第2章 疑惑

―ツジ カケルの出来事①(半月前)

「はい、わかりました。至急クライアントへメールをします。」

この職場ではSVに登用されると、業務用のスマホが付与される。

なんたって部署の規模が大きくSVも大勢いるので、連絡手段は自席のパソコンか、業務用スマホを使用するのが通例だ。

これが良いのか悪いのか、いつどこにいても連絡がついてしまう。

今も休憩中だったのに、先輩から連絡が入ったところだ。

退勤すれば、もちろん業務用スマホはシャットダウンして、ロッカーに置いて帰るのだが、責任感の強い人は、常に連絡が取れるように持ち帰っているらしい。

ま、そんな状況なので仕事がある日はプライベートのスマホより、この業務用スマホを利用することがほとんどだ。


ある日、俺は帰ろうと思い、ロッカールームを出たところで、スマホがひとつ廊下に落ちているのを発見した。

え!!スマホが落ちている!誰のだろう。

落し主は困っているに違いない、と小走りで拾いに行く。

このビルの廊下はカーペット敷なので、落した時の音にも気づかなかったのだろう。

急いでいたとしたら尚更だ。

拾上げたスマホを見ると、驚くことに業務用スマホだった。

みんな同じ機種だからこれは困ったな。

どうしようかと突っ立っていると、横から一人の女性が声を掛けてきた。

「あ、それって・・・」

その女性はオペレーターの梶さんだった。

「SVの業務用スマホなんですけど、落とし物みたいなんですよね。」

俺が困ったように言うと、

「それ、リコさんのですよ!」

と、目の前が明るくなるような言葉が梶さんから返ってきた。

「え!そうなんですか?梶さん、よくわかりましたね!」

明るい声で返す俺。

梶さんは拾ったスマホの側面を指さし、

「ほら、ここにキラキラ光るホログラムのシールが貼ってあるでしょ?皆さん同じ機種をお持ちだから、リコさんが間違わないようにと目印に貼ったんですって。

このシールが綺麗だったから私も欲しくて、どこで購入されたのかを聞いたことがあるから、リコさんのスマホで間違いないですよ。」

と笑顔で教えてくれた。

「ありがとうございます!梶さん!助かりました!」

梶さんにそう伝えると急いでエレベーターホールへ向かった。

リコさん、俺と同じタイミングで退勤したから今なら間に合うかも!!

運よくエレベーターは5階で停まっていたため、急いで飛び乗り1階へと下った。

1階に付きエレベーターの扉が開くとほぼ同時に、俺はビルのエントランスへ向かって走る。

リコさんは居ない!もうビルを出ちゃったのか。

急げ、俺!!

ダッシュでビルを出て左右を見回す。

あ、居た!!!

小さな後ろ姿だったが、あの服はリコさんだ。

今日は赤いスカートを着ていたから良くわかる。

その小さな後ろ姿に向かって猛ダッシュをする。

俺、陸上もいけたんじゃないか?なんて思いながら。

リコさんの後ろ姿が少し大きくなったところで声を掛けてみる。

「リコさーん!!!」

走りながら叫んでいるので思うように大きな声が出ない。

リコさんは俺の声には全く気付かず、大通りの横断歩道から対面の道に渡りきってしまった。

タイミング悪くそこで赤に変わり、走り出す複数の車。

俺はイライラしながら見失わないように対面の道を歩くリコさんを見守る。

ん?あれ?

こっちって、リコさんのマンションがある方向じゃないぞ。

駅の方向だ。

これからなんか予定があるのかな?

それで急いでいたからスマホを落としたことに気づかなかったのかも。

リコさんは思った通り、駅の改札へつながる階段の方向に歩いて行った。

そこで信号が青に変わる。

まだ間に合うぞ!!

俺もリコさんの後を追い、駅へ向かった。

改札へ向かう階段を2段飛ばしで駆け上がり、改札内を見回すと、リコさんの後ろ姿があった。

ICカードをかざし、リコさんの後を追う。

ようやく追いついたのは下り線のホームだった。

「リコさん!」

俺はリコさんの肩を軽く叩き、声を掛けた。

振り向いたリコさんは、俺の顔を見るなり、きょとんとした顔でこう言った。

「…誰?」


―リコとカケルの場合(1か月前)

1か月前、私は契約社員に登用されたばかりの“ツジ カケル”に会った。

前もって彼の教育係を任されていた私は、空き時間で教育プログラムを作成し、この日を待った。

どんな人かは会ってみないと分からないが、自分がSVになった頃、わからなくて困ったことを思い出しながら作成した。

ツジ君は以前からオペレーターとしてこの会社で働いていたらしい。

来月の契約社員登用をきっかけにSVとなり、今まで在籍していた部署から、この通販受発注の部署に異動をしてきた。

午前中は南マネージャーからの仕事内容などの説明があり、実際に私と顔合わせしたのは

午後になった。

その時のことは忘れもしないよ。

ツジ君が南マネージャーと共に私の自席まで来て

「ツジ カケルといいます!!よろしくお願いします!」

と、ブースに響き渡る声であいさつをしてくれた。

「はじめまして、私・・・」

首から下げていたネームプレートを見せながら自己紹介をしようとすると、

「リコ先輩ですよね!!!」

と、ツジ君が言葉を被せてきた。

「南マネージャーから午前中に聞きました!!俺より2つしか年齢が違わないのに、社員さんでバリバリ働いているなんて、尊敬します!」

まったく南マネージャーはツジ君に何を言ったのよ。

周りのオペレーターさんはクスクス笑い出すし、私もどうして良いかわからず

変な汗もかいてきた。

「ありがとう…ツジ君のことは南マネージャーから聞いています。」

「はい!!恐縮です!!」

「これ、SVの作業手順の一覧を作成をしておいたの。これに沿って進めていきたいと思うので、ツジ君も目を通してくれるかな。」

用意しておいた作業一覧の冊子をツジ君に渡す。

「俺のために作ってくださったんですか!!恐縮です!!」

受け取ったツジ君が頭を下げる。

「一先ず午後からは自席でこのプログラムを見てもらうね。わからないところがあれば聞いてね。」

「承知しました!」

元気いっぱいのツジ君を自席に案内する。

彼の席は通路をはさんで私の右横だ。

「ツジ君の席はここね。一通りマニュアルもあるし、パソコンのIDとかは南マネージャーから聞いていると思うから、自由に使って大丈夫だよ。」

「ありがとうございます!!」

そう言ってツジ君は、自席があることに嬉しそうな表情で座った。

まっすぐで、裏表のない人。

それがツジ君への第一印象だった。


―リコとサトの場合(2か月前・ロッカー室)

