速すぎる男

lager

速すぎる男

 鄙びた土地に建つボロ屋だった。

 柳の木が一本、春風に枝葉を揺らしている。

 前の住人は年の暮れに流行り病で逝っちまったとかで、持ち物は縁者が引き取ったか誰ぞに持ってかれちまったか、なんにも残っちゃいない。

 柱があって、壁があって、屋根がある。

 それだけの家だ。


 擦り切れた荒い手織りの木綿をまとった老人が、がらりと戸を開け、首を巡らした。


「ここにする」

「速ああああい!!」


 後ろでそれを見ていた私は、ずかずかとその老人に歩み寄り、両肩を掴んだ。


「頼むよ、お父っつぁん。ちぃっとは考えてくれ。どうせまたすぐここが気に入らないとか飽きたとか言い出すんだから」

「うるっせぇぞ、お栄。今日からここが俺の家だ」

「借り家な、借り家」


 一応ちゃんとした持ち主はいる。

 私の父が引っ越す家を探してるなんて話を聞いたそいつが、良けりゃ使ってくれと、まあ親切心と下心の半々で申し出てくれたわけだ。

 申し出はありがたい。よりにもよって仕事を請けた後になって父の悪い癖が出ちまって、急いで腰を落ち着ける先を探さなきゃならなくなったのだ。


 そりゃ早いとこ決まるに越したことはないさ。けどよ、もうこのやり取りも何度目になるか分かったもんじゃないんだ。そろそろ終の棲家ってやつを見つけてくれてもいいと思うのは、私の方が我儘なのか?


「よく見ろ、お栄。ここは最高だ。ほれ」

「あん?」


 父が指差した場所は、ただなんの変哲もない板壁だ。

 首を傾げる私に、父は皺に塗れた顔をくしゃりと綻ばせて言った。


「お釈迦様だよ、ほれ」

「んん?」


 木目の模様の話をしているのか?

 蹴れば割れちまいそうな壁の隅っこの方。まあ、見ようと思えば、片手を挙げた仏様に見えないこともないが……。


「こいつは筆が捗るぜ」

「そうかい」


 ふん。今更この人の頭ん中を私が理解しようったって土台無理な話だ。

 本人がそれで筆が乗るってぇんなら、それでいいさ。

 取りあえず、私は風呂敷包みを解いて父の仕事道具を取り出した。

 ひび割れた皿。欠けた硯。水の溜まった竹筒。幾枚もの紙。そして――。


「おう」


 父が、懐から筆を取り出す。

 これだけは、どこに行くにも肌身に離さない。

 どっかりと胡坐をかく。

 袖をまくる。

 その瞬間、父は変わる。


 自分の衣食にさえ無頓着な無精爺から、稀代の天才絵師へと。


 空気が張り詰め、澄んでいく。

 広げられた真っ白な紙に、墨をたっぷりと含ませた筆が乗る。


 一筆。

 宇宙が始まる。

 なだらかな曲線。

 張り巡らされる輪郭。

 雄弁な空白。

 筆を変え、鮮やかな緑。

 碧。

 群青。

 鼓動が聞こえだす。

 立ち上がり。

 影が滲む。

 花が咲く。

 命が輝きを放つ。



 ……はっ。

 いけねえ、いけねえ。

 見蕩れちまってる場合じゃねえんだ。

 私にだってやることがある。

 差し当って、置き去りにしておいた荷物をここまで運んでこにゃあ。


 どうせ今声をかけたって返事なんてあるはずがない。

 私はいそいそと、今しがた来たばかりの道を引き返した。


 


 そして、日暮れ前。

 お弟子さんの一人に無理を言って荷運びを手伝わせ、新居に帰り着いた私に、父は得意満面の笑みを浮かべて肉筆画を見せた。


「できたぞ」

「……はやぁい」


 嘘だろ。たった半日でこれを?

 蛙に撫子、桜、鷹、鯉、その他もろもろ、色鮮やかな浮世絵が床に並べられていた。

 相変わらず仕事の速え人だよ。

 よくこの人の絵を指して、まるで本物から写し取ったよう、だなんて言われることもあるが、私に言わせりゃあ、まだまだ言葉が足りない。

 これは、一つの命なのだ。

 父の魂が、手と、指と、筆を伝って紙に流し込まれ、新たな命を生み出している。

 本物みたい、じゃあない。


 その御業をなした老人は、まるで鼻たれ坊主のような屈託のない笑みを浮かべて、「お栄。飯はなんだ」と宣った。


 私は苦笑しながら、蒸かした芋を半分にして差し出した。


「これだけか」

「我慢してくんな。まあ、明日こいつを売りに行ったら、久々に鰻でも食おうや」

「おう。そりゃいいな」

「そうだ、画号はなんにする」

「うん?」

「『卍』はもういいんだろ? 『画狂老人』なんざ流行んねえぜ」

「そうだなぁ。もう一生分の富士は描いちまったよ」

「もうちょいマシなのにしろよな」

「『戴斗』はカッコよかっただろうが」

「私は、昔のあれが一番好きだったけどなぁ」

「あれ?」


 そう。この人はしょっちゅう画号も変えて周りを混乱させるのだ。

 まあ、どんな名前で売ろうが、この人の絵だって一発で分かるから、いいっちゃいいんだけどよ。

 けど、私が女だてらに絵の道を志した時、この人が名乗っていた画号が、私にとっては一番思い出深いし、馴染み深い。たまにはあれ、使ってくんねえかな。



「――『葛飾北斎』ってな」




 ◇


 翌日、たんまり儲けた金で鰻の串焼きを頬張りながら、親父殿はこう仰った。


「なあ、お栄よ」

「あん? なんだよ、お父っつぁん」

「あの家、窓の向きが悪いな。明日引っ越すか」

「速ああああい!!!」


 私の叫びは、半里先まで届いていたという。

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