたのは、この建物が完成してすぐ――大体ひと月も経たないうちに――でしたかね。当然過去に人が死んでいるわけもありません。一応言っておきますと、施工中に誰か死んだということもありませんよ」

「じゃあ……前に立ってた建物とか……」

「それもあり得ません」

 ふるふると不動産屋は頭を振る。

「この建物が建つまでは、この土地は畑として利用されていましてね。何かが建っていたことは一度としてありません。調べれば分かることですが」

「その畑で誰か死んだ、とか……」

「そういった事実も確認できませんでした。そもそも、畑で死んだ人が幽霊になるものですかね? 分かりませんけど」

 確かに、殺されたとかならともかく畑で急死して幽霊になるというのは少しイメージに合わないような気もした。


「まあそういうわけでして。とにかく幽霊が出る謂れがあるようなところじゃないんですよ、どう調べても。そういう理由でもあればまだ良かったんですが」

 とはいえ放っていくわけにもいきません、と男は話を続ける。

「何とか除霊が出来ないものかと、業界の伝手を辿って神職さん、お坊さん、果ては霊能力者という方にまで来てもらいました。居るんですね、霊能力者って。それで、お祓いとかしてもらって」

「どうだったんですか?」

「さっきご覧いただいた通りです」

 つまりは、失敗したらしい。

「で、その人たちが口を揃えて言うには『この霊はまだ死んでないから祓えない』ということでした。全然繋がりがない人同士が全くおんなじ内容をおっしゃってましたからね。まあ真実と認めるしかないでしょう」

「さっきも聞いたんですけど、まだ死んでないというのは……?」

「予知、みたいなものらしいですよ」

 予知。私はまた怪訝な顔を浮かべる。不動産屋はもう慣れたという風に説明を続ける。

「要するに、未来から来た幽霊――とでも言うんですかね。この部屋で。そういう因果? があるらしく、死ぬ前から幽霊だけが出ているとか、なんとか。なんでそんなことになっているのかは分かりませんが」

 男の説明は突飛で、なかなか私の中に染み入っては来なかった。よくよく咀嚼してみても飲み込めない。

「つまり此処は心理的瑕疵物件――とでも言うべき部屋だと」

「そういうことになりますね」

 私は考える。反芻する。そして飲み込んで――顔が一気に青ざめた。


「つまり、ここに住んだらってことですか!?」


 不動産屋は苦々しい顔で頷いた。

「何で、どうして!?」

「そんなの分かりませんよ。まだ事件なのか事故なのか知りませんが、とにかく『それ』は起きていないんですから」

「いつ!?」

「それも、不明です。一か月後かもしれないし、五年後かもしれない。この建物がいつまであるのかは分かりませんが――もしかしたら二十年三十年先ということも」

 ちなみに、と男は付け加える。

「誰が、も分かりませんよ。因果はまだ定まっていないとのことで。さっき見た幽霊、特徴が何も判別できなかったでしょう? あれはまだ、誰でもない幽霊なんです」


 ただし、誰かがここで酷い死に方をすることだけは決まっている――。


 それが、安い家賃の理由です。不動産屋はそう告げた。

「私たちも流石に死のリスクがある部屋を提供するのは心苦しいですからね。とはいえ条件だけ見れば良物件。遊ばせておくわけにもいかず、こうして破格の家賃で提供させていただいているわけです」

「ふざけないでください、こんな物件――」

「別に住まなくてもいいですよ」

 スーツの男はすっかり居直った態度で言う。

「おすすめはしません。物件なんていくらでもありますから。ただ、ここほどの好条件はほぼ……いえ、確実にないでしょうけども。幽霊にさえ目をつぶれば良い物件なんですよ、本当に」

 実際、ここにも入居者がいなかったわけじゃないんですよと彼は言う。大抵は短期間で出ていくそうだが、中には二年間住んだ強者も居たそうだ。特に大したケガや病気もせず、もちろん死ぬこともなくその人物は転居していった。今でも別のアパートで問題なく暮らしているらしい。その他の入居者たちも、概ね同様に。