なんとなく目が合う二人。

「あの、もしかしたら私と同世代ですかね。」

「そうかも、私25歳です。」

「同い歳だ!そんな人が同じ職場だったなんて知らなかったです。」

「これだけたくさんの人が働いていたら、長く居てもわかりませんよね。」

「それもそうですね。」


「なんか大変そう。」

「やつれてる?笑」

「そうじゃなくって、余裕がなさそう。」

「あ、わかる?今すごく忙しいの。さすがね、見抜いてる!」

「私で良ければ話聴くよ?」

「ほんとに?それがさー…」


「昨日飲みすぎちゃった。」

「あーお店で?」

「いつもやっちゃうの、ある常連さんが来るとね」

「お母さんに怒られた?」

「ちょっとだけね、注意された。でも朝、母のお味噌汁で復活したんだよ!」

「いいなあ、優しいお母さんで。」


「昨日知らない人に声かけられた。」

「え?ナンパ?」

「違うんだけど、びっくりしたよ。」

「大丈夫だったの?」

「うん、平気平気。」


―ツジ カケルの出来事(半月前)②

「…誰?」

リコさんだと思っていた女性はそう言って、ホームに着いた電車に乗って行ってしまった。

なんだよ、いつも顔を合わせているのに「誰」って。

なんだ?もしかしてリコさんに似てる人だったのか?

リコさんだと思って追いかけた女性は俺のことを知らなかった。

衝撃すぎて、下りホームに立ち尽くしたまま、俺はしばらく頭の整理が出来ずにいた。

もしかしてリコさんは双子??

あーもうわからねえ!!

とにかくスマホは明日リコさんに渡そう…。


「リコさん。」

翌日、俺は朝一でリコさんに声を掛けた。

「あ、ツジ君おはよう。」

「これ」

俺は拾ったスマホをリコさんに見せた。

「あー!探してたの!ツジ君が拾ってくれてたんだね。」

リコさんは、ほっとしたような表情だ。

「昨日、廊下に落ちてました。」

「ありがとう!助かったよ、南マネージャーに怒られるところだった。」

リコさんはそういうと少し頭を下げて自席へ戻っていった。

俺もリコさんの席までついていく。

「リコさん、あの…。」

「あ、お礼?もちろんしますよー!ランチ、おごらせていただきます!」

リコさんは笑顔でそう言った。

あれ?

昨日のことを知らんぷりをしてる感じでもないぞ。

だとしたら、あの女性はリコさんじゃなかったのか?

あーもうわけわかんねー!

ツジ カケル、こうなると納得するまで暴走が止まりません。

ようし、こうなったら…。


よし、リコさんが退勤したぞ…。

18時、俺は退勤したリコさんがブースを出ていくのを見とどけ、自分の退勤カードをレコーダーにかざす。

そして大急ぎでロッカー室に向かい、帰りの身支度を済ませエレベーターで1階へ降りる。

ビルを出てたところで一人の女性に声をかけられたが

「急いでいるのですみません!」と断り、樹木で隠れることができる所に身を置いた。

そう、俺は今、リコさんがビルから出てくるのを待っている。

昨日のわけわからん出来事をすっきりさせたかった。

あ、言っておくがこれはストーカー行為じゃないからなっ!


「あ…。」

ちょっと季節はずれの一際目立つグリーンのワンピースを着た女性が出てきた。

あれは間違いなくリコさんだ。

この時間は複数企業の退勤時間が重なっているため、大勢の人がビルから出てくるが、

間違いない。

よし、行くぞ!

俺は少し距離を置いてリコさんの後を追う。

大通りから横断歩道を渡り、対面の道へ。

やっぱり駅の方向に向かっている。

事態が良く分からないが一先ず追っていこう。

そして…駅が見えてきた。

やっぱりリコさんは駅に向かっているんだ。

改札へ向かう階段を上がり、下りホームへ。

これは昨日と同じだ。

下りホームに電車が来た。

俺はリコさんが乗った車両の隣の車両に乗る。

電車に揺られ20分。

Y駅でリコさんが降りる。

続いて俺も降りる。

リコさんはY駅を出ると、商店街の方向へ歩いて行った。

アーケードは無いが飲み屋や定食屋が並ぶ、結構賑やかな商店街だ。

リコさんは一件の居酒屋へ入って行った。

暖簾には“居酒屋 いこい”と記されていた。

ん?なんだ、飲みに来たのか?わざわざ電車に乗って?あ、誰かと待ち合わせってこともあるか。

店の前まで行き、引き戸のガラス面から店内を伺う。

あー良く見えないな。

かといって店に入ったらリコさんにきっと怪しまれるよなあ。

偶然ですねー、なんて通用しないかもしれない。

しかたない、今日はここまでにしよう。

明日、出直しだ。


翌日。

俺は昨日と同じように、退勤後のリコさんを追った。

やっぱり、リコさんは今日も同じ道のりで“居酒屋いこい”の引き戸を開け、店内に入って行った。

そして俺は昨日と同じように店の前で立ち尽くしている。

どうしようか。

2日続けて同じ店に行くのって不自然だよな…。

行きつけの店だとしても、わざわざ電車で20分かけて行くもんなのかなあ。

もう、考えてもしょうがない、入って確かめよう!


