最終章 真実
18時を少し過ぎた頃、俺とリコさんは遅番のSVに仕事の引き継ぎをした。
今から、リコさんの自宅に荷物を運ぶ作業に入る。
ここで俺はうっかりしていたことに気づく。
リコさんが自宅のカギを取りに行くにはロッカーを開ける必要があるが、そうなるとリコさんからサトさんになってしまうのだ。
どうしようかと考えていた俺の前で、リコさんは何やら自分の服のポケットを探っている。
「あった。今日はここに入れてやっぱり正解ね。」
リコさんはポケットからカギを出した。
「仕事が終わってすぐに荷物を出したかったから、昨日のうちにロッカーにメモ書きを貼っておいたの。今日はカギをポケットにいれておくってね!」
おお、なんて奇跡だ。
運は俺に味方をしてくれている。
単純に俺の作戦不足だったのに都合よくそう思った。
俺とリコさんはビルを出る。
ゴロゴロと音を立てながら俺は台車に乗せられた荷物を運ぶ。
駅とは反対の道を歩いて5分ほど、グリーンの壁が目立つ5階建てのマンションが見えてきた。
「ここの302なの。」
リコさんはマンションの外側から3階部分を指さして言った。
このマンションにはエレベーターがない。
「ほら、やっぱり俺に頼んで正解だったじゃないですか。」
俺は台車から荷物を降ろしてそう言った。
「そうね、あんまり重くないから大丈夫だと思ったんだよね。」
たしかにそれほど重量がある荷物ではなかったが、大きいため階段を上って運ぶのは大変だ。
リコさんが先導し、俺は後ろから荷物を運ぶ。台車はマンションの1階部分の隅に置かせてもらった。
302号室でリコさんは歩みを止め、
「はい、到着でーす。」
と言った。
「あ、ここですか、何なら部屋まで運びますよ。ついでだし。」
と俺が言うと、
「じゃあ、ついでにお願いします。」
とリコさんが言った。
扉を開け玄関の電気をつける。
室内はすこし湿った空気が流れており埃っぽい。
「さ、こちらに運んでくださいな。」
リコさんがキッチンの電気を付け、案内してくれる。
「…え?どういうこと?」
リコさんが小さく声をあげる。
キッチンはほこりをかぶり、枯れかけた観葉植物が置いてあった。
小さな円形状のダイニングテーブルには、おそらく2か月前に届いたのであろう、郵便物が置いてある。
そしてシンクには乾燥しきったふきんが掛けられてあった。
リコさんが2か月前のままの自宅を目の当たりにした瞬間だった。
リコさんは何も言わず、部屋の引き戸を開ける。
見ては悪いと思ったが、そこには2か月前に使用していたであろう
サーキュレーターや、
季節外れの服が部屋干してあるのが見えた。
「なんで?どうなってるのよ」
リコさんは訳が分からずにいる。
俺は荷物をキッチンに置いた。
「リコさん。」
俺は戸惑うリコさんに声を掛けた。
「ツジ君、なんだか変なの。私が知らない私の部屋みたいになっているの。」
振り向いたリコさんは震えていた。
「リコさん、少し話をしませんか。」
俺はそう言って、円形状のダイニングテーブルの椅子に座った。
リコさんは動揺していたが、うなずいて同じくダイニングテーブルの椅子に座った。
「リコさん、この部屋に違和感があるんですか?」
俺がゆっくり尋ねる。
「そう、そうなの。いつの日からか時間が止まっているような感じ。」
リコさんはあたりを見渡しながら言う。
「リコさん、この部屋は2か月前から今日まで、時間が止まってしまったんです。」
「2か月前?」
驚くリコさんに俺はゆっくり聞いてみた。
「2か月前、何があったのか覚えていますか?良ければ俺に話をしてみてください。
そうすれば、この部屋が2か月間、なぜ時間が止まってしまったのかがわかるかもしれません。」
この状況がわからず、息の上がっていたリコさんだったが、座ったことで少し落ち着きを見せてきた。
「2か月前…。そう、2か月前ね…。」
―リコの場合(2か月前)
正社員になり1か月が過ぎようとしていた。
就職先が見つからず、実家にも帰らないと告げた父親に、私は勘当だと言われたままだった。さすがにこの状態が続くのは良くないと思っていた。
正社員にもなったことだし、ちゃんと両親には報告すべきだと私は考えた。
そこで何年かぶりに実家へ帰ることにした。
実家は新幹線に乗り、そこから在来線やバスを利用して片道3時間はかかる。
帰れない距離というわけでもないが、父親の「勘当」という言葉のショックで、何時にも増して足が遠のいていたのは事実だった。
一応5日程実家に滞在できる用意をし、職場には土日をはさんで有給を申請した。
スーツケースを引き、駅でお土産を購入し実家へ向かった。
実家に帰るのは何年振りだろうか。
大学時代もそんなに帰ってはいなかった。
約2時間後、新幹線を降り在来線のホームへ向かう。
