【短編】安すぎる家賃のアパートメント

Edy

お題「住宅の内身」

 大都会はきらびやかでも、ここのストリートはとても古い。看板も、消火栓も、立ち並ぶビルも何もかもだ。ビルの一階にある雑貨店なんか、店員の婆さんを含めて何時からあるのか想像もつかない。


 そこにある五階建てアパートメントも同様で、かつては白かった外壁も黒ずんでいる。その一室の窓から顔を出して階下をながめるジョンは、まるで80年代の映画だ、と思った。


 背後から床板をきしませる足音が近づいてきたので、雑踏を見下ろしたまま尋ねる。


「それで、別れた夫に何の用だ? まさかやり直したいって言うつもりじゃないだろうな」

「笑えない冗談はやめて」


 その声はため息が混じっているように聞こえる。こんな時、メアリーならこうしているだろう。腕を組んだまま肩をすぼめているはず。


 振り返ると予想した通りのポーズをしている元妻がいた。彼女は何も変わらない。今も昔と同じ香水をつけているのだろうかと、ジョンは思った。


 そんな取り戻せない過去を振り払うように首を振る。昔より今の話だ。家具どころかカーテンすらないアパートメントに呼び出した理由がわからない。


「そうか、じゃあ早く用件を言え。お前と二人っきりなところを弁護士に見られたら大変だからな」

「なんで、そんなに態度がトゲトゲしいのよ」

「それはお前もだろう」


 ジョンは元妻に人差し指をつきつける。


 メアリーは、心身ともに疲弊しきっていた夫をあっさり捨てた。


 そしてジョンはよく覚えている。弁護士に接触禁止の誓約書をつきつけられたことも。もちろん、渋々サインしたこともだ。


 数年をかけて色々なことに折り合いをつけたばかりだが、自分が平常心を保てるのかを確かめたくて呼び出しに応じた。来るんじゃなかった、とジョンはすでに後悔し始めている。


「わかったぞ。接触禁止を破らせて慰謝料をふんだくるつもりだな。前の金はどうした? とっくに使い切ったか? そうなんだろうな。こんなボロのアパートメントに引っ越さなければならないぐらいだ。その顔は図星なんだろ。しかし、そうはさせない。俺は帰る」


 ジョンは別れた時から溜めこんでいたわだかまりを一気に吐き出す。ほんの少しだけ気が晴れた。そんな彼を元妻は引き止める。


「そんなつもりはないの。ただ……力が借りたくて」

「金ならないぞ」

「たかるつもりはないわ。あなた、って言っていたでしょ」

「昔のことは忘れたよ」


 ジョンは部屋を見回しながら答えた。シミがある床板。ポスターの形が残る日に焼けた壁紙。窓から入る風で部屋の隅に寄せられる埃のかたまりを。


 まだメアリーと夫婦だった頃、ジョンは業績悪化を理由に解雇された。なかなか再就職ができず蓄えが減っていく。それはとてつもないストレスで、精神を蝕んでいった。


 そして疲弊しきったジョンに更なる追い打ちがかかる。他の人に見えないものが見えるようになったのだ。いわゆる、幽霊をだ。


 ジョンはあちこちの精神科をたらい回しにされ、あと一歩のところで入院させられる寸前まで追い詰められた。


 よく普通の生活に戻れたものだと、ジョンはこの数年を思い返して口端を歪める。


 メアリーは、そんな元夫に心配そうな目を向けた。


「今も見える?」

「見えない。残念だったな」

「そんなことはないわ。本当よ。治って良かった。でも、今も見えていたら助かったのも本当」

「正直だな、話せよ。力にはなれないけどな」


 メアリーは怯えた目で室内を見回し、言った。


「この部屋、何かいる気がしない? ここにいると、なんだか落ち着かなくて」

「わからん。嫌なら別のところにすればいいだろう」

「そうしたいけどお金がないの。それに、ここだと安いのよ。他の半分以下」

「そりゃすごい。俺が住みたいぐらいだ。しかし俺には何もわからん。そんな得体の知れないものより、もっと現実的な心配をした方が良くないか」


 メアリーは眉をひそめて噛みついてくる。


「私の妄想だって言うの?」

「お前だって俺に散々言っただろう。ジョン、気をしっかり持って。ジョン、薬を増やしたら。ってな。まあいい。どうしても気になるなら聞いてみたらいい」

「聞くって誰に?」


 ジョンは窓から雑貨店を指差す。そこには店先で客と笑い合っている老婦人がいた。彼女は店の名前が書かれたエプロンをしている。店とエプロンの古さからすると、このストリートの生き字引きみたいな人だろう。