ガラガラガラ。

意を決して恐る恐る引き戸を開ける。

「いらっしゃいませー。」

店内を見ると、カウンターに居る40代くらいの女性が出迎えてくれた。

「おひとり様ですか?」

笑顔で尋ねられる。

はい。と言おうとした瞬間、奥からリコさんがエプロンを掛けながら出てきた。

わ!!まずい!!とっさにそう思った俺は、

「あの、表にある張り紙を見たんですけど・・・」

と言ってバイト募集の張り紙を指さした。

この時の俺の判断に良くやった!と自分を褒めたいぐらいだった。

「あー、バイトをご希望の方?」

女性が笑顔で言う。

「すみません、突然!偶然通りかかったら張り紙が目に入りまして。」

焦っている俺は早口で答える。

「いいのよ、こんな古いお店だけど大丈夫かしら。さあ、こちらにおかけください。」

女性はカウンター席の方を案内してくれた。


どうしよう。リコさんがいる。

何か言った方がいいかな…。

そう思っていると、

「ミワさん、良かったじゃない!元気そうなお兄さんだし大丈夫じゃない?」

リコさんがミワさんと呼ばれるその女性に笑顔で言う。

やっぱりリコさんだった。

見た目も声も完全一致。

「サトちゃん、失礼でしょ、そんな言い方!」

ミワさんがリコさんに向かって注意する。

ん?サトちゃん?リコちゃんじゃなく、サトちゃん?どういうこと??

「もしよければ、うちで働いてください!」

リコさん(サトさん?)が俺に向かって言う。

「住所や連絡先を知っておきたいので、履歴書、明日持ってきていただけるかしら。」

続けてミワさんが言う。

俺は…理解に苦しんだが、一先ず、

「わかりました!明日必ず持ってきます!よろしくお願いします!」

そう言って席を立った。

「こちらこそ、あ、先に名前だけ伺ってもいいかしら。」

ミワさんに言われ、

「ツジモト ショウです!」

と、ひねりのない偽名で答えた。

そしてミワさんとリコさん(サトさん?)に見送られ店を出た。


俺の顔を見ても、偽名を名乗っても、リコさんは何も言わなかった。

それどころか、疑うことすらなかった。

どうなってるんだ?それに明日はどんな顔してリコさんに会えばいいんだよ。

頭の中がぐちゃぐちゃになりながら俺は駅へと向かった。


「ツジ君、おはよう!」

朝、ビルの廊下を歩いていると背後から声を掛けられた。

この声はリコさんだ。

「おはようございます!」

俺は振返り、リコさんに挨拶をした。

リコさんが俺の顔をじっと見る。

動けない俺。

「ツジ君、目の下にクマができてるよ。夜更かしでもした?あ、ゲームでもしてたんでしょう!」

リコさんが笑顔で言う。

そりゃそうだ。

昨晩の出来事が、わけのわからんゲームに巻き込まれたみたいで、眠れなかった。

「もう、業務中に寝ないでよ!」

リコさんはそう言うと早足でブースへ入っていた。

やっぱり、昨日の事を知らんぷりしている態度ではないんだよなあ。

昼休憩中、俺は休憩室で今朝コンビニに寄って買ってきた履歴書を書いていた。

「辻本 翔」ツジモト ショウ。

“いこい”で偽名を名乗ったが、なんてことない、本名の「辻 翔」ツジ カケルに付け足し、

カケルの読み方を変えただけだ。

住所や職歴に関しては偽りなく記入した。

さあ、これで今晩“居酒屋いこい”に持っていくだけだな。


19時。

すでにリコさんは退勤し、俺は雑務で遅くなってしまった。

でも焦ることはない。

“居酒屋 いこい”に居るのはリコさんのはずだ。

なぜか分からないが、そう確信していた。

昼に書いた履歴書の封筒を持ち、ビルを出る。

そこで見知らぬ女性に声を掛けられた。

「すみません、このビルで働いている方?」

「ええ、そうですけど。」

その女性は、60代くらいの人だった。

「すみません突然。あの、この人知っていますか?」

その女性は一枚の写真を俺に見せた。

リコさんだ。

写真は学生時代のものだろうか、今よりも幼く見える。

“〇〇大学”とある門の前でこの女性と一緒に写っていた。

「はい、知っていますよ。同じ会社です。」

俺がそう答えると、

「あー!良かった!私、この子の祖母なんですけど、今この子を探しているんです。」

女性はリコさんのお婆さんだった。

「そうなんですか?でも探してるってどういうことでしょうか。」

俺がこの状況をつかめずにいると、

「昨日からここで待っていても見つからないし、今日には帰らないといけないのに、どうしようと思っていたんです。」

とお婆さんは言う。

話しを聞けば、

リコさんから連絡がなく、心配して来た。

家族にはリコさんのことを聞けない状態なので、“友人と旅行に行く”と嘘を言い、新幹線でわざわざ来た。

リコさん自宅は大学卒業後に引っ越したため知らない。

会社のビルは仕事が決まった時にリコさんから聞いていたので、それだけを頼りに昨日からここで待っていた。

ということだった。

このビルは人の出入りが多いから、きっと見つけられなかったんだろう。

もしかして昨日、ビルの外で俺に声を掛けてきた女性は、リコさんのお婆さんだったのかもしれない、なんて思い出したりもした。

「今日は俺より先に退勤したのでここで待っても来ないですよ。申し訳ないですが、俺もどこが自宅かは知らないので、俺からお婆さんに連絡するよう伝えておきます。なので、せっかくですが今回は帰られた方がいいかと…。」

本当ならリコさんのマンションを教えたいところだが部屋番号までは知らない。

「そうですか。そうですね、それではお言葉に甘えます。今なら最終の新幹線に間に合います。会いたかったですけどね…」

俺はなんだか、お婆さんがかわいそうになってきた。

「大丈夫です!俺が責任をもってリコさんに伝えますから!」

俺がそう言うと、お婆さんはきょとんとした顔で俺を見た。

あれ、どうかしたか?