ここから約30分、電車に揺られ風景を見る。
なにも変わっていない。
相変わらず、ビルみたいな高い建物なんてない、住宅街と田畑が交互に現れる風景だ。
最寄り駅で降り、バスに乗車する。
高校時代によく行ったお店は今も健在のようだ。
ここだけ時間が止まっていたかのような錯覚を覚える。
バスを降り、そこから少し坂道を登れば、生まれ育った実家が見えてくる。
玄関の引き戸の前で深呼吸をする。
この時間なら、両親も家に帰っているころなので、余計に緊張するのだった。
ガラガラガラ。
少し控えめに玄関の引き戸が擦れる音がする。
それを聞きつけて祖母が居間から顔をのぞかせた。
「里子!里子じゃない!」
祖母は私の顔を見るなり、パッと笑顔になり玄関まで小走りで迎えに来てくれた。
「あんた、元気にしてたの?祖母ちゃん心配してたのよ!」
祖母は少し涙ぐんでいた。
「ごめんなさい、連絡もしなくて。」
そう言って私は祖母の両手を握った。
奥のキッチンから母も出てきた。
「里子?あんた、どうしたの!」
母も驚いた顔で玄関までやってきた。
「とにかく、入りなさい。」
祖母が急かすものだから、あわてて靴を脱いで居間へ向かった。
居間のソファに座る。
対面に祖母と母も座った。
「本当にごめんなさい。長い間連絡もとらないで。あの、お父さんは?」
と私から話始めた。
「お父さんはまだ帰ってきてないの。でもあなたよく帰ってこられたわね。お父さん今も変わらずなのよ。うちにはもう娘はおらん!って言っているの。」
そうか、やはり父は変わらないのだ。
「私が今働いている職場ね、最初はバイトで入ったんだけど、1か月前に正社員にしてくれたの。遅くなっちゃたんだけど、そのことを伝えたくて。」
「そうなのね…。まあ、一安心ってところかしら。で、そのままそこで働いてこっちにはもう帰ってくる気はないの?」
母は早口で聞いてくる。
「今のところはないな。せっかく正社員として働き始めたところだし。もう少し社会人経験を積みたいと思っている。」
私のその言葉に、母はため息をついた。
「そう、それでお父さんが許してくれるかしらねえ。」
相変わらず、母は父には逆らえないようだ。
私が幼いころからそうだった。
父の顔色を伺い、自分の意見を言えない人だった。
「許すも何も、正社員で働いているって、いい知らせを持って帰ってきてくれたのに、なぜそういうことになるんだい?」
祖母は母にそう言ってくれた。
「お義母さんはあの人の強情さをわかっていないんですよ!」
母は言葉強めにそう言った。
どうやら私が帰ってきたことで、父の機嫌が悪くなることを危惧しているようだ。
程なくして父が帰ってきた。
玄関にあった私の靴を見たからか、父の廊下を歩く足音が大きい。
「なんだ、今頃。」
居間に現れた父の、開口一番に発せられた言葉だった。
「お父さん、ごめんなさい。今までわがままばかり言って。」
私はソファから立ち上がりそう言って頭を下げる。
「あのね、里子は今正社員として働いているんだって。立派に働いているんだよ、良かったじゃないか。」
祖母が優しくそう言ってくれる。
「遅いんだよ、それじゃ。今頃のこのこ帰ってきてなにが正社員になった、だ。」
父はそう言うと、ネクタイを外しソファの背もたれに掛けた。
「私がお前をどれだけ世間に恥ずかしくないように育ててきたかわかるのか?いい大学へ行かせたのに就職先も見つからず、実家にも戻らず、お前は大学を卒業して3年間もぶらついていたわけだ。で今更正社員だと?こんなに立派に育ててやったのに親不孝もいいところだ!」
「お父さん、そこまで言わなくても…」
珍しく母が私を庇ってくれようとした。
「私には娘はいないと思っている。それはこれからも変わらない。」
父の言葉に、私は怒りと悲しみで震えが起きていた。
「わかった。もう来ません。」
私はそう言って、引き留めようとする祖母の手を振り払って実家を後にした。
こんな時も母は、機嫌を損ねた父の相手をしていた。
もう、うんざりだ…。
わずか20分ほどの滞在だった。
私は途方に暮れ自宅へ戻ることにした。
そこから…私はどうしたのだろう。
自宅へ戻るために新幹線に乗り…。
そうだ、もう何もかもなかったことにしたくて、スマホに登録してあった両親の連絡先や友達の連絡先を消去したんだった。
それから?私はどうしたのだろう…。
そこからの記憶がすっぽり抜け落ちている。
いつからいつまでの記憶が抜け落ちているのかさえ、わからないでいた。
―リコとミワ
俺は今、リコさんの自宅にいる。
リコさんから2か月前の実家での出来事を聞いたばかりだ。
ひどい話だと思った。
リコさんには悪いが、そんな親がいるのかと思った。
ピーンポーン。
インターフォンが鳴る。
来てくれたんだ!
