第6話 企業ミスマッチ
社員数三人。
コワーキングスペース。
そしてスタートアップ。
にわかに理解し難い言葉を聞いて藤次郎の視界がどろんと歪んだ。
何かがおかしい。自分が想像していたのと全く違う展開を受け入れられない。
「さ、三人だけですか? いや、それよりもスタートアップってなんですか?」
バイト以外で大人の社会に接点を持ってこなかった藤次郎には聞いたこともない単語だ。
笹川は怪訝そうに小首を傾げて答えた。
「スタートアップというのは新規サービスを提供する小規模な会社のことだよ。昔だとベンチャーって呼ばれることが多かったかな」
「べ、ベンチャー……」
「そうだとも! 我が社ではスマホアプリでお給料を前借りする斬新なクラウドサービスを展開。FinTechで新たな市場を切り開くことが使命なのであーる!」
勢いよく立ち上がった笹川は
一方の藤次郎だが、頭が真っ白になって固まっていた。
(よりによってベンチャー企業だなんて……)
まさか自分の忌み嫌うベンチャー企業の門を叩いてしまうとは。
藤次郎は唇を噛み締めてため息が溢れるのをどうにか抑え込んだ。
「聞きそびれていたのですが、御社のサービスの売れ行きはどうなのでしょう? 売り上げとか、ユーザー数とか……」
「売り上げなんてないよ」
「はい?」
「ん、言ってなかったかな? うちの主力サービスはローンチ前。まだ開発中さ」
今度こそ言葉を失った。
開発中でローンチ前。つまり製品が世の中に出てないということだ。つまり誰もファイナンス・ホライゾンにお金を払ってないということ。
「そ、それじゃあお給料もらえないってことですか!?」
言わずもがな、従業員の給料は会社の売り上げから出される。当然、源泉の売上がないことにはお給料を払えるはずがない。子供でも分かる理屈だ。
顔を青くして問い詰める藤次郎を笹川は宥めて答えた。
「大丈夫だよ、お金ならある」
「で、でもさっき売上がないって……」
「投資家から出してもらったお金があるんだ。君のお給料はそこから出すよ。ほか二名の社員にもそうやって支払ってる」
「と、トーチカ……?」
「投資家、だよ。そんな頑丈そうな物体じゃない。エンジェル投資家、って聞いたことある?」
ふるふる、とかぶりを振る。
いつから宗教学の講義に切り替わった?
「うちのような創業したばかりの会社には銀行はなかなかお金を貸してくれない。かといって創業者個人の貯蓄だと事業が大きくならない。だから誰かに大金を投資してもらう。エンジェル投資家とはこれから成長するスタートアップに出資してくれる、文字通り
「なんでそんなことするんです? 御社のような……小さな会社に……」
「もちろん、リターンを得るためさ」
「リターン……」
「投資利益のことだよ。エンジェルやVCはベンチャー企業に投資して、企業価値を高めて利益を得る。例えば我が社の株の十パーセントと引き換えに二千万円を投資する。そしてマザーズ(現東証グロース)に一千億円で上場できたとする。一千億円の十パーセントはいくらになる?」
藤次郎は頭の中でそろばんを弾く。そしてその途方もない数字に顔を青ざめさせた。
「ひゃ、百億……」
「正解! 投資家のリターンは百億円だ! 彼らはそうやってリターンを期待して私達に投資する。もちろん、創業者で大株主の私も持分に応じた資産を得る!」
笹川は巨大な青写真を見せびらかし、それが実現することを信じて疑わない。まるで宝の地図を描く少年のように無邪気に、盛大に語ったのだった。
そんな壮大な夢を聞かされた藤次郎は目をまん丸にして固まっていた。だがスケールの大きさに圧倒されたのではない。
投資、利益、億。
免疫系を過剰反応させる物質を大量に投与され、意識を保っているのでやっとだった。
「すみません……失礼します!」
藤次郎は突然立ち上がると社長室を飛び出した。改札のようなゲートを出て、トイレに駆け込む。洗面台に手をついて鏡を見るとひどい脂汗をかいていた。それにやけに身体が痒い。それも皮膚を剥ぎたくなるほどの耐え難い痒みである。
「うげぇ……やっぱり
シャツを捲ると首から鳩尾にかけて赤い斑点がびっしりと浮き上がっていた。
大金の話をされるといつも気分が悪くなる。大学入学前に奨学金や学費の免除制度の説明を受けた時も蕁麻疹が出た。だが今回はそれよりも酷い。笹川からあんな話を聞かされたせいだが、藤次郎に何かしらの義務や責任が負わされるわけでもないのにここまで反応するとは想定外であった。
(くそ……全部、あいつのせいだ……!)