俺が何も言えずにいると、

「“リコさん”ってどなた?私の孫は“サトコ”っていうんです。」


衝撃だった。

確かにリコさんの本名は、

“谷口 里子”と書く。

俺はずっと“タニグチ リコ”と思っていたが、

“タニグチ サトコ”が正しかった。

みんなや南マネージャーまでが“リコ”って呼ぶもんだから疑いもしなかった。

そういうことか。

だから“いこい”ではサトちゃんって呼ばれていたんだ。

お婆さんには、そういうニックネームで呼ばれている、と説明し、伝言を承り別れた。

さあ、リコさんはサトさん、ということがわかったぞ。

次はなんで自宅へ帰らず、“いこい”に居るのかを調べないと。

俺は急いで“いこい“へ向かった。

店に着き、俺はミワさんに履歴書を提出した。

そして明日から週3日、“居酒屋いこい”でアルバイトを始めることになった。

この日のリコさんは、客からの注文を聞いたり、配膳をしたりでバタバタしていた。

でも、帰り際に

「辻本君、明日からよろしくねー!」

と言って手を振ってくれた。

明日、リコさんにお婆さんのこと伝えなきゃな。

そう思いながら、俺はリコさんとミワさんに軽く頭を下げた。


―南マネージャーの出来事(2ヶ月前)

うちのブースは9時に始業のため、朝礼は8時50分から始まる。

この日、時間になってもリコは現れなかった。

「あれ、リコ休み?連絡あった?」

俺がみんなに尋ねると、誰も休みとは聞いていないとのこと。

遅刻か?

と思っていたら、早足でブースに入ってきたのはリコだった。

なんだ、遅刻か。

と思って朝礼を始めたが、一行にリコは朝礼の場に来ない。

みんな待っているのに何やってるんだ?

見るとリコは座席表の前に立っていた。

手には通勤バックを持ったままだ。

座席表とは、オペレーター席は日替わりのため、毎日貼り出しているものだ。

俺はリコのそばまで行き、

「なにやってんの。」

と聞いた。

「あ、すみません。遅刻しそうだったのでロッカー室に寄らず、そのまま来てしまいました!」

かなり焦った状態でリコが言った。

そして、

「あの、座席表に私の名前がないんですけど、もしかして今日は私、公休日でした?」

は?何言ってんの???

「違いますよね、私、週5日勤務ですよね。」

続けてリコが言う。

寝ぼけてんのか?

俺は少し切れ気味で、

「なに言ってんだよ、これはオペレーターさんの座席表だろ。早くバッグをロッカーに入れてこい!!」

そう言ってリコをブースから出した。


2~3分後、戻ってきたリコは謝りながら朝礼の場に加わった。

先ほどとは違い、いつものリコだった。

さっきのはいったい何だったんだ。

それに職場の近くに住んでいるのに遅刻なんて、気が緩んでるんじゃないか?

少し甘やかしすぎたのかもしれないな。

これからは厳しくしないといけない。


その後、複数のオペレーターやSVから、リコが自分のロッカーを開けた際、頻繁に誰かと会話しているような声を聞くと聞いた。

最初はスマホで誰かと話していると思っていたらしいが、スマホではなく、リコは一人でロッカーについている鏡に向かって話しているらしい。

大丈夫かなリコ。

精神的に病んでしまったのではないかと心配したが、こういうことはなかなか本人には聞きづらく、俺はそのままにしてしまった。


―南マネージャーとツジカケル(1か月前)