俺は玄関に向かい、扉を開ける。
「すみません、お忙しい中お越しいただいて。」
俺が頭を下げると、
「いいのよ、翔ちゃん。それよりサトちゃん、本当にここにいるのね?」
と相手の女性が言う。
ここに呼んだのは”いこい“のミワさんだった。
俺は事前に、これまでのリコさんとサトさんの経緯と、リコさんのマンションの所在をミワさんに伝え、ここまで来てもらうようお願いをしていた。
「こちらです。」
俺はミワさんをキッチンに案内する。
「おじゃまします。あ、サトちゃん!」
ミワさんはダイニングテーブルの椅子に座っていたリコさんを見るなり、声をあげた。
「あ、あの。どちらさまでしょうか…。」
困惑するリコさん。
「…本当だったのね。疑っていたわけではないけれど。」
ミワさんも驚きを隠せない様子だ。
ミワさんにも座ってもらう。
「リコさん、こちらは、居酒屋“いこい”のおかみさんでミワさんという方です。ご存じないですか?」
俺はリコさんに優しく聞いてみる。
「いこい?」
リコさんは少し考えている。
「ここからね、電車で20分ほど行ったY駅の商店街にあるお店なの。」
ミワさんも優しく話してくれている。
「Y駅って、私が大学の時に住んでいたマンションの最寄り駅です。その駅前の商店街ですか?」
リコさんは何か思い出したようだ。
「そうそう、うちは古いお店なんだけどね。」
ミワさんが続けて言うとリコさんの表情がハッとした。
「私、何度かいったことがあるかもしれません。大学の時に友人と…。たしか、ご夫婦と娘さんでお店をされていた記憶があります。」
ミワさんもハッとした表情に変わる。
「そうなの?娘がいた時に来てくれていたの?」
「はい。娘さんがお料理とか運んでくれていて、明るくてご両親とも仲良くて…。そんな感じだったように覚えています。」
ミワさんは目に涙を浮かべていた。
「そう、娘を覚えてくれているのね。」
「はい。家族が仲良くて楽しそうでいいなあ、ってその時思ったので。」
ミワさんは両手で口元を覆い
「ありがとう。」
と涙を流しながら言った。
そしてミワさんは、娘さんが1年前交通事故で亡くなったことも打ち明けてくれた。
ミワさんはリコさんに、2か月前の二人の出会いからのことを、すべて話した。
一緒に住むようになったこと。
母娘のように接してくれたこと。
お店の手伝いもしてくれたこと。
すべてをリコさんに話し、最後に「ありがとう」と言った。
リコさんはミワさんの話を聞き、驚きながらも何かをずっと考えている。
「ミワさん、申し訳ないんですけど、私“いこい”にいる時の事を全然覚えていないんです。」
やっと発したリコさんの言葉だった。
「そうよね、覚えていなくてもいいのよ。今、真実がわかったんだから。」
ミワさんはショックを受けるどころか、本当の娘に話すような優しい口調でそう言った。
リコさんは2か月前の実家での出来事をミワさんにも話した。
「どうして私は“いこい”での生活を望むようになったのでしょうか。」
リコさんはまだ戸惑っている。
今日まで、普通の日常を送っていると思っていたんだし、無理もない。
「きっと、ご両親の厳しさをずっと我慢して育ってきて、大人になった今、やっと自分でこれからの人生を選択して生きていこうとするところだった。それなのにまた、ご実家で厳しい現実を目の当たりにしてしまったから、サトちゃんの理想とする現実に逃避したくなったのかもしれないわね。」
「逃避…そうですね。私はずっと現実から逃げたかった。
我慢してやっと自由になれて、自分で決めた道を進もうとしていたんです。
なのに親に反対されて、私は誰のために生きているのかわからなくなっていたんだと思います。」
そう言って下を向くリコさん。
リコさんの理想とする現実は、かつて“いこい”にあった「家族」なのだろう。
娘を突然失ったミワさん、理想とする家族を求めたリコさん、目に見えない何かが二人をつなぎ合わせたのかもしれない。
「よく頑張ったわね。サトちゃんは本当によく頑張った。だからこれからは、自分の決めた道を歩いていいのよ。」
ミワさんはリコさんの両手を握り、力強く、そして優しく言った。
「両親にも、そう言ってほしかったんです。よく頑張ったねって。もういいよって。」
そう言って、リコさんは泣き崩れた。
―ロッカー問題
俺はリコさんに現実を見せたことを後悔しなかった。
悲しい現実ではあったけど、これで良かったと思う。
