第2話 ラブコメ展開になんてなるはずがない
内装は比較的綺麗だった。
柄のない白い壁、木板を並べたようなフローリング。
華やかさはほとんどないが、大学生の男が一人暮らしをする分には何の問題もないであろう部屋づくり。
「一人暮らしで1LDKって、結構広く感じられると思いますよ」
「へぇ……確かになぁ」
リビングに通され、俺は部屋全体を見回した。
テーブルやテレビなど生活に必要なものはある程度備え付けられており、ここに住む場合はそのまま使ってもいいらしい。
一軒家の実家にはさすがに及ばないが、俺一人で住むのは愚か麻布さんがいても全く問題のない広さだ。
「大学生で広いお部屋をご希望される方って意外と多いみたいですよ」
「そうなんですか?」
「はい。なんでもサークルで仲良くなった美人の先輩を泥酔させて連れ込みたい方が多いみたいで」
「それ絶対誰かの個人情報ですよね?」
今日が内見の案内役初日だと言っていたがそれも本当かどうか怪しくなってくる。
「ちなみに、入るならテニスか漫研がおすすめですよ。チョロい美少女がいる可能性高いので」
「だから誰の経験談なのそれ!?」
「それじゃあ次はお風呂をご案内いたしますね」
「話したくない時の話題の逸らし方だ……」
ツッコミつつも二人で脱衣所へ移動する。
「それじゃあ脱ぎましょうか」
「……え?」
「冗談ですよ。なにベルトに手かけてるんですか?」
「かけてないわ!!」
風評被害にも程がある。
誰か外で会話だけ聞いてたら普通に勘違いされかねない。
きっぱりと否定すると、麻布さんは楽しそうに笑った。
「ふふっ、今日はあなたと初めてを迎えられて嬉しいです」
「『初めて』の意味が違いすぎる!」
「ちなみにここのお隣に住むお姉さんのスリーサイズは上から86, 60, 88ですよ」
「もう意味が分からない……」
なんで急にお隣のお姉さんの話になるのか。
というかなんでこの人そんな情報持ってるの?
「今、どうやってお隣のお姉さんをここに連れ込もうか考えてました?」
「いいえ全く」
「あら残念」
なにが残念なのかはまったくもって不明だが、多分考えたら負けだろうな。
「ところで、お風呂の広さはどうですか?」
「ああ、えっと、思ってたより広いですね」
「湯船に入ってみても大丈夫ですよ。もちろんお洋服もそのままで大丈夫です」
「そうなんですか、じゃあ……」
湯船に入って腰を下ろし、足を伸ばしてみる。
完全には伸び切らないが十分リラックスできる大きさだ。
「それじゃあ私も失礼して……っと」
「ちょっとちょっと?」
遠慮する気配もなく俺の足の間に麻布さんが腰掛け足を伸ばしてくる。
「私の位置に、いつか彼女さんが来るといいですね」
「余計なお世話です」
それだけ言って俺は湯船から立ち上がった。
「わ、ちょっと待ってくださ──ぁ」
「っとと……大丈夫ですか?」
急いで立ちあがろうとして転びかけた麻布さんを受け止める。
小さいながらも女性らしい柔らかさが俺に触れる。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます……っ」
「変なことばっかりしようとするからですよ」
「……そうかもですね」
それから、少し頬を赤くした麻布さんがふざけることはもうなかった。
転んだのがよほど恥ずかしかったんだろうか。
以降の手際は完璧で、本当にプロだったんだなぁと思わせられる進行でスムーズに内見が進み、ついに全ての部屋を見終わるに至った。
問題発言もまったく無く、結果的には良い内見だったと感じる。
「……あの、今日、どうでした?」
玄関で靴を履き、外に出ようとした時だった。
うつむきがちに麻布さんが訊いてくる。
「楽しかった……ですか?」
狭い玄関に二人で並ぶとどうしても距離が縮まって、相手の感情が読めてしまう。
緊張。
不安。
本来なら俺が抱いているはずのその感情を、今は麻布さんの揺れる瞳が語っている。
もし仮に、彼女の今日の言葉が全て真実だったとして。
内見の案内は本当に今日が初めてで、自分も本当に緊張していたとして。
でも、だとしたら、この瞳はなんなのか。
案内が全て終わった今になって、どうして今日一番の不安を滲ませているのか。
その真意が分からずに俺が黙り込んでしまうと、麻布さんは俺を揶揄うでもなくただ少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「……実は私、大学にはあんまり良い思い出がないんです。友達とバカやったとか、彼氏ができたとか、授業が面白かったとか、サークルが楽しかったとか……そういうの、全然ないんです」
それでも何かを懐かしむように彼女は語り、俺を弱々しく見上げてくる。
「生活能力なんてほとんどないのに、経験のためだって親に一人暮らしさせられて、慣れないことやってるから、大学で友達も一人もできなくて。……まあ、全部言い訳なんですけどね、後半は特に」