「ツージー!今空いてるか?」

ツジ カケルを呼ぶ。

「はい!大丈夫です!」

ツージーが駆け寄ってくる。


俺は南 良太。

このブースのマネージャーをしている。

この会社に入社して10年。

マネージャー業は3年ほどになる。

コールセンターのマネージャー業とは、要は売上管理やクライアントとの交渉等をしている。

ここは200名ほどのオペレータが在籍している大規模なコールセンターだ。

なので、マネージャーは俺の他に2名在籍しており、俺は通販受発注業務のマネージャーとして在籍している。

今呼んだのは契約社員に登用したばかりのツジ君だ。

俺は“ツージー”と呼んでいる。

仲間意識を高めたく、賛否あるが部下はニックネームで呼ぶことが多い。

「契約社員になって半月経つが、仕事はどうだ?少しは慣れたか?」

俺の問いかけに、

「はい!皆さんに良くしてもらってます!リコ先輩には迷惑ばかりかけていますけど…。」

ツージーの返答は、最初は元気な声だったのに最後は尻つぼみ状態な声だった。

「仕事はゆっくり覚えればいい、まずは環境に慣れてくれたらいいから。」

そう言ってなだめる。

「そうだ、一緒にメシに行かないか?いつも休憩室なんだろ?たまには外に行こう。」

ついでにツージーを昼メシに誘ってみる。

「はい!行きましょう!」

ツージーも同意してくれたので、休憩に行くことを周りに伝え、ブースを出る。


「うまい天丼の店があるんだよ、混んでなくて穴場なんだ。」

俺がそう言うと、

「天丼ですか!俺は茄子が好きです!」

とツージーが言う。

なんだか、俺はツージーのこういうところが好きだ。


ビルを出て、大通りから外れた少し狭い道に、俺の行きつけの天ぷら屋がある。

そこの天丼は通常は1100円だが、ランチ時は800円で提供される。

「こんちわー。」

暖簾をくぐり、店内に入る。

古い佇まいだが、キチンと掃除された店内はいつ来ても気持ちが良い。

「いらっしゃーい!空いている席にどうぞー。」

そう促され、2名席へ座る。

「天丼2つね。」

水を出されると同時に注文をする。

なんたって昼休憩は時間との勝負だしな。

「リコは厳しくないか?」

ツージーに尋ねる。

「厳しいですが、怖くはないです。言われていることは当然なことばかりですし、気を悪くしたことは一度もないです!」

ツージーは水を一気飲みして答えた。

そして俺は、少し気になることがあり、ツージーに聞いてみた。

「あのさ、リコってたまに変な時とかないか?」

ツージーはきょとんとして、

「変な時…ですか?」

と答えた。

「そう、例えば、リコなのに別人みたいな感じに思える時とか。」

俺は真剣な顔で聞く。

「リコさん、そんな時があるんですか?」

ツージーは眉間にしわを寄せ「無い」といったような顔を見せる。

「いや、ごめん、あいつ忙しくなると別人みたいになるからさ、ツージーが辛くないかと思ってね。」

「お待たせしましたー!!」

天丼が2つ運ばれてきた。

「おお!今日もうまそうだ!ツージー食べよう!」

丁度いいタイミングで天丼がきたので、うまくはぐらかすことができた。


―辻本 翔の場合

「辻本 翔」こと、「ツジカケル」は“居酒屋いこい”で働きだした。

俺はリコさんがサトさんであることを確かめることで必死になった。

そしてわかったことは、“いこい”でのリコさんは、サトさんという別人に変わっているということだった。

ミワさんとの会話も親子同然で、ミワさんもリコさんを娘のように可愛がっている。

常連さんも同じくだ。

こうなると俺も、“いこい”ではサトさんという全くの別人と仕事をしている気持ちになる。

だが、リコさんと同じ顔で同じ服を着て、同じ声であるサトさんは、リコさんであることは

紛れもない事実だった。

なぜこんなことになっているのだろうか。

ある日、リコさんは体調が悪いとのことで店に出なかった。

俺はチャンスだと思った。

ミワさんに色々聞いてみたかったのだ。

お客さんが引いて少し時間が出来たころ、俺はミワさんに聞いてみた。

「ミワさんはサトさんの母親?ですよね…。」

ミワさんは一瞬の間を置いてこう答えた。

「やっぱりそう見えるわよね。」

「違うんですか?一緒に暮らしているし、てっきり親子でお店をされているのかと思っていました。」

俺は驚く素振りをした。

「違うのよ、よく言われるんだけどね。」

ミワさんは少し悲しそうな、寂しそうな声で言った。

じゃあ、なんで一緒に住んでいるのか。

ここは踏み込んで聞くべきだろうか。

迷っているとミワさんが、

「2か月前くらいかな…家族になったのは。」

と言った。

どういうことだ?

