この列車は「あの世」行き
此糸桜樺
この世
僕には三分以内にやらなければならないことがあった。
――まもなく『あの世』行きの列車が到着します。
このホームアナウンスが流れると、約三分後に電車が到着する。
周囲にはキャリーバッグを持った人々がホームに溢れかえり、家族や友人たちと最後の別れを惜しんでいる。互いに涙を流す者もいれば、笑顔のお別れにしようと気丈に振舞っている者もいる。
死者と生者の最後の別れ。
駅のホームには、鉛のような重苦しい雰囲気が漂っていた。
「もうすぐ時間かあ」
「……ああ」
名残惜しそうに呟く由美の言葉に、僕はできるだけ短く頷いた。一方、由美は今日何度目か分からないため息をついた。
「もうちょっとだけでも、生きていてくれても良かったのに……」
「仕方ない。事故だったし」
「そんなあ。ねえ、生き返ってよ。気合いで」
「いや、無茶言うなって」
「えー」
僕が困ったように言えば、由美は頬を軽く膨らませ、唇を尖らせた。いわゆる、ふくれっ面というやつである。
ホームの時計を見れば、列車到着まであと残り二分三〇秒になっていた。
「……由美、言わなくちゃいけないことがあるんだ」
「なに?」
先ほどから愚痴ばかり垂れ流していた彼女も、僕の言葉にようやく口を止めた。
「僕は、君と一緒に行くことはできない」
一瞬の静寂が、僕らの間を支配した。
由美は今にも泣きそうな顔で、ぎゅっとスカートの裾をつかんだ。
「……どうして」
「僕は今から『あの世』行きの列車に乗る。いくらなんでも、まだ生きている君を連れていくわけにはいかないよ」
「……でも」
「由美」
「……だって!!」
由美の目にじわりと涙が浮かんだ。
「このままいけば、私は、この列車に乗れるじゃない!」
「駄目だ」
由美の頬に涙の線がつうと伝った。
「お願い、連れてって」
「駄目だ。僕は、由美にこの世界で生きていてほしいんだ。……『地獄』がどんなところか分かってるだろう?」
あの世──『地獄』行きの列車。
『あの世』行きの列車には二種類あり、地獄行きと天国行きがある。切符売り場で切符を買うとき、『〇〇行き』と印字されているから、その行き先を見て各々電車に乗る仕組みだ。
改札を通る前に死神から聞いた説明だと、人間のほとんどは天国に行くということだった。それこそ、重い犯罪でもしない限り地獄には行かないという。
しかし、僕の切符に印字されていたのは『地獄』行きだった。
分かっていたことだった。僕の過去が罪であり悪であることは、司法からみたら一目瞭然だからだ。
僕には人を殺めた過去がある。
由美の父親を、この手で。
「で、でも! あれは私を助けようとしたからで……! もともと悪いのはあなたじゃないわ!」
「ああ。でも、僕が人を殺してしまったことは事実だ。あのときちゃんと裁きを受けていれば、また違っていたのかもしれない。でも僕は……それを隠して逃亡してしまった」
由美は幼い頃から虐待にあっていた。由美の父親は彼女をストレスのはけ口として扱っており、よく暴力も振るっていた。
だから、由美が僕と付き合っていることを知るや否や、激高してきたのである。父親は由美と僕に向かって包丁を向けた。
もしかしたら殺す気はなかったのかもしれない。ただ少し痛めつけてやる程度だったのかもしれない。ほんの少しの脅しのつもりだったのかもしれない。
しかし、突然向けられた刃物に、僕はパニックになってしまった。
僕は無我夢中になって父親を止めた。
取っ組み合いのようになり、棚の置物が吹っ飛んだ。
椅子が倒れ、花瓶が落ち、ガラスコップが割れた。
気が付いたら、由美の父親は床に倒れていた。
赤い血だまりがカーペットに広がり、背中には深々と包丁が刺さっていた。
――『地獄』行きの列車が間もなく到着します。黄色い線の内側にお並びください。
「そんなこと言ったら、私だって共犯よ……。私もその場にいたのに、あなたと一緒に逃げてしまった。警察に行こうって言うあなたを引き留めて、逃げることを提案してしまった……」
僕と由美は、今まで二ヶ月近く逃亡生活を送っていた。
