【KAC20241】乙巳の変

星羽昴

飛鳥 板蓋宮

 豊璋ほうしょうには三分以内にやらなければならないことがあった。



 645年6月12日。正確に言うなら、まだ大和朝廷には60進法で数える時間の概念はなかった。

 後に編纂される『日本書紀』に曰く、

 三韓から進貢の使者が来日し、三国の調の儀式が行われた。大極殿の天皇に向かい、倉山田麻呂くらやまだまろが上表文を読んでいる最中に、中大兄皇子なかのおおえのおうじが躍り出て蘇我入鹿そがのいるかを長槍で貫ぬく。遅れて、佐伯子麻呂さえきのこまろ葛城稚犬養網田かつらぎのわかいぬかいのあみたが剣で入鹿を斬った。


 多くの人々に「乙巳の変」或いは「大化の改新」と記憶されている事件である。



 倉山田麻呂は、既に上表文を半分以上読み進んでいる。当初の段取りなら、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の二人が、倉山田麻呂の隣に座す蘇我入鹿に斬りかかっているはずだった。

 あの二人。

 裏切ったか・・・それとも怖じ気づいたか?

 昨日までは、どちらが先に入鹿に剣を浴びせるかを競う気概を見せていたはずだ。ところが、儀式の始まる直前には食したものを嘔吐するほどに脅えてしまっていた。

 それほど、蘇我入鹿が恐ろしいのか?いや、違う・・・民に「蘇我入鹿を殺した者」と記憶されることが真に恐ろしいのだ。

 日本書紀は「入鹿の権勢を怖れ、盗人すら路に落ちているものを拾わなくなった」と記す。路に落ちているものを拾わない・・・とは、中国の故事では「治安の良い」治政を示す比喩だ。入鹿のおかげで民は盗人に脅えることのない平穏な生活をおくれるようになった。

 民は入鹿を称える。その博識と人徳から真人しんじんよも呼ぶ。


 倉山田麻呂の声がうわずっている。表文を持つ手も振るえだした。

「どうしたのだ。大丈夫か?」

 入鹿が小声で様子を伺った。倉山田麻呂の額に異様に浮き上がる汗に気付き、体調不良を気遣ったのだ。

「畏れ多い大役に、少々気が張ってしまいました」

 入鹿の気遣いに、倉山田麻呂も小さな声で応じた。

 今日の入鹿は、機嫌が良かった。そのため警戒心も弛んでいた。いつもは手放さない剣を、警備の兵に預けるほどに。

 本日の儀は、入鹿が推していた古人大兄皇子ふるひとおのおおえのおうじが正式な太子(皇太子)となる立太子の儀だ。大王おおきみである宝皇女たからのひめみこ(皇極天皇)より、古人大兄皇子が次の大王として名指されたことを知らしめるのである。


 藤原氏の『藤氏家伝』には、三国の調の儀式は「入鹿を誘い出す」ための鎌足のはかりごとだったと記されている。史実と照らしても6月12日には、三韓からの使者は大和に到着していなかった。


 間もなく倉山田麻呂は上表文を読み終わる。豊璋は必死に考える。

 入鹿は、国益重視で特定の外国に肩入れしない。賄賂にも動かない。入鹿と古人大兄皇子は唐や新羅とも均衡を保った外交を展開するだろう。

 豊璋は、百済より人質として大和朝廷へ身を寄せている。その祖国の百済は、いま滅亡の危機に瀕しているのだ。

 蘇我入鹿を朝廷から排除し、この国から百済救済を取り付けなければならない。

 いっそ、自分が入鹿に斬りかかるか?それとも弓で矢を射るか?

 いや、駄目だ。自分は所詮は異国人で、いざとなれば蜥蜴の尻尾のように斬り捨てられる。

 入鹿を手にかけるのは、大和朝廷で重鎮でなければならない!

葛城皇子かつらぎのおうじ様、これを」

 豊璋は、葛城皇子(後の中大兄皇子)に長槍を渡した。

「大王の第一子である、あなた様こそ次の大王に相応しいお方です。入鹿の好きにさせてはなりません。私が弓で援護します」

 豊璋から受け取った長槍を構え、葛城皇子は入鹿に向かって走り出した。

 葛城皇子はその名の通り、葛城稚犬養網田の氏族である葛城氏の庇護下で育てられた。葛城稚犬養網田とて、葛城皇子を捨て置くことはできない。

 予想通りだ。葛城皇子を追って葛城稚犬養網田が、剣を抜いて走り出す。その後に佐伯子麻呂も続いた。

 豊璋は矢を放って、葛城皇子を援護する。豊璋の放った矢は、葛城皇子の長槍より先に入鹿の背を貫いた。

 倉山田麻呂が上表文を読み終えるより、僅かに早くことはなされた。


 後に豊璋は、中臣氏に取り入って中臣鎌足を名乗るようになる。

 葛城皇子(後の中大兄皇子)に強く影響を与え、祖国である百済復興のために白村江の戦を決断させることになる。



 日本書紀には、古人大兄皇子が「韓人が入鹿を殺した」と述べたと記している。

 

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