「あの、2か月前からの家族って?」

結局俺は、迷うことなく聞いてしまった。

「2か月前にね、突然サトちゃんが現れたの。」


―ミワさんの場合

今日は雨でお客さんの入りも少ないなあ…。

私は、今井 美和。

主人の今井 康介と居酒屋を経営している。

康介は身体が弱いところもあるが、何事にも一生懸命で優しい。

私と康介は大学時代に知り合った。

卒業後、一旦は疎遠になったのだのだが、職場の上司と飲みに行った店で偶然にも康介が働いており、そこで再会をした。

それから仕事帰りに、私は康介が働く店に寄るようになった。

大学の頃、康介は仲の良い男友達の一人だった。

その頃から料理が上手く、仲間にふるまうことも多くあった。

社会人として康介と再開してから、康介は私の愚痴を聞いてくれたり、友達関係の相談に乗ってくれたり、唯一自分の本音を出せる人物になっていった。

康介は今働いている店で、料理や経営に関しての修行をしていて、いつか自分の店を開くのが夢だと言っていた。

そして数年後、私は康介から「自分の店を持つ夢が叶う」という時にプロポーズをされた。

私は迷うこと無く受け入れた。

なぜかそうなるはずだと、信じていたのだ。

結婚と店の開店が同時期になり、その頃は忙しくも幸せな時間だった。

開いた店は商店街の中ということもあり、幸運にもお客様には恵まれた。

康介の料理も美味しいと評判で、毎日が充実していた。


結婚して2年後、娘が生まれた。

一人娘だったが、店の手伝いもしてくれて、優しい朗らかな子に育ってくれた。

私たちの自慢の娘だった。

だが娘は2年前、23歳の時に交通事故で亡くなった。

突然娘は、私たちのそばから消えてしまったのだ。

私は現実を受け止められず、数か月は日常生活もままならず、店にも立てなかった。

私と同じようにつらいはずだろう康介は、そんな私を支えてくれた。

私は言葉ではうまく言い表せないが、本当に康介には感謝している。

今入院をしている康介を、今度は私が支える番だと思っている。


2か月前、お店の暖簾を下げるため外に出た時、一人の若い女性の姿が目に入った。

時間は23時過ぎ。

周りのお店も閉店準備を始めている時間だ。

そんな時間に女性が一人で立っている。

誰かと待ち合わせをしている素振りもなく、スーツケースを右手に持ち、ただ立ちすくんでいるのだ。

思わず駆け寄って声を掛けた。

「あの、どうかしました?」

その女性は私を見るなり泣き出してしまった。

「家が、帰る場所が分からないんです・・・」

女性はぽろぽろと涙を流しながら、そう言うのが精いっぱいのようだった。

「とにかく、お店にお入りなさい。」

私は女性の手を引いて店内に入れ、カウンターの席に座らせた。

その頃は康介も入院しておらず、調理場に立っていた。

お客さんも引いた時間のため、店内は康介と私だけだった。

「あれ、美和、その人は?」

康介が不思議そうに見る。

「どうやら、自分の家がわからないみたいなの。」

「え?どういうこと?」

康介はさらに不思議そうな顔で見てくる。

「私も事情が分からないのだけど、こんな時間だし危ないから連れてきたのよ。」

私は一先ず温かいお茶を入れ、女性に差し出した。

それが、サトちゃんとの出会いだった。

家が分からない。

帰る場所がない。

わかるのは名前と働いている職場だけ。

それ以上、何もわからないとサトちゃんは言った。

記憶喪失だろうか・・・。

だが事故にあったわけでもなさそうだ。

突発的にそんなことが起こるのだろうか。

何もかも分からないことだらけだったが、唯一感じたのはサトちゃんは嘘をついているわけではないということだった。

持っていたスマホの登録も、職場の連絡先のみでご家族や友達の連絡先は一切無かった。

警察に連絡した方がいいと康介は言ったが、サトちゃんが拒んだ。

私と康介は話し合い、記憶が戻るまでサトちゃんを家に住まわせることにした。


サトちゃんはしばらくの間塞いでいるようだった。

私たちとは話もせず、一人部屋にこもり、なにやら独り言を言っているようだったので、私と康介は心配したが、日が経つにつれてあいさつ程度の会話をするようになった。

そしてうちに来て5日ほど経つと、仕事にも行けるようになった。

仕事に行きだすと、明るい表情に変わり、私と康介のことも「ミワさん」「大将」と呼ぶようになった。

この生活に慣れてきたころには、お店の手伝いもしてくれるようになり、私たちの生活にも張り合いが出てきた。

娘とサトちゃんをどうしても重ねてしまい、この生活が続けばいいのにとさえ思った。

そして2か月が過ぎようとしている。

辻本 翔の場合②

昨日、ミワさんからリコさんとの出会いについて聞いた。

衝撃を受けた。

家が分からない、なんて。

ついこの前、私のマンションはここだって、休憩室で教えてくれたのに。

今日はリコさんに直接聞いてみたい。

本当のところを。

いつもミワさんは、一旦お客さんが引く21時くらいに少しの間、自室に戻る。

その時を狙って聞いてみよう。


21時。

いつも通り、ミワさんは自室へ向かった。

今だ!聞いてみよう。

俺は、カウンターテーブルを拭いていたリコさんに言った。

「サトさんはミワさんと本当の親子のように仲がいいんですね、俺昨日まで親子だと思っていましたよ。」

リコさんは顔を挙げてきょとんとしている。

そして笑いながらこう言った。

「翔ちゃん何を言っているの?」

俺は、やっぱり親子ではないことはわかっているんだ、と思った瞬間…。

「本当の親子だよ。」

と当然のようにリコさんは答えた。

えええええええ!

どういうこと???

「いや、だってミワさんがサトさんは2か月前に現れて、それから一緒に住んでるって…」

俺は焦って訳がわからず早口で言った。

「2か月前?私はずっとこの家の娘だよ。」

少し不機嫌になるリコさん。

それ以上、俺は何も聞けなかった…。


―サトとミワ

7時。

いつものように目覚ましが鳴る。

あー眠い。

自室のふすまを開けると焼き魚の良い香り。

「ミワさん、おはよー。」

「サトちゃん、おはよう。」

私とミワさんのいつもの朝の会話だ。

ミワさんが席に着いたところで、

「いただきます」

2人で手を合わせてから朝食を食べ始める。

「あ、そうだ、ミワさん聞いてよ!昨日翔ちゃんがね、ミワさんと私、本当の親子みたいですねって言うの。なんかむかついちゃってさ、本当の親子ですって言ったの。」

ミワさんは、私をじっと見て

「そうね、本当の親子なら良かったのにって思うわ。」

と寂しそうに言った。

え?

本当の親子なら良かった?

「ミワさん、何言ってるの?私とミワさんは親子だよ。」

ミワさんは少し笑いながら、

「サトちゃんがそう言ってくれるのは本当にうれしいけどね。ご両親の事、今も思い出せないの?」

ご両親??

「…え?ミワさんは私のお母さんじゃないの?大将はお父さんじゃないの?」

少し声が震える。

ミワさんが心配そうな顔になる。

「サトちゃん、どうしちゃったの?大丈夫?サトちゃんは2か月前にうちに住むようになったでしょ?」

え?嘘だ。

そんなことあり得ない。

私たちはずっと3人家族だったじゃない。

「冗談だよね、朝からキツイよ、そんなの。」

そう言って、私は席を立ち、自室に戻ってすぐに着替えた。

「サトちゃん?どうしたの?」

ミワさんが心配そうに声を掛ける。

「ミワさんごめん、今日は早く行くね。」

私はミワさんの見送りも待たず、家を出た。

家族じゃないなんて嘘だ、そんなの!