ここで次の問題に取り掛からなければならない。
リコさんとサトさんをつなぐロッカーの問題だ。
この問題が解決しなければ、せっかく現実を知っても、またリコさんは“いこい”のサトさんになってしまう。
以前、梶さんにお願いをした、ロッカー室のリコさんへの声掛けで、リコさんとサトさんはロッカーで入れ替わるのだろうということが推測できている。
ではロッカーの何を起点に二人は変わってしまうのか。
未だ、ここが分かっていない。
「リコさん。」
俺は泣き止んだリコさんに声をかけた。
「リコさんにはつらいことをもう一つ聞かなければなりません。」
その言葉にリコさんは
「…うん、だいじょうぶ。」
と言ってくれた。
「リコさんと、“いこい”で生活を送っていたサトさんについて、2人はどこで入れ替わったのかを知る必要があります。」
「そうね、2か月間、毎日サトちゃんは“いこい”に帰ってきてくれたわ。」
ミワさんもそう言う。
「俺ね、もしかしたらロッカー室が関係しているのかもと思っているんです。以前、リコさんはサトさんのことを知っていると言っていました。それもロッカー室で突然出会ったとも言っていました。覚えていますか?」
「ツジ君にそう話したのは覚えてる。私がサトと出会った時のこと…か。」
リコさんはひとつひとつの言葉を思い出しながら話してくれた。
「サトと会ったのは2か月前くらいかな…。退勤してロッカー室で、自分のロッカーを開けたの。そしたら、後ろから誰かに話しか掛けられたような気がして…ハッとして、その時ロッカーの扉についている鏡をみたの。その声をかけてきたのが、…たぶんサトだったと思う。思うっていうか、そう信じていた。」
「鏡、ですか。」
「そう、後ろから声を掛けられて、なぜか振り向きもせず私は鏡をみた。そこでサトと出会って…あれ?、なんでだろう…サトの顔は思い出せない。思い出せないというか知らないのかもしれない。」
「顔はわからないんですね?」
「うん、今思えばわからない。なのに同い年で、話しが合うというか、理解してくれる人だと思った。」
「で、リコさんはロッカーの鏡越しにサトさんと話すようになった、ということでしょうか。」
「わからない、でもロッカー室でしか話していないの。いつも私がロッカーを開けて、そう、鏡をみると…サトの方から話し掛けてきたわ。そして、朝と夕方にサトと話して…それから私はいつも通り自宅に帰っていたと思っていた…。」
「サトさんとは毎日お話しをしたんですか?」
「…いつの日からか、会えなくて話せない日も増えたと思う。けどそれでも私は“いこい”に帰っていたんですよね?」
そういうリコさんにミワさんは大きくうなずく。
俺は続けてリコさんに聞いてみる。
「ご実家に帰る以前に、サトさんと出会われていましたか?」
「多分、サトと最初に出会ったのは、実家に帰る前日だったような気がする。」
「変なことを聞きますが、ロッカーの鏡を見ない日はありますか?」
「見ない日はないかな…。朝も夕方も。」
ここまでの話で、俺はずっと鏡が気になっていた。
これは俺の想像だが、鏡を見ることでリコさんがサトさんに、サトさんがリコさんに切り替われるようになったのではないかと思う。
そして回数を重ねるごとに、たとえ二人が話せなかったとしても、ロッカーの鏡という道具があれば、入れ替われることが日常化していたのかもしれない。
だがここでひとつ問題がでてくる。
リコさんが実家に帰る当日、リコさんは会社のロッカーに来る必要はない、ということだ。
「リコさん、ご実家に帰るときに、会社のロッカーに寄ったということはないですよね。」
「行く必要がないからね。」
「そうですよね…。その部分だけ二人が入れ替わる原因の解明にならない点ではあるのですが…。もしかしたら、リコさんとサトさんはロッカーの鏡をみることで、入れ替わっていたのかも、と思うんです。」
俺がそう言うと、
「うん、私も話をしていて、ロッカーの鏡が原因なのかと思った。」
とリコさんも同じ意見だった。
「リコさん明日は仕事が公休日だと思いますが、ロッカー室へ行ってみませんか?」
「いいけど、行ってどうするの?」
「鏡を取り外してみましょう。もちろん俺は入れないので、ある人にお願いをしておきます。明日、リコさんが家を出るときに、俺の業務用スマホに連絡をしてください。」
今日はもう遅いので、俺はリコさんの自宅を後にした。
ミワさんは今日と明日、店を休んでくれたので、念のため一晩リコさんの家に泊まってくれることになった。