しかし、その途中で、僕はトラック事故に巻き込まれてしまった。多分、即死だったのだと思う。どんな風に死んだのか、どんな最期を遂げたのか……あまり詳しいことは覚えていないけれど。
「由美、今からでも遅くない。出頭するんだ。そして裁きを受けるんだ。僕が生前できなかったことをやってほしい。罪を償ってほしい。お願いだ、僕の願いを聞いてくれ」
「……でも、私だってどうせ地獄行きよ。出頭したって何も変わらないわ。それなら、このままあなたと死んだ方がいいじゃない」
たまに現世の人が、死者に着いてこようとするときがある。
結論から言えば、生きている者も一緒にあの世へ行くことは可能だ。
簡単なことである。死者とともに乗り込めばいい。生者が「行きたい」と望むのであれば、いとも簡単に乗り込むことができるのだ。
地獄に落ちる予定の者が天国行きの電車に乗ることはできないが、地獄行きの予定の者が地獄行きの電車に乗ることはできる。
「でも、僕は君に生きていてほしいんだ。ここで死んでなんかほしくない……!」
「……嫌っ! 私も行かせて!」
電車が到着し、ドアが開いた。僕が電車に乗ると、由美は無理やりにでも電車に乗り込もうとしてくる。
僕は思い切り彼女を突き飛ばした。由美はホームにどんっと尻もちをつき、恨めしそうに僕を睨んだ。
ホームに発車音楽が流れる。
――ドアが閉まります。ご注意ください。
「由美。元気で……!」
恋人との最後の別れが地獄行きの電車なんて、辛かった。できることなら由美といつまでも一緒にいたかった。
しかし、生きている者をあの世送りにすることはできない。それは恋人としての、せめてもの意地だった。
「……私、絶対、会いにいくから! 裁きを受けて、この世界で生きて、全てが終わったら……必ずあなたに会いに行く!」
「ああ、待ってるよ。……地獄の底で、また会おう」
ドアが閉まる。
その瞬間、風がふわりと立った。
ほのかに立つ風は、この世の最後の慈悲でもあった。
◇
ホームに突き飛ばされた由美は、ぐっと涙をぬぐった。
ドアが閉まり、ホーム音楽の残響が響く。するとその途端、電車の中が真っ赤な明かりに包まれた。
なに? 何が起こったの?
由美は、列車からただならぬ雰囲気を感じ取った。困惑しながらも、ガラス越しに、恋人と不気味な赤い光を凝視する。
──『地獄』行きの列車が出発します。
列車がゆっくりと動き出した。その間にも、列車の中の赤い光はだんだんと濃くなってきている。
怪しく、恐ろしささえ感じる、鮮烈な赤。
「あああああああああああ」
まず由美の耳に聞こえたのは、乗客らの悲鳴だった。
瞬く間に全ての乗客らの表情が歪んでいく。
洋服は焼け、肌はただれ、眼球が飛び出す。
髪はばらばらと落ち、皮膚は溶け、骨が浮き上がる。
己を掻きむしっている者もいれば、ガラス窓にへばり付き叫び声をあげている者もいる。
まさに地獄……。突然の出来事に、由美は、何が起きたのか瞬時に理解することができなかった。他にホームにいた生者も由美と同じ気持ちらしく、目を見開き、固まったまま動けないでいる。
しかし電車は、理解する必要などないとでも嘲笑うかのように、猛スピードで線路の上を駆けていった。
あっという間に地平線上へ消え、もうすでに一欠片の残像すら見えない。
ホームに残された生者たちは、未だ誰一人として、目の前で起きた光景に理解が追いついていなかった。もしかしたら「理解したくない」というのが本音かもしれない。
由美はしばらく呆然としていた。地獄を圧縮したような、列車の景色が脳裏に焼き付いて離れないのである。
あれが、地獄……なの?
列車がいなくなり、がらんと静まり返った駅のホームに生ぬるい風が吹いた。
ゆるく吹く風が、涙で濡れた頬を不快に舐める。
ホームから見えるこの赤い空は、この世の夕焼けなのか、それともあの世の空なのか――由美に判断することはできなかった。
この列車は「あの世」行き 此糸桜樺 @Kabazakura
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