私は訳が分からず、黙々と駅まで歩いた。


職場のロッカーの扉を開ける。

そこでリコと会ったので、早速私は今朝の事をリコに言った。

「おはよう、ねえ、聞いてよリコ」

リコは優しい声で

「サト、どうしたの?」

と言う。

「今朝ミワさんがさ、私とは親子じゃないって言うの。冗談にも程があるよね。」

リコは心配そうな顔で

「喧嘩でもしたの?それか何か訳があるのかな?」

と言ってくれた。

「わからない。」

私も困惑している。

「そっか。何かあったら言ってね。話聴くからさ。」

リコは笑顔で言った。

「ありがとう。今日もがんばろうね。」

私はそう言って目を閉じる。


―ツジカケルの出来事③

朝、リコさんがにブースに入ってきた。

「おはようございます、リコさん」

いつも後輩の俺から挨拶するようにしている。

「おはよう、ツジ君。」

いつものリコさんだ。

SVの朝礼が終わり、自席に戻る。

今度はオペレーターさんに向けた朝礼をする時間だ。

リコさんがオペレーターさんの出席確認をし、伝達事項を読み上げる。

「では今日もよろしくお願いします!」

リコさんのこの声からコールセンターの一日が始まる。

何も変わらない、いつもの朝。

だが俺の心の中だけは変化についていけてない。

いつからリコさんはサトさんとして、ミワさんと親子だと信じるようになったのか。

もう俺の考えだけでは、答えにたどり着くことができない状態だった。


13時。

この日、久しぶりにリコさんと休憩が同時刻に重なった。

「リコさん休憩ですよね、一緒にいいですか?」

俺の誘いに

「うん、久しぶりに一緒に食べようか。」

と応じてくれた。

リコさんは休憩室にあるパンの自販機でサンドウィッチと缶コーヒーを購入し

席に座った。

俺は持参したプロテインバーとコーラだ。

「ツジ君って、いつもそんな感じなの?」

俺の昼食に目を向けるリコさん。

「たまにカップラーメンも食べます。」

という俺に、

「そんな食生活じゃだめだよ。」

と笑いながら言うリコさん。

「そういえばリコさん、お婆さんに連絡しました?」

リコさんはハッとした表情で、聞いた俺を見る。

「忘れてた!あの時はおばあちゃんの伝言を聞いてくれてありがとね。」

リコさんが頭を下げる。

「いや、そんなのはいいんですけど、連絡してあげてくださいね。」

俺は一先ずそんなことを聞いてみたが、この機会を無駄にする気はなかった。

「あの、リコさん、サトさんって人、知っています?」

俺は少し探りながらだったので、言葉が尻つぼみ状態でリコさんに聞いてみた。

一瞬止まるリコさん。

「知っているよ、同い年の子でね、ロッカー室でよく話すの。って、なんでツジ君が彼女の事知っているの?」

知っている、リコさんはサトさんの存在を知っているんだ!

「いや、この前ちょっと話す機会があって。」

俺は何とか怪しまれないように言う。

「私も少し前に知り合ったんだけど、ここのオペレーターさんらしくてね、いい子だよ。」

リコさんは続けてそう話してくれた。

「オペレーターさん、ですか…。」

ぽかんとする俺。

「そう、どこの部署か分からないのだけどね。ロッカー室でしか話したこと無いからさ。」

…ロッカー室。

そうか、ロッカー室がリコさんとサトさんには関係しているんだ!

でも俺は女子ロッカーには入れないしなあ。

よし、こうなったら…。



「梶さん!!!」

俺は昼休憩から戻ってきた、オペレーターの梶さんに声を掛けた。

リコさんが業務用スマホを落とした時に、リコさんのものだと教えてくれた人だ。

「ツジさん、お疲れ様です。どうしました?」

笑顔で梶さんが答える。

「あの、ちょっとお願いがありまして…」


―梶さんの場合

ツジさんからいきなり呼び止められてびっくりしちゃった。

でも私、うまくできるかしら…。


ツジさんからお願いされた内容はこうだ。

退勤したリコさんがロッカー室に入ってきた時と、ロッカー室から出る時に、「リコさんお疲れ様です」と声を掛けてほしい。

注意点は、必ず「リコさん」と付けて呼び掛けてほしい、というものだった。

なぜそんな声掛けをするのか、ツジさんは理由を言ってくれなかったし、何かあるのかしら。


退勤後、私はロッカー室でメイクを直しながらリコさんを待った。

まもなく扉が開いた。

リコさんだった。

こんなに早いタイミングでリコさんが入ってきたのでびっくりしたが、私は平然を装い、

「リコさん、お疲れ様でーす!」

と声を掛けた。

「あ、梶さん、お疲れ様です!」

リコさんは笑顔で答えてくれた。

なんだ、なにも変わらない、いつものリコさんじゃないと思った。

リコさんは自分のロッカーを開け、しばらくすると何やら独り言のように話を始めた。

いや、独り言ではない、誰かと話をしているような雰囲気だ。

そういえば誰かが、リコさんがロッカーで一人なのに誰かと話しているような時があるって言っていたなあ。

今ロッカー室にいるのは私とリコさんだけだよね。

念のため、あたりを見回すが、誰もいない。

パタン。

リコさんのロッカーが閉まった。


そしてロッカー室から出ようとするリコさんに

「リコさん、お疲れさまでした!」

と、私は再度、大きな声で言った。

「…」

リコさんは少し足を止めようとしたが、何も言わずに出ていった。

え?

無視された??

嘘、リコさんはそんなことする人じゃないよね。

何が何やらわからずのまま、私もロッカー室を後にした。


廊下を歩いていると、ツジさんが給湯室からのぞき込んで、私においでおいでと手を振った。

あたりに誰もいないことを確認しながら給湯室に入る。

「梶さん、リコさんに会えました?」

ツジさんが真剣な顔で言う。

私はロッカー室での出来事をツジさんに伝えた。

「ロッカーを開ける前と閉めた後か…。で、何か話をしていたんですね。内容は聞けましたか?」

ツジさんの問いかけに、

「ちゃんとは聞けてないですけど。」

私は前置きをし、

「今日も疲れたね。」

「大丈夫だった?」

「店の手伝い」

とか言っていたと思う。

と答えた。

ツジさんは

「ありがとうございます。リコさんは梶さんを無視したわけじゃないですよ、理由は言えないですが。あ、あと、このことは内密にお願いします!」

そう言って給湯室を出ていった。

なんだったの…?