さて、「ある人」に明朝、鏡を外してもらうようお願いしなければならない。
「あ、梶さーん!」
明朝、俺は出勤する梶さんを待っていた。
「あ、ツジさん、おはようございます。」
「おはようございます。すみません、実はお願いがありまして…。」
梶さんは、勝手にそんなことして大丈夫ですか?と心配していたが、リコさんに了承済だということを伝えて、引き受けてもらった。
そう、俺は梶さんに、リコさんのロッカーの鏡を取り外してもらうよう、お願いをしたのだ。
昨夜リコさん借りたロッカーキーを梶さんに渡し、早速作業に取り掛かってもらった。
ロッカー室を出てきた梶さんから、俺はリコさんのロッカーキーと取り外した鏡を受け取った。
幸い、鏡はマグネット付きのフックで掛けられるだけだったので、難なく取り外せた。
あとはリコさんからの連絡を待つのみだ。
9時過ぎ、リコさんから、今から家を出ると連絡が入った。
ビルの玄関で待ち合わせをする。
リコさんはビルの玄関でミワさんと別れ、俺のところに歩いてきた。
「おはよう、ツジ君」
「リコさん、おはようございます。さあ、行きましょう。」
ここからが勝負だ。
リコさんにはロッカー室に入ってもらい、一通り出勤時と同じ動作をしてもらう。
そしてロッカー室から出てきたら、俺が「リコさん」と声を掛ける。
この時にリコさんとしての反応が返ってきたら、サトさんとの入れ替わりは鏡が原因だったことが判明する。
「じゃあ、入るね。」
リコさんは少し緊張した面持ちでロッカー室に入って行った。
3分ほど経っただろうか。
ロッカー室の扉が開いた。
「リコさん。」
俺はリコさんの顔を見て、ゆっくり声を掛ける。
「ツジ君…。」
リコさんだ。
サトさんではなく、リコさんだ。
「リコさんですよね。グリーンの壁のマンションに住んでいて、ここの社員で、…俺の先輩である、リコさんですよね!」
「はい。そうです!」
やった!
俺は無意識にガッツポーズをとっていた。
「良かった!リコさんだ!」
俺が笑うと、リコさんもホッとしたのか、笑顔になった。
リコさんには、もう一度ロッカー室に入り、退勤時の動作もしてもらった。
この時もロッカー室から出てきたのは、リコさんだった。
よし!よし!よし!
俺はリコさんと、ビルの玄関で待つミワさんの所へ向かった。
心配そうな顔をして立っているミワさんに俺がピースサインを送ると、ミワさんの表情がパッと明るくなった。
ミワさんはリコさんに抱きつき
「よかったねー!本当に良かった!」
と何度も言った。
ホッとした。
みんな笑顔だ。
一先ず今日は、リコさんはミワさんと自宅に戻り、2か月振りの大掃除をするそうだ。
リコさんとミワさんが本当の母娘のように見えて、俺は安心した。
この後ブースに戻った俺を待っていたのは、南マネージャーからの「どこ行ってたんだ!!」とお叱りであったのは言うまでもない…笑。
―リコと“いこい”
「よし、こんなもんかな。」
私は雑巾を固く絞る。
ビルから自宅へ戻り、ミワさんと大掃除をしたところだ。
「ミワさん、ありがとうございます。おかげで早く掃除が済みました。」
「いいのよ、そんなこと。」
ミワさんは笑顔で言ってくれた。
「お腹すきましたね。」
時計を見れば13時になろうかとしている。
ミワさんが何か思いついたように言った。
「そうだ!お昼を食べに行くついでに、うちに寄って行かない?サトちゃんの服とかもあるし。」
「いいんですか?」
「いいもなにも、サトちゃんのものじゃない。私、今日までしかお店休めないし、急かして申し訳ないんだけど。」
「行きます!」
わたしはミワさんの提案に乗り、自宅を後にした。
電車に揺られ20分。
Y駅に到着した。
学生時代に住んでいたこともあり、なんだか懐かしさを感じる。
駅を出て直ぐに商店街があり、古き良き店が軒を連ねていた。
「サトちゃんはうちの店以外で、どこかのお店には行ったことがあるの?」
ミワさんはどこで昼食をとろうかと、考えているようだ。
「いこい以外では、あ、あそこのパン屋さんに良く行きました。」
私が指さす方には「原田バーカリー」というパン屋があった。
「あー原田さんね、あそこのメロンパンは絶品よね。」
ミワさんはそう言って、原田ベーカリーの対面にある店を指さした。
「お昼ごはん、あのお店にしない?オムライスが美味しいの!」
そこには「洋食屋ひまわり」とあった。
「はい、オムライス大好きです。」
