第1話
後部座席にスーツ姿の女性スパイを乗せた俺は、政府機関の建物で賑わう夜のワシントンD.C.をドライブしていた。
国家保安委員会の中でも対外諜報任務を担当する第一総局は、規模も練度も世界屈指の実力を誇る。
女性スパイはもちろん美人で聡明だし、男性についても、俺のような運転手はともかく工作員については顔と頭の良い人間が多い。
現在俺の車に乗っている女性スパイも例に漏れず、琥珀色の妖艶な瞳を持つ美人さんだ。
国防総省の情報将校や各省庁の官僚を手玉に取るぐらい彼女にとっては造作もないのだろう。ハニートラップの訓練はKGB工作員にとって必修だ。
最も、機密にすら関わらない俺のような運転手には縁のない世界だが。
車内は沈黙していて、エンジンの心地よい駆動音だけが、やけに響いていた。
「ねえ運転手さん」
そんな中、名前も知らない上に縁もない女性スパイが、唐突に俺に話しかけてきた。
「はい。なんでしょう?」
俺は会話に応じる。
「貴方は、何年ぐらいこの仕事をやっているの?」
「ええ、まあ18の時から10年ぐらいになりますね。アメリカに赴任したのは3年ぐらい前ですので、こっちの大使館では、まだ新人ですが」
「へえ。私はこっちにきて2年だから、貴方の方が先輩なのね。運転手でも、10年生き残っている人は初めて見たわ。みんな、数年で捕まってしまうから」
「恐縮です」
俺は軽く頭を下げる。赤色灯を灯したパトカーが、スピード違反車を追いかけて俺の車を追い越した。
「私はモスクワ大学出身なの。卒業後勧誘されてね」
彼女は感慨深げにそう言って、艶やかな動作でシートに身を沈める。仄かに香水の香りが車内に広がった。
「私はシベリアの出身なんですよ。
「あの辺りから、モスクワに」
「はい。ですが街に出てすぐ仕事をクビになり、金欠になった私は17歳の日に車泥棒を働き、警察車両3台と盗んだ高級車をお釈迦にしてしまいましてね」
俺は、軽く身の上を語った。自分でも、あの時は非常に愚かだったと思う。大人しくシベリアで凍った土に鍬を振り下ろしているべきだった。
「ふっ」
女性スパイは堪えきれなかったらしく、軽く笑う。
「その時に盗んだ高級車の持ち主が、第一総局第一課の副課長だったんです。それで、ラーゲリの御客様か運営か、どっちになりたいか選ばされて結局ここにいます」
「一歩間違えていたら、そのままシベリアに逆戻りだった訳ね」
女性スパイは、鈴を転がすような声で笑いながらそう言った。
「ええ。そうですね。最も、今でも一歩間違えたら
俺はそう言う。
「大丈夫、その時はKRラインの将校でも籠絡して見逃してもらうわ」
やはり、諜報機関の女性は強いな。少し前の政変の時も、男性スパイより女性スパイの方が動揺も少なかった。俺もそのくらいの力が欲しい。
一瞬、自分がハニートラップをやっているところを想像しかけたが、込み上げてきた吐き気が即座にそれを打ち消した。
やはり諜報員というのはすごいものだ。頭もいい。顔もいい。根性もある。その上で国家のために汚れ仕事へ身を沈める。
並大抵の覚悟が必要だろう。
俺は感心しつつ、ホテルの前に車を路駐させた。
「帰りには、またKRラインの運転手がここに来ます。それでは、ご武運を」
「貴方も頑張ってね」
女性スパイは最後にウインクして、車を後にした。俺は軽く一礼して見送る。
彼女がホテルに消えるのを待ってから、俺は次の目的地目指して車を発進させた。
第一総局の日常 曇空 鈍縒 @sora2021
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