私はへとへとになってしまった。


―ツジカケルの出来事④

梶さんからのロッカー室での出来事を聞いたその後、俺は「佐野誠」に連絡をした。

佐野は学生時代の友人で、今は父親の後を継ぐため精神科医を目指している。

なんとなくだったのだが、佐野に聞けば何かわかるかもしれないと思った。

数回コール音がした後、佐野が電話に出た。

「もしもし、ツジか?久しぶりだなー。」

学生時代とは変わらない佐野の声だ。

「佐野、久しぶり!突然連絡してごめん!」

俺は学生以来、彼に連絡をするのは初めてだったので謝罪から入る。

「佐野、久しぶりに連絡しておいて申し訳ないんだけど、今日って時間あるか?」

「ああ、大丈夫だけど、どうした?会って話すほうがいいのか?」

佐野は久しぶりの連絡にも関わらずそう言ってくれた。

俺と佐野はカフェで待ち合わせをすることにした。


 カフェに着くと佐野はもう席に着いていた。

佐野は俺を見ると立ち上がり「こっちだ」と言うように手を挙げてくれた。

「すまん、いきなり呼び出して」

俺はまず佐野に謝った。

「いいよ、今日は時間が空いていたから。まあ座れよ、久しぶりだなあ。」

佐野は笑顔でそう言ってくれた。


 俺は佐野に、今回の話の目的である、リコさんのことを話してみた。

「佐野、そういうことってあるのか?」

一通り話した俺は佐野に聞いてみる。

佐野は下を向きながら腕組みをして考えている。

「うーん、思い当たるものもあるけど、簡単には言えないよ。」

そして佐野は顔を上げ、こうも言った。

「そういうのはさ、生い立ちにも関わってくるんだ。ツジはそこまでは知らないだろ?」

そうだ。

俺はリコさんの生い立ちまでは知らない。

「それに、俺はまだ一人前の精神科医ではないしな。一度親父にも聞いてみるけどさ。」

佐野は落ち込む俺を見てそう言ってくれた。

「ありがとう」

俺はそれしか言えなかった。

ありがたいことに、佐野は何かわかったら連絡すると言ってくれた。

「でもさ、なんでツジはそこまで躍起になって助けたいわけ?仕事上は問題ないんだろ?」

と佐野に言われ、

「…なんでだろう、わかんない。」

俺はそこまで考えたこともなく、佐野に言われて初めて気づいた。

「好きなの?その先輩のことが。」

佐野から突然ニヤリとした表情で言われ、俺は慌てた。

「違うよ!相手は俺なんてもったいない人だよ。」

と返すのが精いっぱいだった。

そして、今日はここまでにして、また会おうということになった。

俺は何度も佐野に礼を言い、その日は別れた。


次の日。

俺が休憩室に行くと、リコさんがカップラーメンを食べていた。

「今日もお昼を一緒にしていいですか?」

俺はリコさんの席に行って伺った。

「あーツジ君、どうぞ、どうぞ!昨日ツジ君がカップラーメンの話をしていたから、食べたくなっちゃったよ。」

リコさんはそう言って美味しそうに食べていた。

俺は今日もプロテインバーにコーラだった。

「お婆さんに連絡はしました?」

リコさんに昨日と同じ質問をする俺。

「今日ね、するつもりよ。」

慌ててリコさんは言った。

「そういえば…お婆さんにリコさんの大学時代の写真を見せてもらいました。あんなに良い大学の出身なんですね。」

そういった俺にリコさんは

「おばあちゃん、そんな写真見せたの?はずかしい!これは連絡しないとまずいわね。

またその写真使われたら困るわ!」

と顔を赤くして言った。

「やっぱり、かなり勉強したんですか?」

俺はあまり勉強が好きではなかったので聞いてみる。

「勉強なんて嫌いよ。でも両親が教師なのもあってうるさかったの。小学生から塾や習い事ばかりで、自分の自由な時間なんてなかったわ。結局両親は、私を世間的に良く見せたかっただけなのよ。しつけや教育に厳しかったのは、私のためじゃなかったんだってわかったの。」

リコさんは強い口調で言った。

こんなリコさんを見るのは初めてかもしれない。

リコさんとサトさんの別人格が生まれたのは、両親の厳しさが原因になっているのだろうか。

昨日の佐野の話から考える俺だった。


午後になり、大きな配達物がブースに届いた。

「えーっと、谷口さんっていらっしゃいますか?」

ビルの受付の人が、台車に大きな荷物を乗せてブースの出入り口に立っている。

「あ、はーい!私です。すみません、お手数をおかけして。」

リコさんは小走りに受付の人の所へ行った。

そして台車を引いて、ブースの邪魔にならないところへ移動させた。

「あの大きな荷物はなんだ?」

南マネージャーがリコさんに聞いている。

「すみません、今日中に持ち帰りますので、しばらく置かせてください。」

リコさんは、それが何かを告げずに自席に戻ってきた。

「あれ、なんなんですか?」

小声で俺はリコさんに聞いてみた。

「あれ?あれは、フィットネスマシーン。」

と笑いながらリコさんが答える。

「え?なんでそれをブースに届けてもらったんですか?」

いくらなんでもフィットネスマシーンをブースで使う気はないだろう。

「本当は自宅に届けてもらうように注文したのよ。だけど、いつ行っても留守だって言われてね、このままだと返品するってメールが来たの。それは困るから、仕方なくここに届けてもらったってわけ。」

そりゃあ、配達員がいつ行っても留守だよな。

リコさんは今“いこい”に住んでいるわけだし。

 そこで俺はひらめいた!

「リコさん、あの荷物大きいし、きっと重いでしょう。俺がリコさんの家まで運びますよ。」

と半ば強引だが提案してみた。

「え、悪いわよ。それに私の家は近いし、台車もあるから大丈夫よ。」

そりゃ断るよな、俺はわかっていた。

「マンションの何階ですか?上の階なら大変ですよ。俺、手伝います!」

俺はあきらめないぞ!

「マンションは302だから…3階になるんだけど、でも…。」

「3階ならこの荷物はきついですよ。」

「そうねえ…じゃあ、お言葉に甘えます。」

しぶしぶなのかもしれないが、リコさんは承諾してくれた。

よし!これで今回の問題が進展するはずだ。

単純なのか、俺はそう確信していた。


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