じゃあ、ということで私たちは「洋食屋ひまわり」の扉を開けた。
「こんにちは!」
「あー、いこいのおかみさん、いらっしゃい!」
マスターと思われる、60代くらいの男性が迎えてくれた。
私とミワさんは窓際の席に座り、オムライスを注文した。
「サトちゃんと2か月も一緒にいたのに、こうして外でお昼を食べるのは初めてなのよ。」ミワさんは嬉しそうだ。
「そうなんですね。毎日、お店の準備で忙しいですもんね。」
私は自分の事なのにそう答える。
「2か月もの間、申し訳ありませんでした。」
私は改めて頭を下げる。
「謝らないで。私、すごく楽しかったのよ。娘と一緒に過ごしているようで、本当に楽しかった。」
ミワさんのその言葉に少し寂しさが見えた。
「あのね、私のわがまま言ってもいいかしら。」
ミワさんは少し遠慮しがちに私を見て言った。
私はうなずく。
「サトちゃんが元の生活に戻っても、また、いこいに来てほしい。お客さんとしてでいいから。」
「もちろんです!」
私は即答した。
「ありがとう。」
ミワさんはホッとしたのか、柔らかい表情でそう言った。
ミワさんと私はオムライスを食べ、いこいへ向かった。
ガラガラと木製の引き戸を開ける。
引き戸のそばには「居酒屋いこい」と書かれた暖簾が立てかけてあった。
「奥に自宅につづく階段があるの」
ミワさんはそう言い、私を案内してくれた。
2階に上がると開き扉があり、その扉を開けるとキッチンだった。
そのキッチンの横にある襖で区切られた部屋が、私が使っていた部屋だという。
襖を開けると、窓際にベッド、そしてベッドの横には小さなドレッサーが置いてあった。
「ここね、娘の部屋だったの。」
東側の窓に掛けられていたカーテンを開けながらミワさんが言う。
「そうなんですか。娘さんの…。」
娘さんが亡くなり、片づけたのもあるかもしれないが、白を基調とした、シンプルであまり物が置いていない部屋だった。
「サトちゃんの服はこの中ね。」
ミワさんは開き戸の箪笥を開けてくれた。
確かに、私の服だった。
今では少し季節外れの服だが、私が2か月前、実家に持って行ったものだ。
私は押し入れに入れられていたスーツケースを出し、服を詰めていった。
私が2か月間過ごした部屋。
知らない部屋なのに、なんとなく安心感を覚えるのが不思議だった。
服を詰め終わると、キッチンでミワさんがコーヒーを淹れてくれていた。
「寂しくなちゃうわね…。」
ミワさん少しため息交じりでそう言った。
「会えなくなるわけではないです。私、必ず会いに来ます。」
そういう私に、うんうん、とミワさんはうなずいた。
「ごめんなさいね、今日は急かしてここまで来てもらって。でもこうしないと、私はいつまでもサトちゃんを引きずってしまいそうで、怖かったの。」
2か月前、私は突然ミワさんに出会い、一緒に住まわせてもらい、そしてまた私は突然ミワさんから離れようとしているのだ。
なんて酷いことをしているのだろうと思う。
モヤモヤした心は一行に晴れそうもない。
今私が言う言葉は「ありがとう」も「ごめんなさい」も違う気がするのだ。
そんなことを思いながら、私はミワさんと他愛もない話を続けた。
―ツジカケルの出来事⑤
18時。
俺はなんとか定時で仕事を終わらせた。
退勤し、ロッカー室に入るとプライベート用のスマホの着信音が鳴った。
佐野だ。
佐野は親父さんに聞いてくれたらしく、前に会ったカフェで会うことになった。
今日も佐野は先に着いていた。
「悪いな、待たせて。」
「いいよ、俺の方が近いんだし。」
俺は佐野に、昨日、今日で起きたリコさんの事を話した。
「お前、無茶するよなあ。」
佐野は半ばあきれ顔だった。
「こんなチャンスはないだろうと思ってさ。つい…。」
今更だが反省をする俺。
「たまたま今回、何もなかったってことだぞ。下手したら余計にこじらせることもあるんだからな。」
「わかった。もう無茶はしないよ。」
佐野は何もなかったことに少し安堵し、こう言った。
「親父にも聞いてみたが、お前の先輩のような、そういった症例は、現実にあるようなんだ。」
「そうなのか…。」
「とにかく、今、その先輩が元の自分に戻れたとしても、解決したわけではない。」
「うん…。」
「だからやっぱり、専門医に見てもらう方がいい。これが俺からの結論だ。」
そうだよな。
素人が太刀打ちできる話じゃない。
「専門医に、ってなったら、お前の親父さんに診てもらえるか?」