 これは引き金を引くたびに賞金の貰えるロシアンルーレットのようなものなのです。当たりさえしなければ、得しかない。ただし確実に当たるであろう誰かは全てを失う――そういう話なのだと。

 そう告げて不動産屋は説明を終えた。そして改めて私の目を見て、問いかける。



「――で、どうします? お気に召さないのであれば、喜んで他の物件もご紹介させていただきますが」



***


 ……結局、私はその物件に住むことにした。死のリスクと破格の好条件を天秤にかけ、後者を選んだ。不動産屋が説明した通り、死にさえしなければいいのだ。それさえ避けられれば、得しかない。

 幸いあの幽霊はずっと一か所にいるというわけではないらしい。ランダムに部屋の中に表れては、消える。以前の入居者の話では一か月以上出なかったこともあるらしい。

 それなら、と私は我慢することにした。それに家に居るのが嫌ならバイトやサークルで家に居る時間を減らせばいい。お金が貯まれば引っ越しもしやすいし。


 そう、楽観的に考えていた。


 ……当初考えていたほど、幽霊との生活は楽ではなかった。

 確かに四六時中見ることはない。数日間見ない日もある。だがそれは裏を返せば慣れることがないということだ。

 気の緩んだ隙を狙うかのように、あの幽霊は現れた。

 お風呂の最中に。バラエティ番組を見ている時に。友達との通話中に。夕飯時に。レポートの最中に。今にも寝ようとする寸前に。

 そのたびに私は恐怖で心臓を縮ませる。あの独特の雰囲気。禍々しい死と悲劇を纏った体。顔なしのそいつが現れるたび、私は否応なく『死』を実感させられる。いつか、必ず、避けようもなく。私にも確実に訪れる、『死』。しかもそれは、眼前に現れる世にも悍ましい形かもしれない。それを突き付けられる生活は、私の精神に荒いやすりをかけ続けた。


 いくら防犯を強化しても、恐れは消えない。いくら危険を排除しても、怖れは消えない。

 一人で家に居るのが怖くて、私は部屋でパーティーを開くようになった。ご飯を作ってあげると言って、友達を毎日のように招いた。そのためだけに、たくさん友達を作った。社交的だねと称されるたび、寝不足の目元を隠して笑った気がする。料理の材料費は基本私持ちで、そんなことをしていたら当然出ていくための金が貯まるわけもなかった。

 恋人も作った。男女問わず。別れたらすぐに次の恋人を作り、半ば同棲みたいに部屋に連れ込んだ。とにかく家に一人は嫌だった。友達でも恋人でも、あるいは宅配の人や電気点検の人でも。とにかく誰かを部屋にいれておきたかった。

 それでも奴は現れる。意識の隙間を縫うように。肋骨の間隙から心臓を刺すように。

 出くわすたびに、その誰とも分からない顔がだんだん自分に似てきているような気がして。

 だんだん、自分が死に近づいてきている気がして。

 だんだん、眠れなくなって。

 だんだん。だんだん。だんだん。だんだん。

 だんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだん……。





 私は、限界になった。





 そして私はその日、女を部屋に招いた。

 友達だったか、彼女だったか。元カノのような、行きずりの他人のような。

 長い黒髪の女だ。白い肌の女だ。


 彼女が何か言おうと口を開いた時にその心臓に包丁を突き立てた。

 何が起きたのか理解出来ていないその目を切り裂いた。

 悲鳴を上げようとするその喉を横一文字に掻っ捌いた。

 刺す、斬る、殴る、蹴る、刺す、斬る、殴る、蹴る、刺す、斬る、刺す、斬る、刺す、刺す、刺す、刺す、刺す、刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す。


 そうして呼吸と身動きが完全になくなって。体温が失われ冷たくなって。全身が赤色に染め上がって。

 彼女は息絶えた。

 見るも無残な、いかにも悲劇としか言いようのない肉塊が一つ、出来上がった。


 そして私がゆっくりと顔を上げると。

 いつもこの部屋で見ていた幽霊と、初めて目が合った。


 ああ、ようやく顔が分かった。

 私とは全然違う、顔。


 その日私は幽霊に顔を覗き込まれながら、久しぶりに安らかな気持ちで熟睡した。


(了)

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