第7話 やるからには

 自宅アパートに戻った藤次郎は部屋の隅に畳んである布団を枕に寝そべった。


 築四十年の木造アパート、六畳一間が藤次郎の住まいだ。

 畳は新品に取り替えられていたが、天井板と漆喰の壁は年季が入っており、繁華に発展した六本木から帰ってくるとまるで昭和にタイムスリップした気持ちになる。

 部屋の真ん中には文机と食卓を兼ねたローテーブルが鎮座し、その上には大学のテキストが無造作に積まれている。部屋の隅にはカラーボックスが座敷童のように座り、昨年使ったテキストと公務員試験の対策本が整然と並べられていた。

 ベランダがないので壁に洗濯ロープを張って衣服を乾かしているので湿っぽい臭いが微かに鼻につく。一方で床に脱ぎ散らかされた服などはなく、洗濯済みのものは綺麗に畳まれてプラスチックの衣装ケースに納められている。

 大学生が一人暮らしする部屋にしては片付いている。藤次郎の几帳面さが窺えるが、そもそも物が少ないことも部屋が綺麗な理由であった。


 さて、部屋に入るなり床に寝転がった藤次郎は深く目を瞑って考え込んでいた。


(困ったことになった……)


 世の中うまい話ばかりじゃないとはいうが、まさか高給のバイト先がベンチャー企業だとは思いもしなかった。普通、『設立間もないIT起業』というフレーズから想像はかたくないが、察せられなかったのは彼の世間知らずさが災いしたと言えよう。


 ともかく、普段なら絶対避けるはずのベンチャー企業で働くことになりそうだ。笹川のペースに呑まれて断り切れず、月曜日にまた六本木に行く羽目になった。


 藤次郎は現実から逃れるように本棚から公務員試験対策本を取り出してページを開いた。

 彼の目標は公務員になること。最近は大学の試験勉強で休んでいたが、本来は少しの隙間時間でも公務員試験の勉強に費やすほど熱心である。笹川は自分にスタートアップの働き方を経験させたいという篤志家じみた思惑も抱いているが、お門違いなのだ。


 懸念はそれだけじゃない。


「はぁ……無理だろ。学生にベンチャーの仕事とか……」


 ベンチャーという響きも嫌だが、仕事の内容を想像するだけでもどっと疲れが出てしまう。


 笹川曰く、ホライゾンは先進的事業を行う少数精鋭企業だそうだ。一介の学生が通じるとは思えない。


 加えて成長途上の会社が人手不足でインターンに頼る状況も妙だ。普通、社会で経験を積んだスペシャリストを青田買いするものだろう。


「変な会社だ。断ろうかな」


 藤次郎は断りを入れるか葛藤した。面倒な仕事は避けたいが、断れば振り出しに戻ってしまう。金銭的な不安に取り憑かれるのはやはり嫌だ。


 逡巡していたその時だ。スマホに着信が入った。画面には蘆名楓と表示されていた。藤次郎はインターンのことを一旦後回しにして電話に出た。


「もしもし、伊達です」


『あ、伊達くん。こんばんは。テストお疲れ様』


 楓の背後からはガヤガヤと騒がしい声が聞こえた。大方、テストが終わったので友達と飲みにでも行ってるのだろう。


『今日、面接だったよね? どうだった?』


「面接は好調だったよ。なんか気に入られたみたいで合格って言われた」


『本当!? 良かったね! さすが伊達くんだよ!』


「いや、それほどでも……」


 楓には謙遜に聞こえるだろうが、即採用の裏にはファイナンス・ホライゾン社の深刻な人手不足という事情がある。やはり素直に喜べない。


『そんなことあるよ。分かる人には分かるんだよ、きっと』


「そう、かな?」


『そうだよ! プログラミングの仕事も、伊達くんならきっとチョチョイのチョイでやり遂げられるって。実習も誰よりも早く課題を提出して、他の人に教えてたくらいだし。だから自信持って、頑張って』