「そりゃもちろん、診ると言っていたよ。こういうことは素人が掘り起こしてはいけないんだ。」
キツイ言葉だがもっともだ。
「わかった。先輩に話してみるよ。」
俺は佐野と別れた後、リコさんの業務用スマホに連絡をした。
さて、つながるだろうか…。
「はい、ツジ君?」
「あ、お疲れ様です、ツジです。リコさん、今ご自宅ですか?」
「ううん、今“いこい”にいるの。」
「あ、そうなんですか?とにかくそちらに行きますので、待ってていただけますか?」
「はあい、了解です。」
まさか、リコさんが“いこい”にいるなんて。
驚いたが、俺は急いで“いこい”に向かった。
今日までミワさんは“いこい”を休みにしてくれたので、店は暗い。
俺は店の引き戸をゆっくり開けた。
「こんばんわー、ツジです!」
2階に向かって声を掛ける。
「翔ちゃん、上がってきてー。」
ミワさんからの返事だ。
そうだ、ミワさんにとって俺は、「辻本翔」だった…。
2階へ続く階段を上り扉を開ける。
「おかえりー。」
「おつかれさまー。」
リコさんとミワさんが笑顔で迎えてくれた。
2人はキッチンに立ち料理をしていた。
「はーい、できましたあ!」
リコさんは揚げたてのから揚げが山盛りに乗った皿をダイニングテーブルに置いた。
「すごい量ですね…。」
「ツジ君もきっと来るだろうと思ってたの!」
リコさんはいたずらな笑顔で言う。
「さあさあ、食べましょう!」
ミワさんは、ご飯と味噌汁を盆にのせて席に着いた。
「いただきまーす!」
俺は成り行きで晩御飯をごちそうになった。
「わ!うまーい!!」
から揚げを一口ほうばった俺は熱いながらも叫んでしまった。
「よかったわー!お口に合って。」
ミワさんは笑顔で俺を見ている。
3人揃って食べた晩御飯は格別に美味かった。
食事が終わり、ミワさんはコーヒーを淹れてくれた。
「ミワさん、俺謝らないと。実は辻本翔は偽名で本当はツジカケルと言うんです。
リコさんのことを知りたくて、偽名を使って働いていました。申し訳ありませんでした。」
俺は頭を下げた。
「いいのよ。サトちゃんのことが心配だったのよね。偽名であろうと、翔ちゃんは一生懸命働いてくれていたもの。主人がいないときに男の人がいるのは助かったわ。」
こんな俺にミワさんは優しかった。
「もとはと言えば、私が原因なんだもの。ツジ君は悪く無いよ、謝るのは私だわ。
ミワさん、ごめんなさい。」
リコさんも頭を下げる。
「いいのよ、2人とも頭をあげてちょうだい。」
ミワさんは困ったように言った。
「迷惑をかけておいて厚かましいのですが、ミワさん、私のわがままを聴いてもらえますか?」
頭をあげたリコさんは遠慮がちに言った。
「なあに?言ってみて。」
「あの…。私、ここで、“いこい”で働いてはダメでしょうか。」
ミワさんも俺もリコさんの思ってもみない発言に驚いた。
「でも…今のお仕事は?どうするの?」
「すぐにとは言えないのですが今の仕事は辞めて、私、ミワさんと働きたいんです。甘えや勝手だと思われるのは承知の上です。でもミワさんとなら、私のこれからの生き方を見つけることができると思うんです。私が今こんな状態なので、安心感を得たいのかもしれませんし、正直今の私は、今後も今の私でいられるかも不安です。見守っていてほしい人が必要なのも事実です。本当に自分勝手な考えですが、ミワさんと一緒に居たいと思ってしまっている自分がいるんです。」
少し涙ぐみながらリコさんは訴えた。
ミワさんはそんなリコさんの手を握った。
「そう、不安よね。私も不安よ。主人の身体のこと、娘を亡くしてもこの先を生きていかなければならないこと。たくさん不安なことがあるわ。」
「ごめんなさい…。」
そう言って下を向いたリコさんは、自分の正直な思いと、常識的な考えの狭間で揺らいでいるようだった。
「サトちゃんの人生だもの、サトちゃんが決めればいい。そしてサトちゃんの人生の道のりに“いこい”が必要なら大歓迎よ。」
リコさんは顔をあげた。
「本当ですか?いいんですか?」
「ええ、もちろん。お給料は今よりもかなり減っちゃうとは思うけど、それでもいい?」
ミワさんも涙ぐみながらそう言った。
「そんなの、関係ないです!!嬉しいです。ありがとうございます!」
「俺も!俺もバイトは続けさせてください!!」
「ツジ君、今それ言う?」
リコさんが笑う。
ミワさんも笑う。
「ええ、もちろんよ。これからもよろしくね、カケル君!」
やったー!
