聖域

犀川 よう

聖域

 わたしの住む集落にはプライベートなど殆ど無く、そんな田舎の中学校で恋愛事を持ち込もうなどとしたならば、全校どころか集落全体に知れ渡ってしまうくらいに小さな場所だった。そんな狭い世界に生きている、わたし達思春期の中学生徒にとっては、恋愛とは、死活を掛けた恥ずかしい隠し事でしかなった。このささやかな現実世界では存在が難しい想いというのがあって、法のような見えないけど束縛されるものが確かに存在していた。だから、もしも誰かが誰かを好きで付き合おうとするならば、それをこっそりと成就するに至る為の舞台は、集落にある寂れた神社の境内にしかなかった。大人には数十段の階段を登るだけの価値の無いその神社だけが、青春の中で生きているわたし達の聖域だった。


 中学二年の運動会も終わり、田んぼの稲穂もすっかり狩りつくされた季節に、わたしの友人がある男子から告白をされた。この日は彼女が彼にその返事をしなければならない日だった。この日までに彼女はわたしだけに、誰にも知られてはいけない事が自分の身に降りかかってしまった事、その事に戸惑いながらも恋というものには些かの興味があるという事、彼がものすごいタイプという訳では無いが断る程ではない事、彼の父親が村役場の偉い人でもし告白を受入れたら大人達が何と言うのか心配である事、など、色々な悩みを色々な角度から捏ね繰り回してわたしに相談してきた。わたしはそんな彼女の心が彷徨ったり、時には躍るような気持ちに飲まれている様をずっと横目で見ながら話しを聞いていた。彼女は初めての異性の好意に戸惑いながらも、どこか誇らしげな顔をして悩んでいた。そのような恋愛相談をわたしの部屋で聞くのは、高校を出て都会に進学した姉以来の事だった。最近よく眠れないと言いながら、わたしの部屋のベッドでゴロゴロしながら相談という甘い話を続ける彼女は、一切わたしに遠慮を見せなかった。わたしは彼女が何よりも大事だったから、親身にその話に付き合っていた。彼女の中学生としては大き目な胸がベッドに押し付けられる度に、自分の胸の奥がズキンと痛むような気持になりながらも、彼女の話を黙って聞いて、彼女の結論を待っていた。


 何日か悶えた末、返事をする期限のこの日に、とうとう彼女の結論が出た。わたしにはまだそれを教えてはくれなかったが、彼女はわたしのそれまでの労に報いる為なのか、あるいは単純に一人で行くのが恥ずかしいのか、一緒についてきてほしいと言ってきた。私もその結末を知りたかったら、黙って頷いて、一緒にあの階段を登る事にした。彼には先に拝殿の脇にある小さな納屋の前に来るよう伝えてあった。わたし達は黙々と階段を登った。わたしは彼女の三、四段後ろから彼女を見上げていた。田舎くさい制服のスカートが少しだけ短くなっていて、横風に揺られている髪もいつもより丁寧に縛られていた。わたしはその姿をみて、ああ、と言葉にならない想いを感じながら階段を登り続けた。あと十何段かで鳥居をくぐり、荒んだ拝殿を目の前にし、彼の待つ場所に至るのだろうと思うと、私は緊張した。きっと彼女の胸の中はもっと暴れているに違いないと心配になった。


 階段を登り切り、彼の元まで辿り着いた。彼女は遅くなってごめんね、と彼に伝えた。彼はそんなことないよ、こちらこそごめんね、と言った。わたしも来る事を彼女から聞いているので、彼はわたしに黙って挨拶をした。わたしも同じように挨拶をして、彼女の少し斜め後ろに下がった。階段を登り切ったところから、横風が止み、彼女の髪と制服のリボンの揺れはおさまっていた。

 ――それじゃあ、返事を聞かせてもらっても、いいかな? 彼は恐らく、今までに体験した事が無いくらいに緊張しているようだった。事実、声がいくらか掠れていて、かな? の部分が聞こえにくかった。わたしは彼女に彼の言葉が伝わっているか心配になり横顔を見た。彼女は彼を真っ直ぐ見ていて、彼の言葉を正面から受けていた。わたしは、これからここで彼女の結論を聞くのだと観念した。

 ついに、彼と、わたしの耳に、彼女の言葉が入る事になった。――ごめんなさい。お付き合いはできません、と、彼女のか細い声が漏れた。本当に静かな一瞬だった。わたしも、おそらく彼も、その時間が永遠に感じたに違いなかった。彼の顔は青ざめていた。ごめんなさい、彼女はもう一度、謝った。彼はしばらくして我に返り、――わかった、返事をしてくれてありがとう、と軽くお辞儀をすると、鳥居に向かって走っていった。風は止んだままだった。彼の足音だけがこの境内の音になっていた。


 わたしは彼女に見られぬよう、下を向いた。下を向いて――笑った。これで、そう、これで、彼女を奪われずに済んだことに胸の中の靄が晴れ、安堵の気持ちで胸が高鳴った。この小さな世界で本当に誰にも言えない、わたしの秘密にしていた欲望が継続できることに心の底から喜んだ。

 彼女はわたしの名前を呼んだ。わたしは普段の顔を作り直して顔を上げた。彼女は、散々付き合わせてごめんね、と言った。わたしは彼女に気の毒そうな顔をしながら、ううん。あなたこそ、大変だったね、と伝えて、彼女の肩に手を乗せた。緊張が解けたのか、彼女は軽く震えると小さな嗚咽を漏らした。風がまた吹き始めて、落ち葉がガサガサと足元を舞って音を立てた。

 わたしは彼女を抱きしめながら、あやすように頭を撫でた。彼女の髪から甘い香りがした。わたしは、もう大丈夫から。わたしがついているから、もう大丈夫だから、と慰めた。彼女はわたしの真意のひとかけらも理解することなく、うん、うん、と頷いていた。わたしは自分の邪なときめきを聴かれぬように、彼女の胸元から少しだけ離れながら、彼女を抱きしめ続けた。そして、いつかこの聖域で、わたしも彼女に振られる日が来るのだろうと思いながらも、この時はまだ、諦めきれない想いが胸の高まりとなって、ときめいていたのだった。


境内を

訪ねた矢先

風が止み

歓迎されたと

心ときめく

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