 素直に喜べない……はずだったが、楓に褒められると満更でもない。


「う、うん。それじゃあ、頑張ってみようかな」


『うん、その意気だよ! そのうちインターンの話聞かせてくれると嬉しいな』


「もちろん。お金はその時に必ず返すから」


『そんなに急がなくていいんだよ。本当に、ある時に返してくれれば』


 お金の話になると聞こえてくる声が少し小さくなった。借金の話を持ち出すのは自分でも気が引けたが、言わずにいられなかったのだ。約束を忘れてないと伝えたかったし、自らの戒めでもあった。


「まぁ、後期が始まった頃に返せるよう頑張るよ」


『うん、頑張って。でもあんまりお金のことは気にせず、最初は仕事に慣れることを大事にしてね』


 そんな励ましと気遣いをもらい、楓との通話は終わった。


 楓のエールのおかげで少しは気が楽になった。同時に別のプレッシャーに襲われる。

 自分は金を借りている立場だ。楓は優しく接してくれるが、それに甘えてはいけない。自分のなすべきこととはつまり、必死に働いて、金を稼いで、返済することなのだ。


(仕事を選べる立場じゃないんだよな、俺は……)


 そこまで分かっているのに、胸がつっかえるのには理由があった。


 どうにか覚悟を決めねばと背筋を伸ばした時、またスマホが着信を告げた。今度は母親からだった。


『もしもし、藤次郎。久しぶり。今日で大学おしまいよね?』


「うん、テストの最終日で明日から長い夏休み」


 久しぶりに話した母は元気そうだ。少し訛りのある話し方に張り詰めていた心が緩んでいった。


『夏休みは帰ってくるの?』


「あ……ちょっと無理かな。アルバイト無くなっちゃって旅費が……」


『え、アルバイト無くなった!? お金大丈夫? ちゃんと食べてる!?』


「お、お金の心配はないよ! 先月分の給料が入ってくる予定だし、貯金もあるから」


 貯金があるというのはもちろん方便だ。狼狽する母に貯金さえ尽きたと言えばいらぬ心配をかけてしまう。


『そう。ならいいけど。ごめんね、少しでも仕送りできればいいんだけど……』


「母さんは自分のこと大切にして。俺のことは心配いらないから。それに次のバイトは一応見つかった」


『そうなの? なんのお店?』


「お店じゃなくて会社。IT企業のプログラマー。気乗りしないんだけどさ」


『何か嫌なこと言われたの?』


 湿っぽい息子の声に母は心配を隠せない。楓には強がった藤次郎も母親にはつい本音が出た。


「そこ、ベンチャー企業なんだ」


『ふぅん…………で?』


「いや、『で?』って、ベンチャーだよ!? 社員三人で、製品が出来てないから売上もない。給料は投資家のお金を取り崩して出すとか言ってさ。社長も夢みたいなことばっかり言う胡散臭い人で、なんか親父に似てるんだよ。あぁ……また身体が痒くなってきた……」


 シャツの中に手を突っ込んで胸を掻きながら愚痴をこぼす。他の誰にも言えないし、理解もしてもらえないであろうこの気持ち、母なら分かってくれると信じていた。だが、スピーカーから聞こえてきたのは胸を弾ませるような笑い声だった。


『あんた、まだお父さんのこと気にしてるの? その会社とお父さんは関係ないんだから別にして考えなよ』


 もっともな指摘に図星をつかれて返事が遅れる。

 藤次郎とて自覚はある。

 笹川は今日初めて出会った赤の他人で、自分の過去とは何の関係もないのだと。

 このチャンスに乗り気じゃないのは自分の単なる我が儘なのだと。


『何事も経験よ。社会に出る前に見聞を広めるつもりでやってみなさい。どうしても合わなかったら辞めちゃえばいいのよ』


「うん。やってみるよ。まぁ、夏休みの間だけだし」


 母の声を聞いていると不思議と気持ちが軽くなった。仕事についていけるか依然として不安だが、あらがい難い拒否感は潮が引くように失せていた。


『でもやるからには責任持ってやりなさいね』


「分かってるよ。年末は帰るようにするから、おせち作って待ってて」

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