中古住宅の内見

沢田和早

中古住宅の内見

「どうぞお入りください」


 不動産屋は錠の鍵を解いて門扉を開けた。敷地の中へ足を踏み入れる。雑草が茂り放題の庭には二階まで伸びている樹木が立っている。月桂樹だ。


「庭の草、ずいぶん伸びているようだが」

「入居が決まりましたら業者に頼んで草刈りをさせますので」


 不動産屋の腰は低い。それはそうだろう。この中古物件はお世辞にもお買い得とは言えない。

 最寄り駅から徒歩二時間。一番近いコンビニは三キロ先。南側には高層マンションがあるので一日中日当たりが悪い。そして築三十年の四LDKの割には無駄に敷地が広いため売値が高い。こんな物件に興味を示すような物好きは私くらいのものだろう。


「屋根と外壁は塗り直してあるんだろうね」

「もちろんです」


 それを聞いて安心した。玄関の鍵を開けてもらい中へ入る。意外なほど小綺麗だ。リフォーム済みの床、壁紙、天井などはまるで新築のような新しさだ。


「間取りの変更などは行っているのかい」

「いえ、リノベーションはしていません。建築当時のままです。前の住人の方は大切に使われていたようで、リフォーム費用は低価格に抑えられました。かなりお買い得な物件だと思いますよ」


 不動産屋の言葉からはなんとしても売りたいという意気込みがにじみ出ている。よほど長期間持て余している物件なのだろう。

 それから二人で内部を見て回った。一階は十六畳相当のLDKと六畳の和室。バス、トイレ。二階は八畳の主寝室と六畳の洋室二間。ありふれた間取りの二階建てだ。


「一人で住むには贅沢過ぎる空間だな」

「いえいえ、今はまだお一人でもいつかは家族ができるでしょう。その時になって慌てて広い物件を探すより、余裕を持って準備しておいたほうがいいに決まっています。備えあれば憂いなしですよ」

「家族か。そんなものを持てる日が来るといいな」

「一戸建てに一人で住んでいるとなれば、それだけで優良物件の婿候補ですよ。結婚相手の親との同居は望まない女性が多いですからね」


 お世辞であることはわかっているが優良物件の婿候補と言われて悪い気はしない。さすが営業職だけあって口がうまい。


「クローゼットの中を見てもいいか」

「もちろんです」


 二階洋室のクローゼットは折れ戸だ。中に入って折れる部分の断面を見た。文字が彫られている。ひらがなで「けいき」と読める。


「折り戸は交換していないんだな」

「何か不具合でもありましたか」

「いたずら書きがある」

「本当ですか!」


 入れ違いにクローゼットの中へ入った不動産屋は折り戸の彫り文字を見て悲鳴を上げた。


「ああ、なんてこった。こんな所にこんなものが!」


 穴があったら入りたいと言わんばかりの表情で出てきた不動産屋は深々と頭を下げた。


「申し訳ありません。完全に見逃していました。それでどうなされますか。折り戸を交換してもいいのですが、さすがにこればかりは当社の負担というわけにはいきませんので、お客様に代金を支払っていただくことになりますが」

「交換の必要はない。このままで構わない。開け閉めには何の支障もないからな」

「そうですか。ありがとうございます。それにしても『けいき』とは何でしょうね。誰かの名前でしょうか。ああ、そう言えばお客様のお名前も確か桂樹けいきでしたよね」

「そうだな」

「これは凄い。もはや偶然では片付けられません。お客様がこの物件を購入することは運命だったのですよ」


 こんな失態が露見してもセールストークに利用してしまうとは。この男、営業職の鏡だな。

 こうして内見は終わった。最後に不動産屋が玄関で別れの挨拶をした。


「それでは明朝八時にお迎えに上がります。水も電気もガスも使えませんので、トイレなどは一キロ先にある公園の公衆トイレを利用してください」

「ああ、わかっている」

「それにしてもあなたは珍しい。夜間の住み心地も確かめたいと申し出るお客様は滅多にいらっしゃいませんからね」

「夜の騒音、窓から入る外部の照明など昼間にはわからないことも多いからな。無理を聞いてくれて感謝している」

「いえいえ、一晩の無理で物件をお買い上げいただけるならお安いものです。ではまた明朝」


 不動産屋は帰って行った。だたっ広いリビングの真ん中には私の荷物である寝袋、ランタン、水と食料が置いてある。今日はここで一夜を明かす予定だ。


「ただいま。ようやく帰って来たよ」


 懐かしい光景だった。何もかもあの日のままだ。

 初めてこの部屋に入ったのは私が五歳の時だった。小さな町工場を経営する父と優しい母。親子三人でようやく手に入れた新築の家に引っ越してきたのは今から三十年前のことだ。

 幸福だった。このリビングで毎日テレビを見て、あそこに置いてあったテーブルで毎日食事をして、二階の自分の部屋で毎日眠った。そんな日々がずっと続くと思っていた。


「不渡りを出してしまった」


 だがバブル崩壊の余波をモロに受け、父の町工場は倒産してしまった。家は人手に渡り、私たちは狭いアパートに移り住んだ。

 引っ越して一年後、心労がたたって父は病死した。そして私が高校を卒業し企業への就職が決まると、自分の役目は終わったと言わんばかりに母も病死した。


「あの家で親子三人が暮らしていたあの頃に戻りたいね」


 それが母の最期の言葉だった。あの家を取り戻しておくれ、そう頼まれているような気がした。

 それから私は必死で働いた。あの家にもう一度住みたい。失ってしまった懐かしい幸福を取り戻したい。その一心で今日まで働き続けてきた。


「売りに出ている!」


 人手に渡った家はすぐ買い手がついて新しい家族が住み始めていた。就職した私は毎日不動産情報をチェックした。そして先日、ようやくあの家が売りに出されたのだ。二階のクローゼットの扉にあった「けいき」の文字、あれは私が彫ったものだ。


「そうだ、忘れていた」


 私は庭に出て月桂樹の根元に立った。この家に入居した時、私の名である桂樹にちなんで記念に植えた木だ。

 折った枝をスコップ代わりにして土を掘る。かなり深く掘ったところで小さな空き缶が出てきた。この家を立ち退く時、思い出を詰めて埋めた缶だ。中には封筒が入っている。


「確か写真を入れたんだっけ」


 リビングに戻って封筒を開けた。この家で撮ったたくさんの写真が中に入っていた。あの頃はこんな未来が待っているとは思ってもいなかった。


「もし、ずっとこの家に住み続けていたら今はどうなっていたのだろう」


 何もないリビングに幻影が浮かんだ。還暦を迎えた父と母がソファーに座っている。私の妻はキッチンでコーヒーを淹れている。幼い二人の子どもは父と母の膝の上で笑っている。それを眺める私もまた笑っている。リビングに響く六人の笑い声。そんな幸福な未来を迎えることもできたはずなのだ。


「だが、それはもはや叶わない夢だ。ゴホゴホ」


 幻影が消えた何もないリビングで私は喀血した。父と母はどちらも肺ガンで亡くなった。これまで馬車馬のように働いてきた私もどうやら二人と同じ運命をたどるようだ。この家は私の棺桶。幸福の幻影を抱きながら両親の元へ旅立つことにしよう。


「ああ、懐かしいな。これは最初に撮った写真か」


 封筒の中から一枚の写真を取り出す。セルフタイマーで撮影したのだろう。写っているのは植えたばかりの月桂樹の前に立つ五歳の私と両親の姿。思わず両手で握り締めると、劣化していた写真はボロボロと、まるで叶わなかった私の夢のように、粉々に砕け散ってしまった。














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