大学は、基本的にはどう転んでも社会人になる直前の学び場だ。
そこでは社会人の練習として高校までの勉強とは比べ物にならないほど『人間関係をうまく作って利用する』ことを求められ、逆にそれを失敗した人間には『何もない』という虚無と退屈さが送られる。
私はその失敗した側の人間なんだと、麻布さんは笑った。
「だけどね……そうやって失敗した側の人間にしかできないこと、感じられないことも、本当はたくさんあったんだって今の私は知っている」
「だから、このお仕事を……?」
「……うん」
もはや敬語で語れる内容ではないと彼女の言葉が伝えてくる。
「引越しとかそういうのって、その人にとっては人生のビッグイベントなんだよ。そりゃあ十回も二十回も引っ越してたら違うかもだけど、ほとんどの人はそうじゃない。何か新しいことに挑戦するために、新しい生活を始めようとしてる。……私はね、応援したいんだ……そういう人たちのこと」
自分が失敗しているからこそ、他の人には失敗してほしくない。
不安や緊張に共感できるからこそ、それに負けないでほしいと願っている。
そんな想いを追いかけて、この人は今不動産屋さんで働いているのだ。
「ごめんね。今日はいっぱい変なこと言っちゃってたでしょ」
そう言って苦笑した麻布さんだったが、俺にはその笑みが暖かく感じられた。
年上のお姉さん、はたまた人生の先輩。
そんな人としての厚みを俺は彼女から感じるようになっていた。
「緊張してほしくなかったの。これから始まる大学生活、あなたはきっと苦労する。みんな一人残らず苦労する。でもその中で、あなたには楽しむことを忘れないでいて欲しい」
だから、『楽しかった?』と。
改めて、もう一度彼女は訊いてきた。
それにどう答えるべきか一瞬悩んでから、俺は笑って彼女の頭に手を伸ばすことにした。
「おかげさまで」
「……っ」
手を前後に動かして、そっと頭を撫でる。
「それなら、よかった」
満足げにはにかんだ麻布さんの姿が少しだけ魅力的に映る。
「……けど、頭撫でるのはセクハラだよ?」
「今せっかくいい雰囲気なんだから水を差すようなこと言わないでください」
「私、君よりも年上のお姉さんなんだけどなぁ」
「知ってますよ」
「……そ」
共感できるとは言えないが、彼女が今まで経験してきた苦労は誰かが労ってあげるべきだ。
それが俺……とも言えないが、今はそうしたいのだから拒絶されるまでは続けさせてもらう。
「……ありがとう。もういいよ、疲れちゃうでしょ」
しばらくしてからそう言われ、俺は彼女の頭から手を退けた。
「はぁっ、なんだか暑くなってきちゃった。このあと予定がないならお昼ご飯奢ってあげようか? あ、なんなら手作りでもいいけど」
「手作りって……生活能力ないんですよね?」
「い、今はもうさすがにあります〜! ひどいこと言わないでよねー」
くちびるを尖らせつつも、玄関の扉を開けて俺が出るのを待っていてくれる。
「……よし、こうなったら、嫌でも私の料理食べさてやる」
「げ……」
「今『げ』って言った!? 私これでもちゃんと乙女の端くれとして……まあいい。実力で黙らせてあげるから」
得意げに腕を組んだ麻布さんだったが、まず前提がおかしいことに気づいているのだろうか。
「そもそも、どこで料理するつもりなんですか? 俺の家は電車乗って行かないとだし、ホテル借りるとか?」
「ほ、ホテルにも君の実家にも行かないから!」
なにしに行くつもりなの……と呟かれるが、料理以外なんだというのか。
「料理するのは、ここ」
「……?」
いつの間にか隣の部屋の前まで移動していた麻布さんが、そのドアノブに手をかけている。
そう言えば、隣人のスリーサイズとかいう謎の情報を持ってたなこの人。
「ほら、遠慮なく入っていいから」
「……いや、俺はそこが誰の部屋かも分からないんですが」
「私の部屋」
「……?」
「信じてないでしょ。鍵だってちゃんともってるんだからね?」
「……え」
「住んでるのも私一人だけだから、誰に遠慮する必要もないってこと。分かった?」
「…………わからない」
「なんで!? 結構真面目に説明したつもりなんだけど!?」
いや、分からないのはそこじゃない。
説明は理解した。
理解したが、状況がわからない。
そうやって俺が固まっていると、耐えかねたように麻布さんが俺の右手を掴んできた。
「……せっかく勇気出して誘ってるんだから、早くしてよね。春からはお隣同士、仲良くしよう?」
そうして俺の人生初の内見が終わり、春、大学生活が始まるのだった。
ラブコメ展開になんてなるはずがないアパートの内見 Ab @shadow-night
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