告白日和

朝田さやか

サボン

 私には三分以内にやらなければならないことがあった。


 バス停に並ぶ先輩の後ろ姿が見える。三月一日、晴れのち晴れのち晴れ。まだ桜は咲いていない。肌寒い強風が終始吹き荒れて、前髪をぐちゃぐちゃにする。今からの三分のために朝二十分、不器用な手でアイロンを握って巻いては梳かし、巻いては梳かしを繰り返した時間が虚無に消えていく。今までの先輩を想った時間も全部そうだ。


 ――分かりました。じゃあ卒業式の後も絶対告白するんで、覚悟しといてください。


 一度目に告白した思い出は、汗とカビと古さが入り混じった、トイレよりも近づき難い匂いのなか。指差して言い逃げた去年の夏。恋人は卓球と勉強で、「高校の間はそういうの、いいかな」とか言って、人の溢れ出した想いを適当に断りやがったこの人に部室で突きつけた宣戦布告。あれから一年と半年ちょっとが経って、今日は遂に先輩の卒業式が行われた。


 先輩はやっと一人になった。クラスメイト、友達、部活の奴ら、後輩、ひっきりなしにいくつもの輪に囲まれては写真を撮ってプレゼントをもらってアルバムのメッセージを埋め合いっこしていた。校門を出て、駅に向かわない先輩は今だけ一人きり。


 帰りのバスを待つ先輩は、私を待ってはくれない。大きな背中から、抱えた花束が飛び出して見えている。反対の手には色紙と写真集の入った紙袋を持って、私の想いを受け止める手の空きはなさそうだ。


 卒業式の段階から先輩だけが視界に飛び込んできた。目で追いたいわけじゃなかったのに、意識的に探し続けて過ごした二年間が、レティクルを無意識に先輩に合わせさせる。窓越しに見た三年生の教室も、校庭でも、どれだけ人がいても、気づいたら見つけてしまっていた。


 先輩が一人になるタイミングを探していなかったと言えば嘘になる。けれど、ずっと誰かと一緒にいて欲しくもあった。うやむやにしてしまえたなら、どれほどよかっただろう。


 校門から見つめる距離、百メートル。あと三分で、先輩を連れ去るバスがやって来る。折った短いスカートで立ち尽くすのは寒すぎて、走り出すしかなかった。


「先輩」


 夏の日の再来のように大声を張り上げる。吸い込む空気が冷たくて、喉に刺さる。先輩が振り返って、紙袋を持ったまま手を上げる。ぴくりともしなかった肩が私に呼ばれるのを待っていたように思えて、地団駄を踏む代わり、はちゃめちゃに地面を蹴り飛ばす。


「先輩に用があります」


 先輩を見上げる位置に近づく。相変わらず吹く風が、先輩のサボンの匂いを嗅がせてくる。先輩を意識して、握りっぱなしだった右手に力が入る。


 これくらいのダッシュでは息は上がらない。先輩を見上げた先に広がる、一面の澄んだ青。


「先輩」


 口の中で大切に転がして、舌の上で包んで出した声。雲一つない晴天、今日は絶好の――。


「シーブリーズの蓋、返させてください」


 右手を取り出して開ける。手のひらの上にある淡い水色のシーブリーズの蓋。私が好きになったサボンの匂い。


「なんそれ、俺持って来てないよ」


 先輩は眉を寄せて、少しだけ力が入っていた肩を下げた。


 ――気が変わったら、告白しなくていいからね。


 あのとき、逃げ出す私の背中に投げられた言葉に身を委ねたふりをする。手帳に書き込んだ「告白日和」の文字は消せていないままのくせに。


「分かってます、使い切れなかったからどうしても返したいので受け取ってください」


 制服は第二ボタンだけが失われている。お揃いのサボンの香水を身に纏った女子キャプテンに渡ったのだろう。


「蓋だけもらってもなー」

「これあってもぜんっぜん試合で勝てなかったので、ご利益ないんですけど」

「卒部前に交換しようって勝手に言ったのはそっちじゃん」

「勝手にじゃないです、承諾してもらってました。でもいらないので返すんです」


 期待した。キャップの交換を受け入れてもらえたときは、時間さえ過ぎれば、今日が来れば、告白さえすれば、上手くいくと思っていた。算段が狂い始めたのは、新人戦で格下の相手に競り負けたときからだった。


「捨てといてよ」


 簡単に捨てられたなら、こんなに胸は痛んでいない。二人の交際報告をキャプテンから聞いた、昨日の卒部式。いつから、と誰かがした質問に、中学校の卒業式の日、と頬を染めて話すキャプテンは憎めなかった。


 手目蓋が腫れて一重になって、おまけに前髪も死んでいて、今日のビジュが最悪なことくらい自分が一番分かる。


「責任もって、もらってください」


 時間が過ぎていく。バスが早く来てほしいとも、永遠に来ないでほしいとも思う三分間だった。私は、この三分の間に先輩への想いを捨てなければならない。


「ゴミ押し付けるな」

「うわ、ひっどい」


 最低な奴。キャップの交換の意味くらい知ってるはずなのに、敢えて知らないふりをした。嘘をついて、告白をはぐらかした。そのまま待たせて、期待だけさせた。今日私から声をかけられると知っていながら、あわよくばバックレようとしてバス停に並んだ。


「で、用件はそれだけ?」


 全部知らんぷりをした目で、私の目を見下ろしてくる。真っ直ぐに、みたいなふりをして。


 一際大きな突風が吹いて、体温を奪う。バスが視界の端に現れると同時に、アナウンスが広がっていく。無意識に開きかけていた私の唇を、自分の意思で固く結んだ。


「勝手に捨てといてください。用件は以上です」


 紙袋に水色をねじ込む。先輩はムッと口を尖らせて、止まったバスに向き直る。


「じゃあね」


 またね、みたいなトーンの声色だった。こんなクズ、もう顔も見たくない。


「おめでとうございました、お幸せに」


 全ての気持ちをかき消すくらいの大声で投げつけた最後。先輩はまた紙袋を持ったまま手を少し上げて、微かなサボンの匂いだけ残してバスに連れ去られていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

告白日和 朝田さやか @asada-sayaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