俺は年甲斐もなく喜んだ。
22時。
俺とリコさんは“いこい”を後にした。
店から駅までの道を歩いている。
「リコさん、今回のことなんですけど、本当にすみませんでした。」
「なんでツジ君が謝るの?」
リコさんはきょとんとした顔で俺を見る。
「俺、何も考えずにただリコさんの様子が変だって思って色々探って、おまけに、
下手したらリコさんの心が壊れてしまうかもしれない行動もしてしまって…。今更ながら反省しています。」
俺は足を止めてリコさんに頭を下げた。
「ううん、そんなこといいのよ。今回、私がそういう状況であることを知ることが出来たから、また前を向いて歩いていけるわ。ツジ君ありがとうね。」
リコさんも頭を下げた。
そしてここで言わなければならないことがある。
「リコさん、さっきミワさんに、今後も今の私でいられるか不安って言っていたことなんですが、実は俺の友人の父親が精神内科医をしているんです。もしこの先の不安がぬぐい切れないなら、一度診てもらってはどうでしょうか。あの、こんなこと言うのは、失礼なことは分かっているんです。ただ俺、この先もリコさんはリコさんでいてほしいんです。」
リコさんは少しの間黙っていた。
俺は、やっぱり言わない方が良かったのかと感じていた。
「そう…そうね。私も私で生きていきたい。理想を追い続けたくない。」
リコさんは自分を納得させるかのように言った。
「お友達のお父様の病院、教えてくれる?避けていたらだめだよね、ちゃんと自分と向き合わないと。」
「大丈夫ですか?」
勧めておいてそんなことを言ってしまう俺…。
「大丈夫。私は私で生きていくって決めたから。」
星空を見上げたリコさんの言葉は力強かった。
―里子は里子
1か月後。
リコさんは会社を退職し、“いこい”に住み込みという形で働き始めることになった。
佐野の親父さんの病院にも通い続けている。
ロッカーの鏡を外してから、リコさんがサトさんに入れ替わることはなくなった。
俺はというと、“いこい”のアルバイトを週3日で続けており、復帰した大将の康介さんに、なぜか魚の捌き方や、だしの取り方などを伝授され毎日しごかれている。
「カケルは素質があるな。」
なんて大将は言うのだが、俺はさっぱりわからない。
母子家庭育ちで料理はしていたが、商売として成り立つ腕は持っていないと感じている。
だが、料理に向かうと無心になれるので実は楽しい。
「いつか2人でお店が開けそうね。」
ミワさんは時々いたずらな笑みを浮かべてそう言うのが、俺にはまんざらでもないのだった。
「きっとロッカーの鏡は、理想と現実を行き来できる扉だったんだろうな。」
そう言った佐野の言葉が頭をよぎる。
今のこの生活は、リコさんにとっての理想が現実に近づいているものなのだろうか。
わからないが、リコさんの笑顔は「そうだ」と言っているような印象を受ける。
「サトさん、料理上がったよ、2番テーブルさんね。」
「はあい!」
俺は1か月前からリコさんをサトさんと呼ぶことにした。
リコさんはサトさんでもあり、サトさんはリコさんでもある。
だが、2人は「同じ」ではないのだ。
里子(サトコ)さんとして今後も自分の道を歩んでほしい。
その思いからサトさんと呼ぶことにした。
「あのね、私、今貯金してるの。将来お店を持ちたいから。」
店を閉め、みんなでまかないを食べているとき、突然サトさんはそう言った。
そして俺の耳元で、
「だから、ツジ君も貯金しておいてね。」
と言うのである。
えええええええ!!
それは、それは、どういう意味でしょうか!!
「え、ああ、あの…。」
俺がしどろもどろになっていると、
「楽しみねー。」
とミワさんが言う。
「楽しみだねー!」
サトさんもミワさんにいじわるな笑顔で返す。
大将もニヤついて俺を見ている。
「頑張ります…。」
そういうのが精いっぱいの俺。
「何を頑張るんだよ。」
追い打ちをかけるように大将が言う。
俺の顔がカーっと熱くなっていくのがわかる。
「じゃ、乾杯ということで!」
サトさんの声掛けに4人はビールが入ったグラスを持つ。
「かんぱーい!!」
何に乾杯ですか?!
いじられキャラに変身した俺。
笑うサトさん。
ミワさんと大将が「もっと食べろ」と、皿にから揚げを乗せてくる。
いいじゃないか、こういう「家族」というかたちがあっても。
そう思う俺は、今本当に最高だー!
終
リコとサト このみさき @konomi_saki
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