ようこそ深川不動産へ

惟風

不審者の撃退実績多数!

「サメの出ない部屋に住みたいんですけど」


 人生で二度とすることのないであろうお願いが口をついて出た。

「……あー、ちょっとこの辺では難しいかもですね……」

 小太りで人当たりの良い男性社員は、心底困ったように頭を掻いた。嘘でしょ私の希望ってそんなワガママな条件なの?


 社会人になるのを期に、実家を出ることにした。両親は渋っていたけど、就職先が遠いこともあって何とか説き伏せた。

「女性の一人暮らし用物件に強い」とネットで評判の不動産屋が職場の近くにあると知って、相談に来た。予算や駅からの距離、風呂トイレ別など希望の条件は事前にある程度固めていたけれど、サメの要・不要について考えなくてはいけないとは思わなかった。普通思わない。


「弊社の目玉、セキュリティ・シャークです。痴漢や泥棒、ストーカーなんかが侵入しようとしてきても即座に退治してくれる屈強なサメがお部屋内に常駐していまして」

 男性社員はにこやかにパンフレットを開いて見せる。確かにそれは防犯の観点からは独身女性にオススメなのかもしれない。何ならファミリー層にもウケるだろう。いや、でもだからって、サメが同じ室内にいるのはちょっと。

「初の一人暮らしであれば尚更、不安が多いことでしょう。セキュリティはサメに任せて、社会の荒波を乗りこなしてください。サメだけに」

 何も上手くないんだけど、あまりにも堂々と言われると頼もしく思えてきた。慣れない土地、慣れない仕事で疲弊した上に自衛にまで気を回すことがお前なんかにできるのかと聞かれたら自信がない。実際、父に似たことを指摘された時はしどろもどろになってしまった。

 改めて見ると、写真の中のサメは父よりもずっと強そうだ……いや待ってやっぱりダメです、サメて。

「あっ、もしかして後処理とかを気にされてます? 大丈夫です、食い散らかしてお部屋を汚すようなことはございません。弊社は社員教育が徹底しておりまして、一呑みでりとげるマナーの良いモノしか揃えておりませんので」

 サメ、社員なんだ。


 口調は柔らかだけどそこそこ押しの強い男性社員に「写真で見るのと実際に御覧になるのとではやはり違いますから」と、内見に連れ出されてしまった。

 いくつか見て回ったけれど、どこも利便性が高く清潔感があって、こんな素敵な部屋で伸び伸びと暮らせたら……と思えるような物件ばかりだった。サメがいることを除いては。どうしてサメがいるの。玄関開けたら二秒でサメて。

 いやだっておかしいでしょ。……いや、おかしくない……のか……?

 四件目を見終えた辺りで、自分の感覚の方が変なのかと不安になってきた。加えてどのサメも礼儀正しく、気持ちの良い方々ばかりだった。胸鰭で握手を求められた。鋭い牙を光らせて元気な挨拶をしてくれた。爽やかだった。

 でも、それでもやっぱり。こんな物件と知られたら、苦労して説得した両親にすぐに連れ戻されてしまう。とはいえ、今日決めてしまいたい。引越しの手続きや荷造りを考えると、迷っている時間的余裕はなかった。

「どうしても部屋にサメがいるのが気になるようでしたら、一件だけお見せできるお部屋がございますが……」

 あまり気乗りのしない様子で、男性社員が車のカーナビをセットした。やや遠いマンションへ向かうとのことだった。

「すみません、注文のうるさい客で……」

「いえいえ。住環境というのは大切です、納得いくまで悩まれてください」

 ろくに休憩もとらずにあちこちを見て回って疲れたせいか、私は後部座席でウトウトしてしまった。


「お客様、到着しました」

 起こされた時には、車は一軒の建物の前に停車していた。夕闇に、巨大な三角形のシルエットが浮かび上がる。

「…………」

 呆れた表情を隠せなかった。

「待ってくださいおっしゃりたいことはよくわかります。ええ。まあこんなところで立ち話も何ですし、とりあえず中に入りませんか」

 返事をする前に、ポケットの中のスマホが震えた。母からの着信だった。朝から何度もかかってきているけれど、出ると長くなってしまうのでずっと放置している。メールもいくつか着ている。入居先を決めてから返事を返すつもりでいた。

 一人暮らしにずっと憧れ続けていたこと、実家を出るために粘り強く交渉した日々などが思い出された。母よりも、父の方が頑固だった。

 ……見るだけなら、と思い直して促されるままに建物に入る。入口の地面と天井に白い突起物がギザギザと並んでいるのは見なかったことにした。エレベーターに乗り込んだ。

 がらんとした1Kの室内に通される。明るい壁紙がやや赤みががって見えるのは気の所為ではない。少し足が沈み込むのは、決してクッションフロアではない。社員はハンカチで額の汗を拭いていた。外よりも暖かい、いや、どこか湿気て生暖かい。


 ぬちゃ


 恐る恐る触れた壁紙から、粘っこい感触が伝わってきた。見ると、指先に糸が引いていた。

「あ、後でよく手洗いをしてくださいね」

「…………」

 建築物にしては柔らかすぎる壁を見つめて、とうとう私は叫んだ。


 シャーク・ハウスだ!

 ここはサメの腹の中だ!


「消化されちゃうじゃないですか!」

「それは大丈夫です。十時間以上同じ部屋に滞在し続けない限り消化機能は働きません。トイレや浴室に行くだけでリセットされますし」

「ロングスリーパーには致命的では」

「……」

「否定してくださいよ!」

 まあ私はどちらかというとショートスリーパーだけれど。

「なら問題ありませんね。部屋の中にはサメはいないですし、いかがでしょうか。駅から徒歩四十分なことだけが難点ですが……」

「デメリットが交通の便だけだと言い切る矜持だけは素晴らしいと思います」

 また、ポケットが震えた。


 不動産屋を後にする頃には、すっかり日が暮れていた。夕食を求めて胃が鳴いている。座り込みたいほどの疲労を押し殺して、私はスマホを取り出した。通話はワンコールで繋がった。


「あ、もしもしお母さん? ゴメンゴメンずっと不動産屋さんと話し込んでて全然出るタイミングなくて……はい……はい、すみませ……申し訳ありませんでした以後気をつけます……そうですね、いつも心配させてごめんなさい……違うの、お母さんが嫌いだから無視したとかじゃないの本当に、ねえ泣かないでお願い、ちゃんとお父さんにも私が謝るからお母さんの育て方が悪いんじゃなくて私自身が生まれつき馬鹿でトロいせいなんですって、違う違うどっちに似たとかじゃないねえ聞いて、えっと……それで、引っ越し先決まったんだ。内装綺麗だし、良い部屋だよ。家賃も相場よりオマケしてもらえたから、ちゃんと仕送りもできるし……だから、お母さんとお父さんで見に来てほしい……うん……二人共、私みたいな出来損ない育てるのに疲れたよね。沢山おもてなしするから、泊まってゆっくりしてって。うん、約束だよ」




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