「あそこの婆さんなんかどうだ」

「そうね」


 メアリーも顔を出し、風に舞う髪を押さえた。


 距離が狭まったせいで、元妻のつけている香水がわかる。昔と同じ香りだ、とジョンは幸せだった過去を思い出す。そして時間は戻せないと妄想を振り払う。


「鉄は熱いうちに打てだ。今から行ってこい」

「そうするわ。ジョンもついて来てくれる? 冷静なあなたは……やっぱり頼りになるし」

「いや。俺はここにいる。最近、足の調子が悪いんだ。何度も階段を登り降りしたくない」


 膝を擦る元夫を見て、ふふっ、とメアリーは笑う。よろしく、と言い残して部屋を出ていった。


 建付けの悪いドアがきしみながら閉まり、階段を下る足音が遠ざかっていく。


 しばらくの間、ジョンは窓枠にもたれていた。足が悪いというのは、ひとりになるためのでまかせでしかない。


 何のためか。ジョンはメアリーの助けになろうとしている。


 最初は呼び出されて腹を立てていた。しかし、自分の中にある未練に気づいてしまった。いるのに避けられるのを怖れて嘘をついたのも未練なんだろう。


 それを思い出させたのは、あの香水のせい。幸せだった頃を思い出してしまった。


 そして大きなため息を吐き、ジョンは向き合う。部屋にいる、もうひとりの男に。


「おい。さっきからうるさいんだよ。いちいち余計な口を挟みやがって」


 ジョンがにらみつけているのはポスターの跡が残る壁。そこには誰もいないが、ジョンにははっきり見えていた。


 背の高いドレッドヘアの男がヘラヘラ笑っている。


「他人の家で痴話げんかしてたら口出ししたくなるだろ。別れた女房に呼び出されて、ほいほい尻尾を振って来たのか? まったく情けない男だな」


 男は笑いながら部屋中を歩きまわり、ジョンの前に立つ。笑みは消え、凄みのある目をしていた。


「面白い見世物だったが、そろそろ出ていってくれないか? ここは俺の家だ」

「お前の家? いいや、違う。今は誰の家でもないし、これからは彼女の家……になるかもしれない。なんにせよ、もう、お前がいていい場所じゃないんだ」

「おいおい、別れた女房の目は確からしい。旦那の頭はどうかしてる。自分で言ってる意味がわかってるか?」

「わかってないのは、どっちだ。お前、とっくに死んでるんだぞ。ほら」


 ジョンは男に向かって手を突き出す。その手はいとも簡単に胸を突き抜けた。


「おい! どういう事だ! 俺が死んでる? 悪い冗談はやめろ!」

「いいや、これはシリアスだ。よく思いだせ。どうやって死んだ? 最後の瞬間、何を思った? それをどうにかしないと、お前を永遠にこのままだ」


 未練があるから幽霊になる。ジョンは今まで見てきた幽霊から、それを学んでいた。誰からも干渉されず、誰とも関われない。完全な自由だ。実に魅力的だが、こうはなりたくないとジョンは思った。ひとりで自由な時間を永遠に過ごすより、人生の伴侶と老いていきたい。


 ジョンは男に尋ねる。


「お前、名は?」

「トーマス。トーマス・ホワイト」


 人が変わったようにしおらしくなった男に、ジョンは諭すように話す。


「よし、いいか、トム。気の毒だが、お前は死んでいて、ここはもうお前の部屋じゃない」

「そんなことが許されていいはずがない。俺のものはどこだ? スマホは? 彼女に電話させてくれ。きっと悪い夢だと言ってくれる」


 ジョンはそれを聞いて思った。トムにも生きてきた時間があるのだと。


「なら、電話番号を教えてくれ。俺が代わりに話してやる」

「……何も思い出せない。そもそも、俺は、いつ、どうやって死んだんだ?」


 ジョンは、頭を抱えて膝をつくトムを慰めてやりたかったが触れられない。代わりに隣に屈む。


「まずは思い出すことからだな。まあ、安心しろ。お前のようなやつの相談に乗ってくれるやつを知っている。会ってみないか?」

「そんなやつがいるのか?」


 幽霊が見えるのはジョンだけではない。見えていても無視する人がほとんどだが、中には対話を好む変人もいる。ジョンを診ていた精神科医だ。彼が言うには、生きていようが死んでいようが人間には変わりないらしい。