恨みのこもった視線を鏡に向けると頬がげっそりして、土気色の肌になった自分の顔が目に入る。
どうして自分はこれほどお金に追い詰められなければならないのか。お金が嫌いな理由は自覚しているが、お金から執拗な嫌がらせを受ける覚えはない。
その疑問を抱くと全ての発端になった男の顔が浮かぶ。そのビジョンをかき消すように、藤次郎は冷たい水で顔を何度もゴシゴシと洗った。浅く早かった呼吸が多少整い、どうにか人前に出られるくらいに落ち着いた。
トイレを出ると入り口のところで笹川が心配そうな顔をして立っていた。
「伊達くん、大丈夫? ごめんね、長話しちゃって。トイレに行きたいなら気軽に言ってくれてよかったのに」
「すみません……」
藤次郎は否定するでもなく、力無く頭を下げた。
まさか「あなたの話を聞いてアレルギーが出ました」と言えるはずもない。そしてこんな有様だからインターンを受けられるはずはなかった。
「あの、笹川さん。大変良いお話とは思ったのですが、インターンは辞退させてもらえないでしょうか?」
「えぇ、どうしてだい!?」
笹川の反応はもっともであった。先ほどまでやる気を
「いや、その……正直もう少し大きな会社だと思っていたので……」
「ふむ、ベンチャー企業は嫌なのかい? 知名度のある大企業で働いてみたい、と?」
半分があたりで、半分がはずれ。単にベンチャー企業という響きが嫌なのだ。
「そうだそうだ! 話が逸れたけどお給料はきっちり払えるから安心したまえ!」
笹川は逸れてしまった給料の質問を思い出し、慌てて念押しした。せっかく確保した人材を逃すまいとの必死さな様子である。それによって藤次郎の心が不安定に揺らぐ。
そう、藤次郎がここに来たのは高給な仕事にありつくため。ファイナンス・ホライゾンのインターンは失った三つのバイトを補填するまたとないチャンスである。
大金の話はしたくない。しかし衣食住の糧はなんとしても欲しい。難儀な葛藤に苦しめられた。
「ねぇ、伊達くん。もしかして君はスタートアップのことを『不安定でギャンブルじみた会社』と思ってないかい?」
彼の葛藤を見抜いたのか、笹川は優しい口調で問うた。対して藤次郎は無言である。図星だった。
「だとしたらそれは偏見だよ。スタートアップは確かに上手くいかないこともある。いや、十社が創業して一年後に残ってるのは二社とも言われるのが起業の世界だから失敗が普通だ。そんな世界だからこそ、エネルギッシュで何ものにも染まってない君に体験してほしい」
笹川はなおも穏やかな口調で語りかける。まるで外に出るのを躊躇う少年の背中を押す母親のようだった。
「スタートアップとは未開拓の市場を切り開き、新しい方策で社会の問題を解決することをミッションとする。そのためには兎にも角にも元気で柔軟な考えを持った若い人材が必要だ。だが悲しいかな、日本の若者は安定を求めて大企業や公務員へ行こうとする。特に高学歴の優秀とされる若者ほどね。でもね、成熟して発展の余地に乏しい市場に優秀な人材が流れてもこの国は成長しない。私はこの流れを変えたいとも思ってる。だから伊達くんにはウチでスタートアップの働き方を体験してほしいんだ。共に新しい時代を切り拓く、仲間としてね」
「な、仲間、ですか……」
笹川の大きなスケールの話には全くついていけなかった。新しい市場とか、社会問題の解決なんて考えたこともない。自分はただ、言われた通りに仕事をしてお金をもらえればそれで良いのだ。
「まぁ、リスクを背負うのは全て私だ。言われた通りに働く分にはノーリスクだから、あまり重く考えなくて構わないよ」
まるで道で拾った宝物を見つめる少年のような笹川に、ノーとは言えなかった。
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