「ああ。幽霊との対話は平和的だから好きなんだと」


 ジョンは心の中で付け加える。本当は、良い人間は死んだ人間だけだ、と言っていたと。


 彼が言うように、生きている人間はトラブルを暴力で解決しようとするが、体がない幽霊は話し合うしかない。


 それを学べたから、ジョンは落ち着いて幽霊と向き合えるようになれた。


 トムは疑っているように見えたが、お前を騙しても得なんてない、と言うと渋々うなずいた。


「わかったよ。だけど、もし、はめようとしてるなら、あの女がどうなるかわかってるな」

「そうか」


 ジョンは肩をすくめ、踏み出す。そして部屋の隅にトムを追いつめた。


「いいか。メアリーに手を出したら、俺がもう一度、殺してやる」


 鬼気迫る様子のジョンをトムは恐れた。生きている人間が幽霊に手を出せないとわかっていてもだ。それほどジョンの言葉には真実味があった。


「悪かった。でも、わかってくれ。こんなことになっちまって、俺も不安なんだ」

「だろうな。しかしお前が不安なように、メアリーもそうだ。なあ、トム。お前は悪人か?」

「どうかな。家賃が払えなくて待ってもらったことはある」


 トムは罪の告白をするが、些細すぎる悪事だ。きっと根は良いやつなんだろう、とジョンは思った。

 

「それぐらい誰でもやるさ。お前は真っ当に生きた。胸を張っていい。そんなやつが人様に迷惑かけていいのか?」


 トムは部屋を見回す。ここにはもう何もない。しかしトムには在りし日の光景が見えているような悲しみのある顔になる。同時に穏やかでもあった。


「……そう、だな。俺は行くよ。さっき言っていた相談に乗ってくれるやつのところへは案内してくれるんだろ?」

「ああ。すぐに連れて行ってやる。……悪いが、表で待っていてくれないか? メアリーが戻ってくるまででいい」

「わかった」


 トムは頷きドアへ向かう。それと同時にメアリーが帰ってきた。


 彼女とすれ違いざまにトムは振り返る。


「うまくやれよ」


 ニヤリと笑い、そう言い残してトムは行った。


 おせっかいめ。ジョンの思いは声に出ており、メアリーは首を傾げる。

 

「何か言った?」

「何でもない。それより、どうだった?」


 雑貨屋の婆さんから何が聞けたか尋ねると、メアリーは首を振る。


「だめ。このアパートメントを警察が封鎖したことはあったらしいけど、この辺りじゃ珍しくないから詳しく知らないって。治安、良くないみたいね」

「そうか。それで、どうする? 住むのか?」


 ジョンの問いに、メアリーは頷く。


「ええ。選べるほど余裕ないから。ジョン、今さらこんなことを言えた義理じゃないけど、また困ったことがあったら相談にのってくれる? もちろん、あなたに助けが必要な時は私に任せて。……今度は逃げないわ」


 ジョンは気づいた。あのつらかった時期、疲弊していたのは自分だけではなかったのだと。彼女も悩みに悩んで別れる決断をしたのではないか、と。


 そう思うとメアリーの言葉に頷きたくなるが、ジョンは首を振る。


「大丈夫。お前は俺の助けがなくても、ちゃんと生きていける。元夫が保証してやる」

「あなたは大丈夫?」

「おいおい、まだ頭がおかしいとでも言うつもりか?」


 ジョンはおどけて見せ、メアリーは笑う。


「ふふっ。大丈夫よ。元妻が保証するわ」


 そして、今度は二人で笑った。ジョンもメアリーも昔に戻ったような穏やかな顔をしている。


 しかし昔のままではいられない。


 共に歩んでいた二人の道は違え、ひと時だけ交じり、また離れる。


 ジョンはそれでいいと思った。


「良い人生を」


 メアリーも微笑みで返す。


「ええ。あなたも」


 ジョンは背を向ける。床板をきしませながらゆっくり歩み、そのまま部屋を出た。


 ギィ、バタン。


 渋い音をたててドアが閉まる。


 再会した元夫婦は、それぞれの道を再び歩み始めた。

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